ネットで嘲笑すること/されること

 ある事件が起きて、ネット上でどのように振る舞うのかが話題に上がっている。特に、相手を「嘲笑すること/されること」がクローズアップされている。

「古来からのネット作法に総括を迫られているのかもしれない」
http://zaikabou.hatenablog.com/entry/20180625/1529890030

はてな界隈の「いじり」「いじめ」のダブルスタンダードが酷すぎる」
https://anond.hatelabo.jp/20180626141122

 私はこのブログで、かつて激しく「嘲笑される」経験を積み重ねていたので、メモがわりに書いておきたい。当時の「私を嘲笑する記事」はもうどこにあるのか知らないし、その人たちの行方も知らない。たぶん、まだネットにはいるのだろうが、その人たちを責めるつもりはない。
 私がやられた方法はこんなふうだった。別のブログ記事やアノニマスダイアリーに、私の記事の一言一句をあげつらった文章を書き、不備を指摘したり、わざと誤読や曲解をして、笑いを取る。「バカ」などの攻撃的な言葉が繰り返し書いてあることもあった。しつこくトラックバックが送られてきて、その記事を見に行くと、ブックマークコメントがついていて、「書き手とともに私のことを嘲笑する人たちのコメント」が並んでいるのが目に入ってくる。私はその記事を閉じて、できるだけ心に深く留めないように意識した。平常心を保つのが一番大事だとわかっている。ネット上では、無視したり、平気な顔をしたりしていた。なぜなら、動揺していることを知られれば、かれらの攻撃がもっと強くなることを知っていたからだ。
 なぜ、平気な顔ができたかというと、私はこう考えていたからだ。「この問題は、私の問題ではない。かれらの内面に問題がある」この対応は、私は実は支援職の養成講座で学んだ。理不尽な怒りや攻撃を受けた時に、自分の中に理由を探すのではなく、「これはおそらく相手の問題だ」と考え、感情に巻き込まれないように自分の感情をコントロールする*1。私にとってかれらの「嘲笑」は理不尽であったので、「何かかれらは問題を抱えているのだろう」というふうに理解することで心理的な距離を保った。そもそも、私のブログ記事に論理的または思想的に問題があるならば、嘲笑するのではなく、正面から批判をすれば良い。それができないのは、「能力がない」か「自信がない」かのどちらかだろうと私は判断した。他に理由があるとしても、それは私の問題ではない。
 他方、「私を嘲笑する記事」に集まって、同調して嘲笑する人たちにも、何か抱えているものがあるのだろうと考えていた。私自身、他人を嘲笑することはある。他人をこき下ろして笑ったりしている。私が嘲笑する相手は、たいてい、自分にとって地位や権力、実力その他で、「物申せない相手」である。学生時代に学校の教員を友人たちと笑い者にしたことはないだろうか。あれは、教員と学生の間の絶対的な権力関係があるからこそ、そこから逃れようとする抵抗の振る舞いが「嘲笑」という形で現れているのである。当時、無名のブログの書き手であった私に対して、なぜ、かれらがそんな振る舞いをかれらがしていたのはわからない。「よっぽど辛いのだろう」と私は考えていた。
 以上のような私の考えが、当時の「私を嘲笑する人」の心理を的確に分析していたかどうかはわからない。単純に自分が攻撃されている時に防衛反応として、合理化を行なっていたようにも思う。それでも、私がこういうふうに考えて、「嘲笑されること」を受け流しており、決して「平気」でもなかったし、楽しんでいるわけでもなかったことを書いておこうと思った。別に私は精神的に強い人間でも、冷静な人間でもない。「他人を見下すこと」に長けていたから、乗り切れただけだ。言いたいことは「他人を嘲笑することはよくない」というそれだけの話である*2

*1:逆に言えば、この支援職の振る舞いは、自らの二次加害を隠蔽し、クライアントの異議申し立てを「相手の心理的問題」に還元するという点で非常に危険だ。特にDVや性暴力の被害者支援では、こうした支援者の無意識の癖が二次加害を引き起こしていると私は考えいている。諸刃の剣だ。

