パロディ問題について

【この記事の末尾に重要な追記があります。そこまで併せてお読みください(2019/7/17)】【さらに末尾に追記をしました(2019/8/4)】

 

 少女漫画雑誌「花とゆめ」14号に掲載された、ある読み切り作品について議論が起きている。この作品は、新人漫画家A氏が編集者B氏の指示により、有名少女漫画家C氏の絵柄に似せて描かれている*1。さらに、この漫画の内容は、ステロタイプ化された少女漫画のパロディになっている。この作品の発表後、「花とゆめ」の編集部には多数の抗議が寄せられた。また、漫画家C氏から、この作品について連絡等はなかったことを示唆する発言がSNS上であった。その結果、「花とゆめ」編集部は漫画家C氏と読者に向けて謝罪を表明した*2

 この問題について、漫画評論ブログ「漫棚通信」で以下のような言及があった。

「誰が誰にあやまるのか:花とゆめ2019年14号」

http://mandanatsusin.cocolog-nifty.com/blog/2019/07/post-6af73f.html

 

 「漫棚通信」では、今回問題になった読み切り作品は、少女漫画のパロディであることを指摘している。そして、パロディは重要な表現形式であり、漫画家C氏も寛容になるべきだという旨の発言*3をした上で、以下のように述べる。

現代日本、パロディはきわめて生きにくい時代となっています。いわゆるパクリと混同されることも多い。原著者に対して仁義を切らないと、パロディは存在することも困難です。田中圭一が原著者からどこまで許可を得ているかは知りませんが、本来のパロディは原著者に連絡など不要なのです。

 わたしの世代はパロディを崇高な権利として理解していました。本来パロディは原著および原著者に対する批判であり風刺であり、さらにはそれとは無関係のナンセンスな自己表現、のはずでした。これをわたしたちは筒井康隆長谷邦夫から学んだのです。パロディに対して著作権を行使して反対する行為。これを施行する原著者は、ケツの穴の小さいやつ、と思われていました。わたしは現在もそう思っています。

 以上のように、「漫棚通信」では、パロディの表現の重要性が述べられている。

 それでは、この記事に対して、私の見解を書いておきたい*4。私はある表現を分析する場合に気をつけるのは(1)表現意図(2)掲載媒体(3)表現内容の三つである。

 第一に、表現意図についてだが、「漫棚通信」の記事と同様に、私もこれは少女漫画のパロディとして創作されたと考えている。パロディは古代から続く表現のバリエーションの一つであるのは言うまでもない。「女たちの平和」で有名なギリシャ喜劇の作家・アリストファネスもパロディを取り入れている。また風刺画は政治の権力者に対する鋭い批判として作用する。パロディは権力や保守的な価値観を揶揄や皮肉によって、笑いの対象にすることで批判をする力を持っている。

 それでは、今回問題になった読み切り作品は、何を笑いの対象にしたのだろうか。「漫棚通信」によれば、既存のステロタイプ化された少女漫画である。繰り返し、少女漫画で描かれる図像や展開のパターンをなぞりながら、その表現をずらしたり変形させることで面白おかしく描き出す。こうした表現自体は禁止されるべきではないし、不当ではない。それに対しては私は賛同する。では、何が問題であったのか。

 私が問題にしているのは第二の掲載媒体である。少女漫画のパロディを、少女漫画雑誌に掲載するということは、その読者に対しての批判になる。これが私が今回、「花とゆめ」編集部に違和感を抱く理由である。「花とゆめ」は商業雑誌であり、読者が欲しい作品を提供するはずだ。時には挑戦的な作品によって、編集部から読者に新しい表現をぶつけることもあるだろう。だが、自分たちが大事にしている少女漫画の表現をずらしたり変形させたりしたものを見せられ、揶揄を用いて笑いの対象にされ、批判されれば、そんなことを期待していない読者が怒るのは当然のことだろう。クリームパンと書いてある商品にカレーパンが入っていれば怒るのである。

 たとえば、ある政治権力者の風刺画を発表するのは、官報ではない。体制に対して批判的な新聞である。権力者を批判したい人たちが買う媒体に、批判的な風刺画を掲載するのは合理的である。また、同人誌によるパロディについてどう思うのかと私に聞いてくる人もいたが、「花とゆめ」は同人誌ではない。少年漫画雑誌「サンデー」にスラムダンクの二次創作(パロディ)が掲載されることはない*5。なぜなら、同人誌ではないからだ。通常、編集部は自分たちの発行物の購買層を想定し、そこに受け入られる範囲の内容の作品を掲載するはずである。

 そうであれば、「花とゆめ」編集部は、自分たちの雑誌の購買層は、掲載された読み切りを受け入れると予測していたのだろうか。この作品について、少女漫画の「自虐だ」という人もいた。だが、自虐ネタというのは本人が望んで、自らの行為を笑いに変えていくから力を持つ。今回の作品を描いたA氏は、C氏の絵柄を利用してパロディ作品を描いており、他人をネタにして笑いをとっている。本当に自虐ネタだというのであれば、A氏は少女漫画家として地位を確立し、自らの作品をパロディの対象にすべきだろう。この読み切り作品は自虐ではない。

 加えて、なぜ少女漫画を読む人は自虐ネタで笑いを取らなければならないのだろうか。C氏の作品を子どもの頃から読み、ともに成長してきた読者もいるはずだ。なぜ、それを笑いの対象にしなければならないだろうか。そうしたい人はすれば良い。そうでない人に、他人が求めることではない。自虐ネタなどにせず、心の中でそっと守っておく人もいるだろう*6。C氏のファンが「花とゆめ」編集部に抗議したのはもっともなことだろう。

 なぜ、「花とゆめ」編集部はこのような反応が予想できなかったのだろうか。私は二つの推測をしている。一つ目はミソジニーにより「女性読者は抗議などしない(または相手にしなくて良い)と思い込んでいた」という可能性。二つ目は「編集部内でこの漫画はウケてしまい客観的な判断ができなかった」という可能性である。特に後者については、いわゆる身内ネタでは「メタな笑い」はウケる。その身内ウケをそのまま商業出版物にまで発展させてしまったのではないか。ただ、この二点は全くの憶測であるので、全く違う事情があるかもしれない。なんにせよ、私はこのように少女漫画雑誌に少女漫画のパロディが掲載されたことは不可解であるし、どういう理由があるのか知りたいところである。

 第三に表現の内容についてだが、私は当該の読み切り作品の掲載された号を入手できなかった。そのため詳しく立ちいることができない。だが、「漫棚通信」の中で記述されているのを読み限り、この読み切り作品ではC氏の絵柄に似せられたキャラクターが「「BEM=BUG-EYED MONSTER」たる巨大眼少女」として登場すると書かれている。「漫棚通信」ではC氏の絵柄を「バランスを失するほど眼が大きい少女の絵」と評している。だが、C氏自身は、眼を大きくしたのは子どもの認知能力でも表情を読み取りやすくするためだったと語っている*7。C氏が子どもに対する配慮として大きく眼を描いているの絵柄を選んでいるのに対し、A氏がその絵柄の特徴を掴む時にモンスターと名付けている。両者の漫画に対する姿勢を比較すると、A氏の絵柄の捉え方は非常に浅薄であると言えるだろう。

 当然ではあるが、パロディが力を持つのは、鋭い批判精神が作品に凝縮されている場合に限られる。それに足りる作品だったとは、上の絵柄に関する話では判断できなかった。つまり、A氏の読み切り作品はあまり面白くないから笑えないし、批判されたのはないか。

 極めて優れた作品は、辛辣な揶揄や皮肉を含んでいても、読者を笑わせてしまうエネルギーを持っている。その稀有な作品として、岡田あ〜みんの「ルナティック雑技団」を挙げておきたい。この作品に登場する天湖森夜(てんこもりや*8)は少女漫画に出てくる王子様のようなイケメンの学生で、大人しくていかにも可愛い主人公の女の子と出会う。そこから凄まじい勢いでギャグが展開されていく。この作品が掲載されたのは少女漫画雑誌「りぼん」で、ほかは王道中の王道の少女漫画が並んでおり、完全に浮いていた。岡田は少女漫画のパロディを、少女漫画雑誌に掲載していたとも言える。岡田にもアンケートなどで、作品の酷評は届いていたようだが、熱狂的に支持する読者もいた*9