*2:念のため言っておくが、それでも人間は他人を嘲笑するだろう。私もきっと嘲笑する。それでもよくないことなのである。嘘をつくのがよくないことと同じである。

原一男監督「ニッポン国VS泉南石綿村」

 原一男監督「ニッポン国VS泉南石綿村」を試写で観た。
 泉南地域はかつて石綿紡績業が盛んだった。石綿アスベスト)は断熱材、防火財、機械の摩擦防止のためにあちこちで使われ、日本の経済成長を支えた天然鉱物である。しかしながら2005年の「クボタショック」をきっかけに、全国的に石綿産業に関わった人たちの健康被害が明らかになった。石綿は防塵に混じって吸い込まれ、肺に突き刺さって20年以上の時間をかけて肺がん、中皮腫などの重い病気を引き起こす。泉南地域の人たちも石綿健康被害を訴えて国家賠償を求める運動を展開していく。
 この作品はそうした泉南泉南アスベスト国賠訴訟の運動を追ったドキュメンタリー映画だ。高齢の原告の中には在日朝鮮人・韓国人で、他地域で差別され流れてきた移住者もいる。これまで社会運動に縁のなかった労働者とその家族が集まって、自分たちの手で補償を勝ち取ろうと立ち上がる。裁判は二転三転し、最高裁で勝訴するまで八年半がかかった。その長い時間で原告たちは「普通の市民」から「活動家」へ変身していく。
 その代表が「泉南地域の石綿被害と市民の会」を結成した柚岡さんだ。柚岡さんは祖父が石綿工場がやっていたという経緯があり、被害のことを知って罪悪感に駆られていた。そこから、原告の支援活動を始めるが、訴訟の弁護団との関係の中で苦闘する。弁護団側は法廷闘争のために、原告の発言を抑制したり、マスコミ向けにコメントを「こう言って欲しい」と原告に頼んだりして、勝つための戦略をとっていく。柚岡さんはその中で「被害者はもっと自分の言葉で直接、話したいはずだ」と考えて、総理官邸や厚労省に突撃して面会を求める。しかし、拒まれてあえなく失敗に終わり、弁護団に勝手な行動をとったとして批判される。それでも、運動が進むうちにだんだんとベテランの活動家のようになっていき、行政交渉では机を叩いて官僚を罵倒し始める。最後には国側に目をつけられて、大事な会場からも締め出されてしまった。弁護団との対立はあったものの、柚岡さんが運動の中心にいたことは間違いない。最高裁の判決後の総会で賠償金を分配するときにも、弁護団も含めてみんなで話し合い、そのときに仕切っているのは柚岡さんだ。揺れに揺れる原告団をまとめた立役者なのである。
 原告の岡田さんは、幼少時に母親が働く石綿工場で育ったため年若くして健康被害が出てしまった。作品の冒頭では「子どもの重荷になりたくない」と涙ながらに語り、同じく健康被害に苦しむ自分の母親に向かって「私の方が先に死ぬ」と告げる。しかし、原告として運動を展開する中で、体の不調をおして活躍し、韓国の石綿鉱山の視察にまで参加する。母親が係争中に亡くなってしまうが、そのあとは息子が一緒に運動に付き添うようになった。最後の最高裁判決では補償対象から外されてしまうが、原告のスピーチをすることになる。弁護団に指示されたマスコミ向けのスピーチ原稿は、決して納得していないということをにおわせながらも、笑いながらカメラに向かってうまく煙に巻くコメントをしてみせる。すっかり、酸いも甘いも噛み分けたしたたかな活動家の顔になっているように見えた。判決後も「これで終わりじゃない」とまだ続く運動を見据えたコメントをしている。
 私の印象に残った原告は、石綿工場で勤めていた夫を亡くした佐藤さんだ。佐藤さんの夫は、石綿工場で働いてきたことを誇りにし、裁判には乗り気ではなかった。それでも佐藤さんは、夫の病の原因が石綿である以上、その苦しみを訴えずにはいられないとして活動に参加した。夫が亡くなった後に、共同代表として原告団をまとめ上げていく。しかしながら、最高裁の判決では、佐藤さんの夫は補償対象から外された。マスコミ向けには笑顔で「それでも原告団として勝てて嬉しいです」と語って見せたが、翌日の街頭演説ではマイクを握りしめ、泣きながら絶叫する。
「私が欲しいんはお金じゃない」
 そう叫びながら亡き夫への想いを語る。そして、佐藤さんは泣き崩れて、本当は「勝てて嬉しい」という心境ではなく、無念さで苦しいことをカメラに向かって吐露する。原監督はその彼女に向かって「その気持ちを言った方がいい」と促すが「それはできない」と拒む。「私は共同代表だから、背中にいっぱい原告を背負ってるから」と泣きながら最後まで義を貫こうとする。
 私はこの場面で、これまで自分が関わってきた様々な運動の当事者の顔が浮かんできて、涙が止まらなくなってしまった。佐藤さんだって、最初からこうだったわけではないだろう。志半ばにして亡くなった仲間、今日この場に来られなかった仲間、本当は訴えたいけど黙って耐えている仲間。そういう仲間の顔が浮かぶ限り、自分の感情に任せて運動を批判することはできない。自分の夫のための闘いは、いつの間にか「みんなための闘い」になり、自分は殺さざるをない。だけど、それが辛くないわけがない。きっと社会運動に携わる人が何度も直面する当事者の悲鳴だろう。
 他方、佐藤さんの場合、このあと話は思わぬ方向に転がっていく。最高裁判決の後、塩崎厚労相泉南を謝罪のために訪問する。弁護団は形だけの塩崎さんの謝罪に色めき立つ。ところが、塩崎さんが退場するとき、佐藤さんは呼び止めて駆け寄って頭を下げて「ありがとうございました」と礼を言う。どうやら塩崎さんと手紙でやりとりをしたらしい。その後のインタビューで、佐藤さんは塩崎さんが自分の気持ちを受け止めてくれたことに感激し、もう怒りはないと語るのである。
 このことについて、原監督は上映後のトークで撮影しながら佐藤さんに対して「嘘でしょ」と思ったことを率直に述べている。原監督にとっても塩崎さんの謝罪はパフォーマンスにすぎないように感じられていた。手紙のやり取りだけで佐藤さんから怒りが消えたことは信じがたいと語っている。だが、私はあの場面はとてもよくわかるように思った。佐藤さんは、原告団のために正義を語りながらも、自分の中にある「夫の被害を認めて欲しい」という個人的な思いは抱えてきていた。たとえ補償の対象にならなくても、その苦しみを加害者が認めることは何者にもかえがたいものだろう。やっと自分の声が聞かれて、応答してもらえたという気持ちがあるのではないか。被害者にとって、無視され、なかったことにされてきた被害を、加害者が認めることは大きな意味がある。そのときの「被害者としての佐藤さん」は、「共同代表の佐藤さん」ではなく、「夫を亡くした妻としての佐藤さん」、つまり「ただの私」としての佐藤さんである。 
 泉南アスベスト国賠訴訟の原告や支援者は、みんな「普通の市民」から「活動家」に変身しても、もともとの「ただの私」である「普通の市民」の自分を見失わない。そのことが、この運動を豊かにした理由の一つだと私は思う。国の安全管理の不徹底により、苦しい病気になり家族を喪ったとしても、人を信じ地域で暮らす市民であることをやめない。それは、この人たちがずっと毎日の生活を地道な労働で積み上げてきた生活者だからだ。ここに「普通の市民」の矜持はある。
 原監督は上映後のトークで、自作について、かつては「表現者」を撮影したいと思っていたと語った。原監督の定義によれば、突出した才によって社会のはみ出し者となり、自分の生活範囲を越えて、世界を変えていくのが「表現者」である。それに対して「生活者」は、自分とその家族の生活範囲の幸せを守る。その原監督の構図を借りれば、この作品は「生活者」が「表現者」に変容する物語として観ることができる。しかし、原監督は「生活者を問わねばならない」とトークで語っていたが、私は問われるべきは「生活者」ではなく「表現者」ではないかと思う。つまり、映画を撮られる側/観る側ではなく、映画を撮る側が問われるのではないか。
 「生活者」は地道に生活するところに本質がある。そうであるならば、「生活者」を撮る方法は二つだ。一つ目は撮影者が「生活者」の生活にどっぷりと浸ってしまうことだ。共に生活し、生活者の一員となりながら撮影をする。原監督の作品は、生活を撮る部分はあれども、やはり訴訟運動に焦点があたり、「生活者」に寄り添った作品としては、私は観ることができなかった。二つ目は「表現者」として「生活者」の生活に意味づけをすることである。私は芸術表現とは「言語化できないものを、非言語的に象徴化し普遍性を持たせること」だと考えている。原監督の作品は、明確に象徴化が行われたとは言えないと思う。ここまで書いてきたように、ある程度、構造化すれば読み取れるものはあるが、クリアではなかった。私は原監督がこの作品で何を成し得たのかがわからない。達成はないままに完成に至ったのかもしれない。
 3時間半以上の長い作品だが、少しもだれることはなく集中して観ることができる。また、泉南アスベスト国賠訴訟の素晴らしい記録になっており、原監督がいてこそこれだけの厚みのある映像が残ったのだと思う。記録映画としては大変に貴重なものだと思うし、社会運動についての学習用資料としてもとても良いだろう。その一方で「映画ってなんだろう」という疑問が残ったことも確かだ。ドキュメンタリー映画で何を撮り、何を観るのか。あんまりにも素朴な問いが、観終わった後に一番に浮かんできた。