 第一と第二の話をひっくり返すことになってしまうが、面白ければパロディは様々な批判を吹き飛ばす。その力が今回の読み切りには残念ながらなかった、という結論で良いように私は思う。

新装版 ルナティック雑技団 1 (りぼんマスコットコミックス)

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追記

 いくつかのブコメへ応答しておく。

id:min222 色々書いてあるけど、これ書いてる人は花ゆめに載ってる漫画読んだことなさそうと思った 

 それは誤った推測なので訂正を求める。この記事を検索すれば、「花とゆめ」に掲載されている「ガラスの仮面」の感想が出てくる。私は少女マンガ全般が好きなので、「花とゆめ」に掲載されている作品もいくつも読んでいる。印象に残っているのは「ツーリング・エクスプレス」「僕の地球を守って」「闇の末裔」「フルーツ・バスケット」など。ただし、雑誌ではなく単行本で読んでいるため、雑誌の売り上げに貢献していないことは認める。

id:greenT 少年漫画ではドラゴンボールのパロディを銀魂でやったりとか普通なので、ここに何の問題があるのかわからなかった。面白くないパロディは攻撃されてよいというスタンスならわかるけど普段の氏のスタンスと合ってる?

 自分で検索してみたら11年前にはもっとはっきりと書いていた。今読むと文章が稚拙で目も当てられない記事だが、リンクを載せておく。だいたいいつも同じことを考えているので、特に変わりはない。

「正しいことと、それがどうでもよくなること」

https://font-da.hatenablog.jp/entry/20080331/1206979753

 私はポリティカル・コレクトネスを揶揄する人々のことは批判するが、ポリティカル・コレクトネスでは解決できない問題があることは認める。ざっくりと感覚的に言うと、表現の問題の9割はポリティカル・コレクトネスで解決するが、残りの1割は解決しないと考えている。

 id:solailo ううむ。ある程度なるほど、と思いながら読んだのだけど、font-daさんが読まずに「たぶん面白くなかったんだろう」と結論するのは残念。読めなかったならコメントを控えるか、読んだ上での感想をのべてほしかったな。 

 おそらく、もうこの作品は出版社が公開停止したため、入手できない。入手できるならば、ご自身で読んで私を批判する記事を書けばいいと思う。

id:ht_s ジャンプのギャグ漫画とか読んだことない人? >少女漫画のパロディを、少女漫画雑誌に掲載するということは、その読者に対しての批判になる 

 「すごいよ‼︎ マサルさん」と「ボボボーボ・ボーボボ」は好きだ。

追記2(2019/7/17)

ブクマコメントで id:motidukisigeru さんから次のようなコメントいただきました。

id:motidukisigeru 「ロマンスとバトル」は恋愛を否定するバトル漫画世界に放り込まれた少女が、依存的ヒロインから脱却し、恋愛の力で世界画を改革する話で、少女漫画への批判どころかフェミニスト的な観点からも面白い話である。読め

 この情報をもとにすれば、十分に批評精神を持ったパロディとして作品が成立している可能性があります。もし入手でき、そのことが確認できれば、私のこの論は撤回し、作品の公開を求める立場となります。同じく読んで「作品がパロディとして優れている」と評価する立場の方からの、私への批判は今後もぜひお待ちしています。

(ブクマコメで「アマゾンから買える」ということを知り、衝撃を受けました。とりあえず注文しましたので、届けば私からも追記を書きます)

追記3(2019/8/4)

 上の追記を書いてから、作品を入手して読んだが、作品の評価も記事の内容も変更の必要はないと、私は考えている。面白くない作品*10については、あまり言及しないようにしているので、今後も触れない。

 また、この作品を「面白い」と評する記事が出ているので、以下にリンクしておく。

種村有菜さんと絵柄が酷似」として白泉社が謝罪した、花とゆめの読切作品『ロマンスとバトル』は面白かった

https://topisyu.hatenablog.com/entry/2019/08/04/132900 

 この記事を書いたid:topisyuさんが最後に挙げている「ここは今から倫理です。」も、私は1巻で読むのをやめてしまったので、漫画の好みが私とは違うのだろうと思う。

 そう考えていると、topisyuさんの記事にブックマークコメントでid:anigokaさんがこんな風に書いていた。

さすがトピッシュ先生どっかの偶蹄目と違ってちゃんと読んでる!

 この「偶蹄目」という言葉を何か私が知らなかったので検索すると、ウィキペディアに、生物の分類であると解説されていた。代表的なのは「カバ、イノシシ、ラクダ、キリン、ヤギ、シカ」である。anigokaさんのという「どっかの偶蹄目」とは、ここに入っている「キリン」、すなわち私(=font-da、アイコンはキリン)のことだろう。

 これは上手いメトニミー(換喩)である。換喩というのは、人・ものの特徴的な部分を取り出して、その言葉で人・ものを指すことである。私はキリンではないし、キリンに似てもいないが、「キリン」という単語は私を類推することができる。それをさらに「キリン」の属する「偶蹄目」という言葉に置き換えることで、「知らない人は何のことかわからないが、知っている人はぴんと来る」ような隠語になっている。

 ここで私はどちらかというと揶揄されているわけだが、この「偶蹄目」という表現のせいで笑ってしまった。「偶蹄目」というのは耳慣れない言葉だし、響きも変わっているからだろうか。理由はなんであれ、こうやって対象にしている相手さえ笑わせてしまうのが、表現の力である。別に面白いからといって、揶揄の攻撃性がなくなるわけでもない。が、この話の流れで笑ってしまったので印象に残った。

 

*1:名前を伏せる必要はないと思うが、編集部の意向に沿ってこの記事では仮名としている。

*2:花とゆめ14号よみきり作品に関するお詫び」

https://www.hakusensha.co.jp/information/55225/

*3:漫棚通信」ではC氏に言及した後に「本作の作品構造、さらにマンガと模写の歴史について考えを及ぼせば、本作のキャラクター造形も許してくれるのではないか。」と書いている。これは、パロディだということを理解するならば、原作者はいかなる表現も寛容すべしという、規範のように読める。

*4:私は研究者ではあるが、漫画については専門的な研究方法・論文の作法を身につけているわけでなく、あくまでもエッセイ等を書く立場にある。

*5:今回、抗議をした少女漫画の読者に対し、偏狭だという声もある。だが、少年漫画雑誌「ジャンプ」に女性読者が増えた時、「女(特に腐女子)のせいで少年漫画が面白くなくなった」とネットで声高に言う人はたくさんいた。また、二次創作(パロディ)作品は原作に対する侵害だとして、女性作家を攻撃した人たちもいた。こういうことは棚に上げているのだろうか。

*6:もちろん、これは他者からの批判にさらされることとは違う。「批判するな」と「自虐したくない」は別の話である。

*7:これについては、インタビュー記事で読んだ記憶があるが見つけることができなかった。代わりにC氏のツイッターでの関連する発言を見つけたのでリンクしておく https://twitter.com/arinacchi/status/306718043243966465

*8:これは関西弁の「てんこ盛りや」(=山盛りだ)からとっている

*9:私は大好きで友だちと回し読みしてゲラゲラと笑った

*10:これは批判すべき作品とは違う。

自著への書評・レビューをいただきました。

 このたび、品川哲彦先生より拙著『性暴力と修復的司法』に書評をいただきました。関西倫理学会編『倫理学研究』第49号(2019年)に掲載されております。

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

 

  品川先生はこれまで、『正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理』で修復的司法とケア倫理の関係について言及されています。まさに専門分野の研究者から書評をいただくことになり、大変嬉しく感謝しております。

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

正義と境を接するもの: 責任という原理とケアの倫理

 

  書評においては、私のコミュニティ概念の扱いの問題点を批判されています。この問題について今すぐにアンサーを出すことは難しいのですが、自分の弱みを明確化していただき本当にありがたく思っています。

 現在、私は環境犯罪と修復的正義の研究に取り組んでいますが、そこでも「誰のどのようなコミュニティを想定するのか?」という、コミュニティ概念の問題に突き当たっています。ここで問題となるのは、動物や植物、海や空などの自然総体をコミュニティメンバーとして認めるのかどうか、です。これについては、論文の執筆を重ねて論考を積み重ねているところです。

 性暴力の問題を考えている時には、私の念頭にあったのは人間だけのコミュニティでした。他方、環境犯罪の問題に取り組みはじめ、人間以外(non-human)を含むコミュニティの可能性を検討していくうちに、自分自身が「コミュニティとは何か」をどう考えているのかは明確になっていくように思います。まだ、分析を始めたばかりですが、この書評でご指摘いただいた問題点について、自分なりの応答を出せるよう、研究を積み重ねていきたいと思っています。

 また、アマゾンレビューに拙著について嬉しい評をいただいていますので、以下で転載いたします。

法廷は「劇場」なのだろうと思います。
裁判官や弁護士、検察官、そして被告などの役割を割り当てられた人々が、審議を進めます。
多くの場合、被害者が加害者と真っ当に話す機会は乏しいのが現状でしょう。

でも犯罪被害者の中には、罰則や賠償だけでなく、加害者との「対話」を望む人たちもいます。そんな人たちにとって、既存の司法は時に役に立ちません。

こうした限界をもつ既存の司法とは異なるアプローチで、被害者と加害者に「対話の場」を提供しようとするのが、修復的司法です。

本書では、犯罪の中でもより繊細な対処が必要となる「性犯罪」に対する修復的司法の可能性を追求しています。

かといっていたずらに「対話」の意義を強調するのではなく、全ての性暴力の被害者が修復的司法に参加する必要がないことや、必ずしも「赦す」契機が訪れなくてもよいことにも注意を促しています。

繊細に論理を展開しながら、「対話の可能性」という希望を描き出しておられます。

安易に希望は述べないけれど、かといって悲観的にもならない。そんな著者の考え方がにじみ出ているように思い、好感が持てました。

性暴力への修復的司法の可能性を考察した力作

 このような評をいただくことが、大変励みになります。書いてくださった方、ありがとうございました。

 

 

恋愛・結婚しないのは「権利の行使」なのか?

 シロクマ(id:p_shirokuma)さんの以下のような記事がネット上で話題になっている。

「恋愛も結婚もしなくなった日本は未曾有の先進国」

https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20190624/1561360692

 

  シロクマさんによれば、日本で男女が結婚・恋愛をしなくなったのは、文化的因習がなくなったためである。「結婚・恋愛しなくてはならない」という規範がなくなった結果、人々は資本主義に則って経済的に不利であるから(=コスパが悪いから)、そのような関係を求めなくなったとシロクマさんは分析する。さらに、シロクマさんは、特に東京の人々にはそのような振る舞いが顕著であり、これは日本社会における模範であるとし、次のように述べる。

自分自身が恋愛可能かどうか、ひいては子育て可能かどうかを、模範的な未婚男女はしっかり考える。経済合理性にもとづいてよく考え、可能なら、恋愛や結婚を選択肢のひとつとみなす。もちろん東京のような都市空間では子育ては難しいから、東京の未婚男女はしばしば結婚を諦めるし、ときには恋愛をしようという気持ちすら起こさない。少子高齢化という視点でみればゆゆしき事態だが、経済合理性の透徹という意味では、きわめて洗練された身振りだ。

 以上のように、シロクマさんは東京の人々が恋愛・結婚しないのは、経済合理性に基づく選択であるとみなすのである。他方、シロクマさんは、「欧米*1」の人々はカップル文化やデート文化といった文化的因習があるから、恋愛・結婚をする、いまだ自由のない社会であると分析する。シロクマさんが考えるのに、恋愛・結婚に向けた「出会い」を求めるとは偶然性に満ちたことであり、予測不能なことであるので、経済合理性を妨げる。そのため、シロクマさんは、現代の日本社会における「出会い」は人々にとってノイズであると考える。そして、以下のように結論づけている。

 資本主義や社会契約や個人主義が徹底して、「出会い」というノイズが減っていくのは、少子高齢化という視点でみればおそらく危機だろう。しかし、資本主義・社会契約・個人主義の進展、civilizationという視点でみれば未曾有の達成であり、社会制度や慣習が人間の生殖本能を制圧した記念碑的状況といえるのではないだろうか。
 資本主義や社会契約や個人主義を司る人々は、この現状を嘆くべきではなく、賛美すべきではないかと私は思う。

  以上のように、シロクマさんは「資本主義や社会契約や個人主義」を支持するのであれば、社会は結婚・恋愛をしない方向に進むというのである。これについて、私から以下の三点について指摘しておきたい。

(1) 「恋愛結婚」こそが近代の「個人主義」の産物である

 近代以前の結婚制度は、「財産の相続」と「共同体秩序の安定」のために設けられていた。ところが、近代になると個人の内面に焦点があたり、「親密性」に基づく家族観が醸成されてくる。その結果、「恋愛結婚」が樹立されていくのである。個人の感情や経験に基づいて、自己の選択として結婚する相手を決める権利が付与されていくのである。日本でも憲法24条において「結婚の自由」が認められており、誰と結婚するのかについて、結婚する当事者の意思が最優先されるのである。

 しかしながら、シロクマさんのいうところの、恋愛・結婚の文化的因習が真に作動している社会においては、結婚は当事者の意思ではなく、親族に決定権が与えられる*2。すなわち、文化的因習によって結婚・恋愛しなければならない社会では、「出会い」は重視されない。むしろ、こうした社会でこそ、「出会い」はノイズである。いく世代か前は(そして現代においても)、「出会い」によって恋に落ちた人々が、文化的因習によって望まない相手と結婚したというエピソードは溢れている。いわゆる「親のための」「イエのための」結婚である。

 したがって、「出会い」に基づく恋愛結婚は、個人主義によって生まれてきた。また、結婚を共同体を維持するための親族関係ではなく、社会契約とみなす思想も近代において現れた。概括すると、近代以降において、恋愛・結婚することは「自由に配偶者を選ぶ」という「権利の行使」になった。文化的因習が撤廃されたからこそ、恋愛結婚が可能になったのである。人間は自由になると恋愛結婚しないのではない。人間は自由になったから恋愛結婚をするようになったのである。この点をシロクマさんは書き落としているように見える。

(2)「合理的判断」と「偶然の忌避」は別の問題である

 合理的判断とは、物事に対して何が正しく、何をすべきかを判断することである。なぜ、近代以降に全ての人々に様々な権利が与えられたのかというと、人間はみな、合理的判断に基づいて権利を行使できるとみなされたからである。女性になかなか権利が与えられなかったのは、女性には理性がなく、権利を与えても合理的判断ができないという差別・偏見が根強かったことに一因もある。また、長らく続く(特に知的・精神)障害者差別も同様である。(1)で述べた恋愛結婚において、その権利を行使する場合にも、合理的判断に基づくことが前提とされている。恋愛結婚ができるのは、その人々が合理的判断に基づいて権利を行使しているとみなされているからである。

 それでは、恋愛結婚をする人は偶然的な「出会い」というノイズに直面しつつ、どうやって合理的判断をくだすのだろうか。それは、人間の常に多面的な思考を同時に行なう能力によってである。確かに「出会い」というのは予測不可能であり、経済合理性とは関係がない。もっと言えば、「恋に落ちる」とは最も不条理なことである。「好きになる相手を選べない」ということは、巷にあふれる恋愛についてのエッセイや創作物で繰り返し描かれてきたことである。では、そうした感情的で理性を超えた事象の前に、理性は屈するのだろうか。そういう場合もあるだろう。だが、人間は自分に起きた事象を突き放して合理的に思考することが可能である。むしろそうであるからこそ、人々の結婚の自由が与えられたことは前段で述べた。人間は不条理な状況においても、合理的判断を下し、結婚を選択するとみなされているのである。