平鳥コウ「JKハルは異世界で娼婦になった」

JKハルは異世界で娼婦になった

JKハルは異世界で娼婦になった

 この小説は「異世界」で性暴力と闘う女の子たちの物語だ。そして、「この世界」で性暴力と闘う女の子へのエールだ。作品の中では、「この世界」で女性の多くが見聞きしても「なかったことにしよう」と自分に言い聞かせている「日常生活の中で隠される暴力」が延々と描かれる。レイプ、セックスワーカーに対する暴力、慰安婦問題……そうした暴力に直面しても、この作品の中で女の子たちは生きる道を探しているし、諦めない。女の子たちはシスターフッドを信じ、優しい男の子たちの価値を信じ、社会が変わることを夢見る。そういう内容が、若い世代に向けた小説の中で明確に描かれている。
 小説の舞台は、男尊女卑の「異世界」で、ハルは生活のために娼館で働き始める。仕事を懸命にこなしながらも、「異世界」の性差別と不条理に憤る。そして、なにひとつままならない状況に置かれたハルは、雨の中で自由に遊ぶ男の子たちに心の中でこうつぶやく。

 子どもはどこの世界だってキラキラしてる。あたしもキラキラしたい。どこにいたって自分は自分だって言えるくらい強くなりたい。
 雨に降られたくらいで腐ってるあたしは、絶対にあたしらしくないんだ。
(120頁)

 このあと、ハルは男の子たちに混じって遊び始める。この場面以降、ハルはこの世界で自分の生きる意味を問うていく。ハルは「異世界」に来る前には、自分の人生を受け入れ、そこで適応していくことに専心した。ところが「異世界」にきてからは、「私はこんな世界はNOだ」と言い始める。なぜなら、「異世界」はハルにとってあまりにもあからさまに男尊女卑だったからだ。ところが、その差別への抵抗を重ねていく中で、ハルは「異世界」と「前の世界」を比較し、逆照射して「この世界(私たちが住むこの現実)」で受けていた不可視化された性差別や性暴力も浮き彫りにする。
 その意味で、この小説は児童文学の伝統的なスタイルを守っている。少女は、「異世界」に行くことで「この世界」を相対化し、「生きることの意味」を問い、自らの使命を見出そうとする。読者は主人公と一緒に物語世界を冒険する中で、自らの「この世界」に対する見え方も相対化し、変えていく。その意味で「子ども向け」の作品である。
 この小説は確かにあらも多いし、「大人の読者」は眉をひそめるかもしれない。Twitterでは、「設定の粗さ」や「文章の拙さ」が批判されていたようだ。また、性描写を見て「エロ」だと思ってしまうと、読み違えるだろう。この作品はエロ要素はほとんどない。ほとんどの性描写は男性の暴力性をつまびらかにすることに費やされている。また、読者の中には無意識に「性差別や性暴力に対する告発を避けよう」として、「これはつまらない」という感想に至る人もいるかもしれない。しかし、それはそれでいいだろう。この作品は若い読み手に向けられている。読むべきは暴力の中を生きる女の子たちだ。私はこの作品をフェミニズム小説と呼びたいが、それもまた「大人の読者」によるラベリングなので禁欲的にもなる。そんなことより、対象読者がなんの意味づけもなく「面白い小説」として、この物語の世界に入っていくことが重要だろう。そう思って、この記事でも小説の内容には立ち入らなかった。
 少しだけ感想を言えば、私もきっと若い時に読んだら「ハルやルペやキヨリたちと心の中で友達になっただろう」と思った。でも、今の私が挑むのは、魔物の森と魔王の呪いだ。それが大人になるということなのだろう。とてもよくできた構成の小説だった。

あけましておめでとうございます。

 昨年は、初めての単著『性暴力と修復的司法』を出版できました。メールやTwitterなどで反響をいただいて、ありがたい限りです。

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

 「性暴力と修復的司法」のテーマは、私が10年以上取り組んできた課題でした。日本語の資料がほとんどない中、苦手な英語を勉強し、暗中模索しながら独学で研究を続けてきました。また、2015年には、海外調査を行うことができ、欧州で性暴力における修復的司法を実践している人たちと交流ができ、大きく自分の研究が進むことになりました。
 このテーマについては、最初から最後まで、自分の気持ちに正直に研究を続けてきて、賛否両論が飛び交うフィールドをまっすぐに歩いてきたという思いがあります。愚直にやってきたことが形になって本当に嬉しいです。出版にあたってお力添えいただいた方々、そして読んでくださった方々に感謝の気持ちでいっぱいです。

 今後の研究ですが、「性暴力と修復的司法」の研究は続けながら、同時に「環境問題と修復的正義」のテーマへも視野を広げていきたいと思っています。「修復的司法」と「修復的正義」は英語のrestorative justiceの訳語で、同じ意味です。しかし、これまで私は「修復的司法」の実践例を元に研究をしてましたが、これからは「修復的正義」の正義の概念の研究にも取り組みたいと思っていることから、訳語の選択を変えています。
 私が痛感しているのは、「法の枠組み」による紛争解決は極めて限定的で、当事者の思いを汲み取るにはあまりにも狭い範囲しか扱えないということです。法廷では司法関係者が中心になって裁判が進行し、当事者は専門家のアドバイスのもと、法的に有利な証言をしていくことになります。こうした法廷の役割は、社会に対する秩序維持や、加害者の処罰、被害者への補償金支払いの命令などにおいて、非常に重要な意味を持ちます。法廷における正義は法体系を基づいており、平等で論理的で冷静であることが求められます。他方、当事者が複雑な思いを話したり、被害者が十全に苦しみを表現したり、「謝って欲しい」と訴えたりする場には、法廷はならないのが現状です。当事者の「あふれ出るような思い」は法廷では行き場がありません。
 私は法的な正義とはパラレルに、オルタナティブな正義があり、それが「修復的正義」として概念化できるのではないかと考えています。そのことによって、これまで、法廷外で行われてきた草の根の「正義を求める活動」や「対話の試み」を再検討していくことで「当事者が求めている正しさ」の輪郭を浮かび上がらせることができるのではないかという仮説を立てています。ただし、これはあくまでも私の直感的なアイデアであって、まだ確固とした枠組みがあるわけではありません。私は決して器用なタイプではないので、少しずつ自分の中の考えをまとめ上げていきたいと思っています。
 その中で、私が新しいフィールドとして足を踏み入れたのは環境問題です。きっかけは、水俣に通い始めたことで、問題とは偶然的に出会いました。最初は細々と資料を読んでいたのですが、研究として取り組むうちに、環境問題の持つ複雑さに引き込まれていきました。環境問題は特定の「集団」が被害を受けます。このとき、ステークホルダーはコミュニティの中に入り組んだ形で相互依存的に存在しています。これは一対一の被害加害関係が固定されやすい犯罪の問題とは様相が異なります。環境問題の場合は、それぞれが置かれている文脈によって、問題後の行動の意味が変わってくることがとても重要になってきます。こうした状況の中で「正しさとは何か」という問いが私の中で浮上してきました。
 これまで、すでに環境問題では、「環境正義」「エコロジカル正義」などが提起されていますし、それらと「ケアと正義」の議論の連関も指摘されています。私は、「修復的正義」の研究で、それらと競合したり、優劣を論じたりするつもりはありません。むしろ、そこから汲み出せる問題の系を整理していきたいと思っています。もちろん、環境問題のステークホルダーの関係の中であらわになる「ジェンダー構造」にも注目していくつもりです。
 そういうわけで、今年も研究を頑張っていきたいと思います。よろしくお願いいたします。