 さらに、この結婚が合理的判断であるというのは、「みなし」でしかない。実際にはとても理性の働かない状況で結婚することを選択する場合もあるだろう。だが、近代法においては、「結婚は合理的判断に基づく社会契約である」ということになっているので、結果としてそうみなされるのである。もし、合理性を追求する立場であっても、「出会い」を忌避せずに、偶然的な状況の中で合理的判断をくだすことは可能である。少なくとも、その行為を合理的であると呼ぶことはできる。したがって、シロクマさんのいう、現代日本の人々が合理性を追求するがゆえに、恋愛・結婚しないというロジックは成り立たないのである。加えて言えば、「欧米」の人々は文化的因習に縛られているから恋愛・結婚するのではなく、「出会い」という偶然を忌避せずに、その状況の中で合理的判断として結婚することを選択している、とも言うこともできるのである*3

(3)権利は保障されて初めて行使される

 (2)で考えてきたことに即して言えば、欧米では合理的判断に基づいて恋愛・結婚がなされているのに、日本ではできないことになる。その際に、比較すべきことは結婚ひいては子育てについての制度だろう。この点については、欧米はひとくくりにできない。シロクマさんが記事の中で言及しているフランスに限って言えば、離婚後の生活再建やシングルによる子育てに対する支援制度が充実している国である*4。また、PACSと呼ばれるパートナーシップ制度が設立され、婚姻と同様の税制上の措置が受けられながらも、離縁後の手続きが婚姻よりも簡単である。フランスではこうした制度上の保障により、恋愛・結婚したあとも、合理的判断に基づいて人生を別の方向へ舵取りできるのである。

 それに対して日本はどうだろうか。日本における子育て支援策は貧弱であり、婚姻していても育児する保護者の負担は課題であることは言うまでもないだろう。ましてや、シングルマザーの貧困率は先進国でも突出して高く、離婚後の生活再建は大きな課題となる。また、子どもがいなくても、女性の労働についての不平等もあり、離婚後の賃労働による収入も著しく低いことが多い。さらに周囲の人々の離婚した当事者への差別・偏見も強く、いまだ「離婚する人=問題がある」とするような価値観も根強い。こうした状況の中で、DVにあっていても離婚できない被害者は少なくない。一度、結婚してしまうと、その後の人生の舵取りは困難である。こうした状況は、(特に女性に対して)間違いなく結婚することへのハードルをあげているだろう。

 日本において、恋愛・結婚をすることを進める人々は、それらのポジティブな側面を強調する。家庭を持つことで責任が芽生え、子どもを持つことで思いもよらない幸福な経験をすると言う。だが、いくらポジティブな側面を強調しても、ネガティブな側面はなくならない。「もし、うまくいかなくなったら」「もし、暴力を振るわれたら」という不安を人々は常に襲うだろう。それに対して、目の前にある危険を無視して飛び込め、と言われても多くの人々は尻込みする。なぜなら、日本ではもしそこで窮地に陥っても「自己責任」だと言われて、支援を得られないからである。そのため、合理的判断はリスクを避けることに重きを置く可能性が高い。他方、フランスのように十分な支援の制度があれば、人々はネガティブな側面への不安をやわらげ、恋愛・結婚へ飛び込むように背中を押すかもしれない。もちろん、それでも恋愛・結婚を望まない人はいるだろう。だが、フランスでは恋愛・結婚は活発になり、日本では消極的になったのだから、保障制度を比べてみる限り、前者の策が良かったと判断するのが妥当だろう。

 以上のように、自由が法に明記され、法的に権利が付与されるだけでは、人間が行動に移すには不足である。人間は、権利に関する十分な保障があって初めて、権利を行使するようになる。翻って見れば、権利を行使しないことは十分な保障がないからだとも言える。すなわち、現代日本の人々が恋愛・結婚しないのは、その権利を行使しているのではなく、恋愛・結婚する権利を行使できない状況にあるとみなせるのである。

 ここまで、恋愛・結婚する(そして少子化を解消する)方向で話を進めてきたが、私自身が実際に少子化の解消を望んでいるわけではない。なぜなら、現代日本の人口は近代国家の政策によって過剰に膨れ上がったと考えているからだ。近代以降、国家は戦争に行く兵士を育てるために、「富国強兵」の一環として人口政策を進めてきた。その政策のもとに日本の人口は増えた。しかしながら、戦争を放棄し、今後も平和な社会を存続させるのが前提であれば、人口が増えるべき理由はない。

 他方、日本の年金制度をはじめとした保障制度は、人口増大を前提として設計されている。いずれこのまま少子化が進めば、その制度はすべて破綻するだろう。そのため、国家は経済的合理性に基づいて、恋愛・結婚することを求めているのである。それは、シロクマさんが言うのとは逆に、人々から偶然性を奪い、管制の婚活サービスで「出会い」を作り、子どもを産むことを進めるような政策として反映される。おそらくこの政策は失敗に終わり、少子化は止まらないだろう。そして、年金制度は破綻するだろう。そうであれば、縮小する人口に合わせた新たな社会保障の制度設計が必要なはずである。現在の政府はそれを先延ばしにし、実効性のない恋愛・結婚を人々に勧める政策を打っている。私自身は、少子化解消よりも、日本の社会の現実を見据えた社会制度の議論が始まることを望んでいる。

*1:この文脈において、欧米というのはカテゴリが大きすぎる。ヨーロッパ・北米における恋愛・結婚に対する価値規範は大きく異なる

*2:なお、自民党改憲案において配偶者の選択の自由の文言を削除している。この改憲案がイエ制度の復活させる可能性があることについて、山口智美さんが繰り返し指摘している。→

https://blogos.com/article/340814/ 

*3:これはあくまでも論理的に言い得るということであり、実態の分析ではない。

*4:その理由は移民流入により「白人」の「フランス人」の割合が減少したことに対する対抗策が取られたことでもあるので、一概に賛美はできない。だが、もちろん「白人」以外も支援制度は利用できることは言うまでもない

「男」に「男」は救えるか?

 ここのところ、はてなの匿名ダイアリーで、(シスヘテロの)男性と男性の関係についての、男性の書き手による記事が次々と公開されて、ブックマークを集めている。

 これまでネット上では「弱者男性」を名乗る人たちが、(経済力のある)女性は(経済力のない)「弱者男性」と結婚して扶養することにより救うべきだという主張をすることがあった*1。それに対して女性から、男性は女性に救いを求めるのではなく、男性に救いを求めるべきだという指摘が寄せられることはよくある。

 今回、次々と公開される記事は、男性と男性が人間的に(または情緒的に)繋がることによって、男性が救われることについての困難が言語化されている。

男同士が遊ぶことに楽しさがないわけじゃない。
ただ安心して弱さを見せ合い、ベッタリともたれ合うことはできない。
いわばスポーツや対戦ゲームみたいなもんで、調子のいい時、面白いとき、人生が恵まれている時にお互いのいいところを出し合うぶんには男同士が楽しいが、具合が悪くて辛くて悲しくて貧しくてグズグズな時にそのグズグズを男同士で絡ませ合うのは気持ち悪くて大体の人には無理だ。
「シスヘテロ男は(男も?)男が嫌いだから、女にしか救えない」( https://anond.hatelabo.jp/20190617221819 )

ていうか男は怖いから女に救ってもらうしかない。女叩きをしていた奴らも、男から冷遇されなかったわけじゃないはずだ。男同士の関係が築けていたなら、多分女なんてどうでもよくなる。でも男に刃向かうのは怖いから、女を叩くしかないんだよ。女叩いてる時間、そのコミュニティだけは同性の強い肉体を持つ仲間がいるんだ。男は怖いが男を怖いと言ってはいけない気がしていた。

「おっさんはおっさんが大嫌いだし弱い男はもっと嫌い」( 

https://anond.hatelabo.jp/20190618201336 )

 

 これらの記事に対して、男性同士で繋がっていくことで救われるストーリーを描きたいという、青年誌の男性漫画家の記事が寄せられた。

女性漫画家の描く『生きづらい人の生き方漫画』みたいなものばかりという事に気付いた。
この『生きづらい人の生き方漫画』というのは大体アラサーから中年期の女性が
地味な実生活での生きづらさを感じながら身近な別の生きづらさを抱えている人との交流で
なんとなく納得して生きていく事にする、という感じの流れが多いと思う。
恋愛の描写よりは生きづらさとの折り合いという所に重点が置かれているものが多く
そこに共感できるので読んでいてどこかせつなく心地いい。刺さる場面も多い。
地味だけどみんなそれぞれ色々な事情があるという当たり前の事が描かれていて
これがぼくには女性はこうして生き方を模索しているのだなという風に見えるのだ。
実にうらやましい。
男にはこうした何者でもない人が前向きに生き方の模索をするという文化が無い気がしている。

「男の生き方」( https://anond.hatelabo.jp/20190620231440 )

 

 上の漫画家の記事は、女性の漫画家は、女性の生きづらさが「身近な別の生きづらさを抱えている人との交流」によって救われるストーリーを描いており、(おそらく主たる読者層である)女性に受け入れられていることを指摘している。それに続いて、記事は男性向けの漫画雑誌では編集者からこのような企画は拒絶されることが多いことを述べている。

 この記事で挙げられている作品はほとんど私も読んでいるが、世代や文化の違う女性たちが出会うことで、自分の価値観を相対化していくなかで、自分の人生を見つめ直して肯定するようなストーリーをたどる。(もちろん、その道筋はまっすぐではない。)こうした作品で、読者は登場人物の行動に過去の自分を重ねたり、共感して感情を揺さぶられたりするなかで、「女性」が「女性」との繋がりに救われるプロセスを再体験することができる。 

メタモルフォーゼの縁側(1) (単行本コミックス)

メタモルフォーゼの縁側(1) (単行本コミックス)

 
凪のお暇(1)(A.L.C・DX)

凪のお暇(1)(A.L.C・DX)

 

  もちろん、すべての人がこうした作品で救われるわけではないだろうが、この記事を書いた漫画家が言うように、男性版のこうした「同性の繋がり」に救われる作品があれば、一部の(孤独を感じている)男性は人との繋がりで生きていくことへの希望を見出せるのではないだろうか。

 男性の「同性の繋がり」の重要性は、実は全く異なる分野のカナダのフェミニストのノンフィクション作品『BOYS 男の子はなぜ「男らしく」育つのか』の中でも指摘されている。この本は2019年3月に日本語訳が出版されたところで、ツイッター上では話題になっており、私も早速購入して読んだ。

ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか

ボーイズ 男の子はなぜ「男らしく」育つのか

 

 この本の筆者であるギーザは、レズビアンでありフェミニストである。ギーザは、女性のパートナーとともに養子である「男の子」を育てることになり、「男子」の問題に直面した経験からこの本を書いた。どうすれば男子がのびのびとしたマスキュリティに(男性性)を獲得し、暴力を振るわずに、社会の中で女性とともに生きていけるのかを模索した本である。

 この本では、ニューヨーク大学の心理学者であるナイオビ・ウェイの著作が詳しく紹介されている。その該当箇所を引用しよう。

 この10年のあいだに、若い男性たちの境遇や「男の子の危機」について懸念する内容の本や記事はたくさん書かれているが、彼らの心理的健康や社会的健康について分析したものはほとんどない。しかし、ウェイの描き出す少年たちは一貫して感情的サポートと愛情の必要性を訴えている。14歳のカイはこう語る。「友達は必要だよ。友達がいないと、落ち込んで、幸せじゃなくなるし、自殺したくなると思う」。親友のどんなところが好きかを聞かれたベンジャミンはこのように答えている。「ほとんど全部。親切なところや、全部だよ。周りの人を大切にするし、それはぼくも同じなんだ」。

 男の子は女の子よりもコミュニケーション力が低く、弱さを見せたり親密な関係を築いたりすることが苦手だという考えが定着しているが、男の子も同じくらいそれらの能力をもっていることを、ウェイは明らかにしている。「男の子には、とても豊かな感情がありますが、どういうわけかそれは見過ごされています」と、ウェイは私に語る。(111ページ)

 

 以上でギーザがウェイの紹介の中で述べているように、男子は思春期に非常に親密な「同性の繋がり」を持ち得る。この後のギーザの記述を読むと、ウェイの分析によれば男子は「秘密を共有すること」で絆を深めていく。その理由は「スポーツやビデオゲームのような「男の子らしい」共通の興味のためではなく、共有している感情的領域(112ページ)」のためだという。男子が声変わりをはじめとした身体の変化の戸惑いを無防備に話せるのは同性に対してだけなのである。ところが、思春期の後半になると男子は「同性の繋がり」ではなく、女性との恋愛関係に意識が向かう。なぜなら、真に親密になるべきは男性同士ではなく、女性であると教わるからだと、ギーザのウェイの研究の紹介では述べられている。

 ここで示唆されていることは、思春期後半の男子は「男らしさ」を求めて、親密な「同性の繋がり」を絶ってしまうことだ。弱さや共感力は「男らしさ」から遠ざかるため、ないことにされてしまう。しかしながら、男子は生まれつき、男子が情緒的な繊細さや共感力がないわけではない。女性が社会に適応するなかで女らしくなるように、男子も教育や文化的背景によって男らしくなっていく。ギーザはこの本の中で、いかに男子が「男らしさ」を身につけていくのかを明らかにしている。

 それと同時に、ギーザがこの本で取り上げるのは、男子のための数々の教育プログラムである。その多くは、男子がリラックスして自分の弱さや感情を打ち明ける体験をすることに重きが置かれている。ふざけたり茶化したりせず、性の問題に向き合うようなプログラムも含まれている。そして、男子同士の友情が育まれ、「同性の繋がり」の中で弱さや葛藤を打ち明け、その秘密を共有する中で、男子は「男らしさ」から解放されていくという青写真が示されている。

 

 さて、偶然だが、男性の「同性の繋がり」の重要性に正面から向き合うアニメ作品が日本で放送されていた。「さらざんまい」である。(脚注で大きくネタバレしているので閲覧注意)

幾原邦彦「さらざんまい」

http://sarazanmai.com

 

 

 この作品は3人の14歳の少年を中心に進んでいく。かれらはそれぞれに、「人との繋がり」に葛藤を抱え、「うまく繋がれない」という気持ちを抱いている。少年たちは、カッパの国の王子けっぴによって、カッパにされてしまう。この作品ではカッパとは「生きていて、死んでいる」、つまり、あの世とこの世の境目に住んでいる生き物である。少年たちは、現世で中学生として生活しながら、時折、欲望に取り憑かれた敵・カパゾンビを倒すことで、カッパの皿を集め、自分の願いを実現することを目指す。

 この作品の肝となるのは、カッパがカパゾンビを倒すときには、「さらざんまい」という技(?)を使うことである。この技を使うと、カッパ同士の秘密がバレてしまうことになる。3人の少年たちは誰にも知られたくないと思っていた秘密を、無理やり共有させられる中で、深い絆を得ていく。その中で、自分の「人との繋がり」の課題に直面し、お互いに親密になりながら、思春期を乗り越えて自己のアイデンティティを獲得し、カッパから人間に戻って現実世界*2に帰着するのである*3。「さらざんまい」は一見、衒学的な言葉の飛び交う不思議な幻想世界の話に見せながら、実質的には少年たちの青春ストーリーであり、素朴な成長譚である。

 この作品は、先に紹介したギーザの著作で言われている、男子の「同性の繋がり」を取り戻し、その価値を再認識している面がある。少年たちは弱さや葛藤を晒し、秘密を共有することで親密さを深めていく。そのことによって、救われるのである。この点で「さらざんまい」は「男」が「男」を救う作品なのである。

 男子の友情を描いた作品はこれまでもたくさんあるが、多くは「スポーツ」や「バトル」の中で協力しあってライバルや敵を倒すことに焦点が当てられる。「目標」が設定され、それに向かってストーリーは展開するのである。他方。「さらざんまい」はひたすら少年たちの「繋がり」に対する葛藤が描かれる*4。そして、最後に達成されるのは「勝利」や「成功」ではなく、「同性の繋がり」である。こんなふうに正面から「同性の繋がり」の問題に向き合った作品*5はあまりないように思われる。ストレートに男子に対して「同性の繋がり」の重要性を説き、未来へ向かって生きるエールを送る作品で、カタルシスを得る男性もいるのではないだろうか。