性暴力被害者の告発をどう受け止めるのか?

 この記事は三部構成になっています。関心に即してお読みください。

(1)はあちゅうさんの性暴力の告発
(2)はあちゅうさんに対する批判
(3)告発した被害者と支援者はどのような状況に置かれるか

(1) はあちゅうさんの性暴力の告発

 いま、インターネット上で性暴力の告発が次々と行われている。きっかけは英語圏で始まった「#metoo」というタグである。過去に性暴力被害を受けていた人たちが、自分の経験を語り出した。日本でもTwitterを中心にして、性暴力の告発が続いている。
 その中で、作家のはあちゅう(伊藤春香)さんが、電通に勤務しているときに上司から苛烈なセクハラ・パワハラをされていたことを告発した。加害者は、はあちゅうさんを深夜に自宅に呼び出して「指導」の名目で繰り返し罵倒し、人格否定を行なった。また、はあちゅうさんの女性の友人を紹介させて性行為を行い、その友人を貶める発言をはあちゅうさんに聞かせた。この件については、友人を紹介したはあちゅうさんの責任を問う声もある。だが、加害者は「被害者が最も傷つく方法」を嗅ぎつけ、それを繰り返すものだ。はあちゅうさんにとって、「自分の友人を性的に傷つける」行為が、はあちゅうさん自身を深く傷つける方法であるとわかっているから、加害者はそうさせたのだろう。(はあちゅうさんはこの件について友人に報告し、謝罪している*1)告発は以下で詳細な記事となっている。(詳しい被害経験も書いてあるため、閲覧には注意が必要です)

はあちゅうが著名クリエイターのセクハラとパワハラを証言 岸氏「謝罪します」
https://www.buzzfeed.com/jp/takumiharimaya/hachu-metoo?utm_term=.awPmYPQGQ#.wklKj6dgd