 もちろん、この作品は「大人の男性(おっさん)」はほとんど登場しない。おっさんが登場するとすれば、欲望に取り憑かれてカパゾンビになってしまった人々であり、誰とも繋がれずに外部に放り出されてしまった存在かのようである。ここに直接的なおっさんへの救いはないだろう。他方、この作品は「これからおっさんになる人々」(=若い男子)の救いにはなるかもしれない。私には、この作品が男性(幾原監督)の過去の自分への手紙のようにも見えた。同性で繋がることを諦めてしまった少年、同性愛関係を忌避しようとした青年、そしておのれの未熟さで絶望を受け止めきれなかった成年男性、こういった「人との繋がり」で失敗したさまざまな経験を折り重ねるようにして、作品のなかに多彩なキャラクターが登場する。その中で最後まで「欲望を手放すな」「繋がることを諦めない」と登場人物に叫ばせ続けたのは、自分のためではなく、これからを生きる少年たちのためではないか*6。これも一つの「同性の繋がり」のあり方だろう。次の世代はもっと男子の「同性の繋がり」は親密になり、当たり前に「男」が「男」を救う時代が来るかもしれない。その願いを託した作品として観ることもできるように思う。(ただし、私の見ている限り、視聴者の大多数は女性である。)これは「男」に「男」は救えるか?という問題の、一つのアンサーだろう。

 

追記(2019/6/25)

 誤字脱字等の文章上のミスを修正しました。

 

*1:わかりやすい例としては2006年の赤木智弘「『バックラッシュ!』を非難する」( http://journalism.jp/t-akagi/2006/07/post_136.html )

*2:印象的だったのは、最終回のエンディングで少年の一人が少年刑務所に服役する場面が描かれたことだ。彼は坊主に頭を刈られ、刑務作業を行っている。彼は14歳であるので少年法の範疇であるが、おそらく殺人を犯しているため検察官に逆送致され、懲役刑ということになったのだろう。矯正教育がアニメの中で描かれること自体が少ないが、そのあと出所し、友人とともに生きていく「再出発」のストーリーになっているのは初めて見た。荒唐無稽な話でもあるので、彼の殺人については触れなくてもアニメ作品では許容されたように思うが、しっかりと「罪を償う」ことと「それでも未来へ向かって生きる」ことが物語に含まれたのは意外だ。(個人的には犯罪の問題を研究してきたので、こういうふうに描かれたことは嬉しかった)

*3:昨夜の最終回はツイッターなどで、3人は自殺しているのではないかという説が流れている。その時に、3人が飛び込んだのは「三途の川」であり、けっぴが「この河を渡れ、もう戻れないのだから」というセリフは「死」を意味するのだと解釈されている。だが、この作品の枠組みは精神分析に依っており、ここで使われる「河を渡る」という比喩は、「快楽原則の彼岸と此岸」のことだろう、と私は思う。「快楽原則の彼岸」とは神経症の患者が苦痛に満ちた行為(たとえば自傷行為)を強迫的に繰り返すことである。患者は無意識に自ら悲劇的な体験を反復することで自己を保っている。これを「さらざんまい」の結末と重ねれば、少年たちが、「人との繋がり」から逃避して自らを苦痛に追い込む「快楽原則の彼岸」から、河を渡って向こう岸の「快楽原則の此岸(欲望の成就)」を目指すというメタファーだととれる。繰り返し出てくる「欲望を手放すな」というセリフとも一致する。

*4:カパゾンビやカワウソ帝国ら、「敵」らしきものも登場するが、最後にはこれらは全て「概念」であり、自己が生み出すものだと明かされている。つまり、「敵」は外部に存在せず、自分の中にある既成概念がカワウソの姿をとって現れ、自己自身を追い詰めていたのである。これについては、一番わかりやすいのはレオとマブの関係である。レオは、カワウソによってマブは人形に変えられている(「俺の欲しい言葉をくれるマブじゃない」=愛されていない)。また、マブは「愛する」と言うとカワウソの仕掛けた仕組みで死んでしまう(愛してはいけない)。このときのカワウソは、おそらく「ホモフォビア」である。両者の自己内で生み出された概念(=ホモフォビア)によって、二人は引き割かれてしまった、と解釈できる。加えて、思春期前半の少年である3人に対して、レオとマブは思春期後半を過ぎ、大人になった青年である。ギーザの著作を参照すれば、この2人の関係はすでに「男らしさ」の枠からはみ出し、男性にとって忌避すべきもの(=同性愛)となっている。その意味で、このアニメで男性の「同性の繋がり」を描く際に、郷愁に満ちた3人の「少年たちの友情」だけではなく、「同性愛」の関係にあるレオとマブの青年たちが必要だったのだろうと推察する。

*5:かつて庵野秀明監督は、テレビ版の「新世紀エヴァンゲリオン」で、主人公と少年たちの「同性の繋がり」を描きかけた。しかしながら、この作品で主人公が救済を望むのは、同世代の女子や年上の女性、さらには亡くなった母親の幻像である。加えて、この作品は一向に現実に帰着することができない。悲劇的な展開の反復の迷路にさまよいこみ、何度、映画版が作られても決着はつかないように見える。

*6:最後に、3人よりさらに年少の春河が「僕は選ぶよ」と未来に向かって生きていくことを宣言するのも象徴的である。精神分析ではその人が自分で「選択すること」に重きが置かれる。なぜなら、「自分で選ぶ」ことは、自由を獲得し、責任を負うことの宣言であるからだ。これは与えられた自らの環境や悲運に屈服するのではなく、自己により人生を切り開く行為だからである。春河は一稀から離れたくない一心ですがりついた結果、事故にあって歩けなくなってしまった。そのことで、最もそばにいたいと思っていた一稀の心が離れてしまい、深く傷ついていた。しかし、その一稀を自分のそばに縛ることをやめ、自らの繋がり方を手放すことで、もう一度、一稀が自分のそばに帰ってきてくれることを信じ、もっと親密な繋がりを得たのである。この作品の隠れた主人公は春河であり、3人の繋がりが確固たるものになって以降は、彼こそが物語の中心となることを予兆させている。

フェミニストとしてトランス差別・排除に反対します。

 フェミニストとしてトランス差別・排除に反対します。それについて以下で述べます。

 ここでいう「トランス」とは、「性別を越境する」ことを指します。私たちの社会では、性別は「男性」と「女性」に分けられています。近年は「性同一性障害(GID)」という言葉もよく知られるようになり、「男性に産まれたが、女性として生きたい人」「女性として産まれたが、男性として生きたい人」の存在が可視化されました。そのような人たちに対して、(まだ多くの課題が残っているものの)性別移行手術や戸籍変更も認められることが増えました。こうした人たちは、「男性」と「女性」の性別を越境します。

 性別の越境の仕方はそれだけではありません。たとえば、服装だけを変える「異性装」によって性別を越境する人もいます。また、アイデンティティについても、何度も「男性」と「女性」の間で性別を行ったり来たりする人もいます。「男性」と「女性」という二分の間で揺れ続ける人もいます。そもそも、「男性」と「女性」の区切り自体に疑問を持ち、性別を「選ばない」というかたちをアイデンティティとする人もいます。これだけではなく、多種多様な性別の越境の有りようがあります。

 こうした、性別を越境する人たちに対して、歴史的にフェミニストは差別を繰り返してきました。フェミニストの基盤は「この社会で、女性であるということについて考える」ことにあります。多くの女性フェミニストは「私は女である」という経験から、社会の中にある性差別や抑圧に抵抗する言葉を紡ぎ出してきました。そのため、女性フェミニストにとって「女とは誰のことか」が大きな問題になります。そして、歴史的にフェミニストは、「性別を越境して女性になった人」、つまりトランスを運動から排除してきました。たとえば、「女性だけのフェミニスト団体」からトランスを排除しました。「女性だけの音楽祭」を企画した時にトランスを参加させませんでした*1。女性としてフェミニズムに参加するトランスにとって、このような差別や排除は不当です。そして、こうした差別や排除は、相手を傷つける行為です。私はフェミニストとして、トランス差別・排除に反対します。

 ところが、いま、Twitterでは多くのフェミニストが、トランス差別・排除の言説を拡散しています。そのときに掲げられるのは「女性の安全」です。女性限定のスペースを守り、男性のいない場所で女性がのびのびと暮らせる権利が欲しいという主張もあります。そのときに持ち出されるのが「性暴力」の問題です。一部のフェミニストは、トランスの中で男性生殖器(ペニス)を持つ人々は女性を性暴力の被害に遇わせる可能性があるため、特定の場所で共に過ごすことは危険であると主張しました。

 これらの主張は正当ではありません。私が一番大事だと思うのは、性暴力はペニスによって引き起こされるわけではないことです。ペニスを使わない性暴力はたくさんあります。指や器具を使ったり、生殖器以外を侵害したりすることで行われる性暴力は頻発しています。そして、それらの性暴力はペニスを使うものより、小さな被害だとは言えません。また、これらの性暴力は「男性から女性」にのみ行われるものではありません。「女性から男性」に対する性暴力や同性間の性暴力もあります。トランスの人たちも性暴力の被害に遭います。「大人の女性から子ども」への性暴力もあります。女性は性暴力の加害者になります。ペニスがない人たちだけで集まっても、性暴力は起きます。なぜなら、性暴力を引き起こすのはペニスではなく、加虐心や支配欲などの「暴力をふるいたい」という欲望だからです。

 しかしながら、これまで多くの性暴力被害者のためのグループは「女性限定」でした。なぜなら、性暴力被害者の証言を自分の性的欲望を満たすために聞こうと考えて、グループの情報を得ようとする人たちが一定数いるからです。かれらの多くは真摯に性暴力被害者に心を寄せるふりをしながら、相手から生々しい被害の様子を聞き出し、それをこっそりと自慰行為のネタにします。また、こうした話を利用してポルノ作品を創る人もいます。人間の欲望は果てしないのでそうした人びとが存在することは否定はできませんが、多くの被害者は自分の経験を性的に利用されることで深く傷つきます。そして、そうした行為を行う人たちの多くが男性です。そのため、性暴力被害者のためのグループは「女性限定」になりやすいのです。

 他方、こうしたグループから男性被害者やトランスの被害者は排除されることになります。性暴力被害を受けた後も、支援につながることができないのです。また、フェミニストや女性の支援者の性暴力に関する声明や見解についても、「女性中心主義」であるため、常に女性ではない被害者は周辺化されます。私はこの性暴力問題の「女性中心主義」を10年以上、批判してきました。私の立場としては、性暴力被害者の当事者団体については「女性限定」であることは安全管理の問題上、仕方ないと考えるところはあります。しかしながら、啓発活動や支援者向け講座の中での「女性中心主義」について明示的に批判してきました*2。ましてや、公開上のインターネットの言説はいうまでもありません。性暴力の問題が「男性から女性」に限定されることも、ペニスによって性暴力が引き起こされるかのように主張することも誤りであると、ここではっきりと批判します。

 ところが、現在のTwitterではフェミニストによって、ペニスのあるトランスは性暴力の加害をする可能性があるので危険だといわんばかりの言説が飛び交っています。こうした発言をする人びとを「ツイフェミ」と呼ぶことがあります。これはツイッターフェミニストの略で、従来のフェミニズム運動への参加経験や、研究者としての経歴がなく、Twitterだけで活動していることを揶揄的に表現した言葉です。しかしながら、ツイフェミであることと、ほかのフェミニストであることに大きな差はありません。私は今でこそ研究者であり大学で非常勤講師をしていますが、2007年にこのブログでフェミニストを名乗り始めた時には、学籍もありませんでした。また、草の根のフェミニズム活動には関わりましたが、その話は一切書きませんでした。ですので、インターネット上のフェミニストのプロトタイプだと言って良いと思います。当時、ネットでフェミニストを名乗ることは、罵詈雑言を受け、嫌がらせをされることを意味しました。ほとんどフェミニストは存在しませんでした。その中でフェミニストを名乗った理由は「汚名を引き受けよう」と思ったからです。私にとって、ブログでフェミニストであると名乗ることは、「私は女である」という経験を徹底的に掘り下げるという宣言でした。おそらくツイフェミと呼ばれる人たちの中にも、同じような動機でインターネット上で活動している人はたくさんいると思います。ですから、私はツイフェミと変わらない立場であると自認しています。

 私は、「私は女である」ことの経験からたくさんの感情を引き出されます。積年に降り積もった怒りも悲しみもあり、取り乱すこともよくあります。冷静ではいられないし、他者に対し拒絶的にもなります。過去に由来する感情を抑えられず、不条理な言動をとったこともあります。私はそのことを否定するつもりはありません。ネガティブな感情は、社会の中にある性差別や抑圧に抵抗するエネルギーになるからです。フェミニストであるということは、周囲から浮き、批判を浴び、時には白い目で見られることです。それに耐えて社会を変えようとすることができるのは、心に煮凝った暗い情念が自分を支えてくれるからです。私はルサンチマンを隠したいとは思いません。

 それと同時に、私はこの暗い情念から解放されたいと思っています。これまで生きてきた経験に根ざした感情を昇華したいと考えています。特に誤りや無知が引き起こすネガティブな感情は本来はなくて良いものです。たとえば、私の心の内側にもペニスへの恐怖やトランスへの無理解がべったりと貼り付いています。それらは私には必要がないものです。私はこうした自分の一部分を変えていきたいと考えています。

 フェミニストのパトリック・カリフィアはトランスについて議論する中で、「わたしたちは男性以上ではないにせよ、少なくとも男性と同じ程度には変わらなければならない*3」と述べています。このように言うカリフィアは、過去にレズビアン分離主義に与しており、トランスを排除した経験を持っています。しかしながら、自らのセクシュアリティを探求する中で、トランス差別に対する考えを変えてきました。その上で次のように言います。

 偏見を解きほぐすのは生涯にわたるプロセスである。最近、わたしは非常にためになる経験をした。私の長年の知己である女性が、トランスジェンダーであるとわかったのだ。そのことに気づかず、何年も知り合いだったのである。この発見はわたしには少し痛かった。というのも、わたしの「ゲイダー(*)」と同様に「トランス・レーダー」もうまく働いていると思いたかったからだ。彼女には騙すつもりはなく、わたしがもう知っていると思っていたのである。トランスセクシュアリティについて多くのことを学んできたから、これがそう大きな違いであるとは思わなかった。しかしわたしは、気がつくと彼女のことをまったく違った風に見ていた。突如として、彼女の手が大きすぎるように見えてきた。鼻にも何か奇妙なところがあるし、それに彼女には喉仏がなかったかだろうか?*4 声も女性にしては低すぎないか?それにいつも男性のような親分肌ではないか? それに何たることか、前腕にはかなりの毛が生えていた。

ゲイダー ゲイがゲイを見つけ出す第六感のこと。「ゲイ」+「レーダー」というユーモア溢れる俗語。

 これは楽しい種類の騒ぎではなかったが、こんな風に考えている自分に気がついた時、思わず笑い出してしまった。トランスフォビアを取り除くのは非常に難しい。トランスジェンダーではないわたしたちが、トランスセクシュアルについて正確な判断を下すことは至難の業だ。わたしたちは、私たちが互いに見るときのようには、彼/彼女を見ないからだ。彼らを評価するのには別の基準を使う。そしてこの基準には、彼らの染色体上の性が依然として彼らの自分の表し方に影響している証拠を見つけ出そうとする方向にバイアスがかかっている。(カリフィア、217-218頁)

 上のようなカリフィアの経験談は、トランスでない人間がいかに既成概念にとらわれているのかを描き出しています。「トランス女性とシス女性は違うよね」と、トランスでない女性が言い合っている、その感覚の裏側には、「違いを見つけ出そう」とすることへの隠れた動機があります。あるカテゴリーと別のカテゴリーの間の差異を素早く見つけ出せるのは、差別心のなせるわざです。トランスでない女性たちも、男性たちが同じように「男と女は違うよね」と言い出す場面を何度も経験しているはずです。男性が性差別から解放されることが難しいように、トランスでない人がトランス差別から解放されることは難しいことです。それでも、私はできる限り解放されたいですし、自分の差別心を正当化したいとも思いません。ペニスを恐れ、トランスの人たちを排除して、偽りの「セーフスペース」を持ちたい、とは思わないのです。

 私たちは社会を変えることができます。そして、私自身のことも変えることができます。それが、フェミニズムの希望ではないでしょうか。

(引用は以下のパトリック・カリフィア『セックス・チェンジズ トランスジェンダー政治学からしています。) 

セックス・チェンジズ―トランスジェンダーの政治学

セックス・チェンジズ―トランスジェンダーの政治学

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

*1:米国の事例です。参考としては以下。カリフィア、370-374頁。(以下、引用は翻訳版より)

*2:フェミニストの支援者から嫌な顔をされたことは何度もあります。私はフェミニズムの王道から外れています。

*3:カリフィア、180頁。

*4:翻訳版ママ

日大アメフト部悪質タックル事件について

 2018年5月に起きた日大アメフト部悪質タックル事件について、警視庁が前監督と元コーチの嫌疑はないものと判断した。

警視庁「選手が前監督らの指導を誤認」日大悪質タックル

警視庁「選手が前監督らの指導を誤認」日大悪質タックル:朝日新聞デジタル

 この件について、江川紹子さんが丁寧な解説記事を書いている。

 悪質タックル「嫌疑なし」は「理不尽」にあらず

悪質タックル「嫌疑なし」は「理不尽」にあらず(江川紹子) - 個人 - Yahoo!ニュース

 しかしながら、江川さんは警察が客観証拠を見つけられなかったとしても、証人の証言が嘘だったとは言えないと補足する。日大側がこの事件について調査した第三者委員会の最終報告書も、「第三者委員会報告書格付け委員会」は低評価をつけている。そのため、第三者委員会の調査は不足している可能性がある。他方、江川さんは、その調査の補足は警察がするものではないとこの記事の中で指摘している。

 その上で江川さんは、「この事件は警察で捜査すべきであったのか」という点についても疑問を呈している。江川さんは以下のように書く。

そもそも、今回のケースは、本来、警察に持ち込むのがふさわしい事案だったのかも疑問だ。
 被害者サイドが警察に被害届を提出したのは、日大の対応に対する不信感からだった。日大側の初期対応がもっと違っていれば、刑事事件として扱われることもなかったのではないか。日大の危機管理のまずさとメディアの異様なまでの盛り上がりが、事態を必要以上に大きくしたように思う。

https://news.yahoo.co.jp/byline/egawashoko/20190206-00113885/?fbclid=IwAR1GjPiF3X2z7xXIvdEkblR3u-erbiiPh4uaFTzOiEhPqvxiA-Sj_7wjCrA

 

 以上のように、江川さんのこの記事の焦点は「刑事罰を問うことの是非」に当てられている。江川さんは、刑事罰だけが当事者の責任追及になるわけではないとし、両人は「2人は指導者としての責任を問われ、その職を解かれたばかりか、関東学連から「永久追放」に当たる除名処分を受けている(同上記事)」ことをもって、社会的な制裁を受けていることを強調している。ここまでが江川さんの記事の主張である。

 江川さんの記事を読む限り、私もこの警察の判断は妥当であると考える。国家権力の抑制の点から、警察権力の拡大は極力避けなければならない。また、冤罪を防ぐためにも警察の客観証拠の重視は不可欠である。さらに、マスメディアの報道やネットの言論は、処罰感情を煽るものも多かった。

 この事件は、スポーツの中での暴力の問題、スポーツチームの指導者の問題、大学組織の問題等が絡み合っている。それもあり、人びとの関心を集めたが、必ずしも刑事司法による解決が「最善策」だとは言えないだろう。なぜなら、刑事司法はあくまでも「個人」の責任を追及し、処罰を行うことを目的としているからである。他方、この事件の問題は組織内の「人間関係」が鍵を握っている。すなわち、コミュニティの問題なのである。

 しかしながら、この事件が警察が「嫌疑なし」と判断したとしても、すべて解決したとは思えない人が多いのではないだろうか。江川さんは両人が社会的制裁を受けていることを強調しているが、被害者への謝罪・補償が十分だと考える状況には見えにくい。また、両人が日大アメフト部に関わることがなくなったとしても、残された部員が背負っていくものは小さくない。まだ事件は終わっていない。

 こうした状況は、この事件に限ったものではない。多くのコミュニティで起きる事件(いじめ、ハラスメント、暴力事件等)は、刑事司法での解決は難しい。たとえば、学校でのいじめを刑事罰の対象にしようとする主張も、インターネットではよく見かける。しかしながら、多くの場合は客観証拠を集めることが難しい。刑事罰の対象にならないことは、その事件が小さいことを意味しない。多くの人びとを傷つける深刻な事件であっても、刑事司法の介入が難しいことはよくあるのである。

 こうした場合に、ひとつの選択肢としてあげられるのが、修復的司法(restorative justice)だろう。修復的司法は1970年代から欧米諸国を中心に広まった紛争解決のアプローチである。修復的司法の特徴は、コミュニティの人間関係を中心に扱うことである。「罰を与える」ことが目的ではなく、加害者が被害者に対して心からの謝罪と補償を行い、その事件に関わった人たちが共同でどのように対処していくのかを話し合う。

 修復的司法でよく誤解されるのは、従来の生徒指導のように、教師が生徒のトラブルに対し、加害者に「謝りなさい」と命じ、被害者がそれをゆるすことを強いられるのではないか、ということだ。しかしながら、実際の修復的司法では、訓練を受けた調停役(ファシリテーター)が十分に当事者の聞き取りを行い、再び暴力が起きないように安全を守る。その上で、調停役は話し合いにできるだけ介入しないようにしながら立会い、どのような結末になるのかを見守る。これまで修復的司法は実証研究が多数行われており、調停役が丁寧にコーディネートすれば、被害者の満足度の高い実践になることがわかっている。

 修復的司法は、刑事罰の対象にならない事件も扱うことができる。また、事件が起きた後の人間関係について、当事者で話し合うこともできる。コミュニティ内で事件が起きた場合、自分たちでは人間関係を整理することができなくなっていることが多い。お互いの疑心暗鬼、長年にわたる恨み、組織外に話せない秘密の山積等が重なっているのである。そこに外部の調停役(ファシリテーター)が入ることで、人間関係が変わることがある。その結果としてコミュニティの解体、離縁が起きることもある。それもまた、修復的司法の結果の一つである。要するに、凝り固まった関係を解きほぐし、別の関係に変えることが修復的司法の目的なのである。

 修復的司法については、私は以下の書籍で詳しく述べた。本書は性暴力の事例を中心に扱っているが、前半は修復的司法一般についても紹介している。具体的にどのような実践があるのかも、紹介している。もちろん、修復的司法は当事者が望んだ場合にのみ実施されるため、「この事件には修復的司法を適用すべきだ」とは言えない。しかしながら、コミュニティで起きる事件に対し、このような選択肢が用意されることは、より多くの人たちの問題解決につながるように思う。

 

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

 

 

 

 

 

 

 

 

西尾学術奨励賞の受賞と授賞式

 拙著『性暴力と修復的司法』がジェンダー法学会の西尾学術奨励賞を受賞いたしました。

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

 西尾学術奨励賞は以下になります。

「西尾学術奨励賞」は、ジェンダーと法に関して優れた研究を行った若手研究者・実務家に対して与えるものです。ジェンダーと法分野の若手研究者・実務家の研究を奨励促進する目的で行っている取り組みで、2004年に始まりました。
http://jagl.jp/?page_id=337

 まさか学会賞をいただけるとは夢にも思っておりませんでしたので、自宅で受賞のお知らせをいただいたときには、「わたし?」ととっさに一人で呟いてしまいました。研究者としてはまだ経験が浅く、至らない点も多いため、賞をいただくことは恐縮ではありますが、私にとっての初めての著書を評価していただいたことを大変嬉しく感謝しております。同時に、賞の重みで身が引き締まる思いでいます。受賞を励みにして、今後の研究者人生でいっそうの努力を重ねていきたいです。本当にありがとうございました。
 12月2日に、ジェンダー法学会第16回学術大会の中で、授賞式が行われます。私も出席する予定です。

「2018年第16回学術大会の概要」
http://jagl.jp/?page_id=729