 はあちゅうさんはこの告発に際して「良き被害者」の像を拒むことを明言している。告発後の個人ブログで、はあちゅうさんは以下のように述べている。

被害者であるなら品行方正を貫き、常に被害者としてだけ生きろ、
という認識のある方がいるとしたら残念に思います。

こういった証言をしたからといって、
今後、公の場で被害者としてしか
振舞えないのもおかしな話です。

私自身もセクハラ被害を訴える活動には協力したいと
思っていますが、それを仕事としたいわけではありません。

今後の活動の方向性についても質問を受けましたが
これまで通りに日常を発信していきます。

セクハラ被害を告発するかどうか迷っている人が一番恐れるのは
平穏な日常が奪われてしまうことのように思います。

私は自分に起きたことを語りましたが、
人生を奪われたわけではありません。

逆に言うと、被害者として振舞うことを
世の中に強要されるのなら、
人生を奪われたと感じるかもしれません。

普段通り元気に活動している姿を見せることが
私の今後の役割だと思っています。

今後ともよろしくお願いします。

はあちゅうBuzzFeedの記事について」
https://lineblog.me/ha_chu/archives/67293039.html

 以上のように、はあちゅうさんは、性暴力の告発後に「被害者としてだけ生きることを望まない」ことを強調している。これは、とても大事な点だ。
 性暴力の告発は「被害を語ること」だけでは終わらない。告発後に、当事者は周囲からの「被害者への視線」を浴び続ける。ときには、当事者のあらゆる発言が、性暴力と結び付けられる。たとえばそれは、「あの人は被害者だからあんなことを言うんだ」「あの人は傷ついているからそんなことを言うんだ」という邪推の言葉として現れるし、「あの人は被害者のくせに」「あの人だって加害者になってるじゃないか」という言葉に現れる。実際には、当事者にとって、性暴力は人生の一部ではあるが全てではない。当事者のすべての振る舞いや価値観が性暴力によって形作られたわけでもない。ところが、周囲の視線や言葉によって、当事者は「性暴力の経験」に縛り付けられることがある。これは性暴力を告発する際に、当事者に圧しかかる重荷である。
 はあちゅうさんはその重荷について、はっきりと「NO」の言葉を発している。この言葉を、私たち第三者は重く受け止めるべきだろう。そして、私はこの言葉は、次に告発する当事者へのメッセージにもなっていると思う。被害を告発した後も、いつも通り、明るく楽しく性的なジョークを飛ばし、微笑んでいる写真を出して、ポジティブシンキングな文章を書く作家として発信すること。至らない部分があることを隠さず、時にははしゃいで、羽目をはずすこと。ネットで炎上してしまうこと。いいことも悪いことも含めて、はあちゅうさんは「被害者」でありながら、「いつもの私」として生きていくのだろう。被害を経験したあと、当事者はどんなふうに生きることもできる。何かを諦める必要はない。そのことを、はあちゅうさんは身をもって実現することは、きっと同じ被害を受けた人たちへの希望になるだろう。
 誰もが性暴力の被害を受けることがある。特別な存在だから被害を受けるわけではない。被害を受けたから特別な存在になるわけでもない。性暴力のトラウマがある人も、性的なジョークを楽しむことがある。私は性暴力被害者の支援に関わっていて、どぎついジョークを言う当事者になんども出会った。自分の経験をジョークにする被害者もいる。性的に傷ついているからと言って、いつもみんなが泣いているわけではない。自分の苦しい経験を笑い飛ばすことで前を向こうとする当事者もいれば、単純にジョークが好きな当事者もいる。もちろん、ジョークを言う余裕もなく、笑えなくてじっと耐えている当事者もいる。その違いはトラウマの深さではない。いろんな人が被害にあうので、反応も人それぞれだというだけのことだ。そんなことはあまり知られていない。なぜなら、メディアに出てくる被害者は、いつも泣いていて痛ましい姿だけだからだ。もしくは毅然として告発する姿だけだから。その被害者の姿は「同情」や「賞賛」によって消費される。私はその「良き被害者」の像に抵抗することを支持する。

(2)はあちゅうさんへの批判

 告発に対してははあちゅうさんを支持する声が高まったが、一筋縄ではいかなかった。一つ目の理由は、はあちゅうさんがネット上ではよく知られた作家であり、もともと彼女に批判的な人が多かったことである。その人たちは「はあちゅうは嫌いだが、今回は支持する」という言及を、はあちゅうさんの告発に対して行なっている。二つ目の理由は、はあちゅうさんが、告発直後に「童貞」をネタにした性的なジョークを繰り返し発言したためだ。これは、童貞である男性へのセクハラであるという批判が起きた。
 はあちゅうさんは、後者の批判に対しては謝罪を出している。

はあちゅう「過去の「童貞」に関する発言についてのお詫び」
https://note.mu/ha_chu/n/n9f000c7bb226

 性的なジョークが難しいのは、それが期せずして相手を傷つけてしまうことがあることだ。そのとき「悪気はなかった」という言葉は免罪にならない。これは性暴力の被害者であってもなくても、同じことだろう。そのため、はあちゅうさんが謝罪したことは私も支持する。自分が「童貞である」ことに深い傷つきを抱えた人がいることは、私も知っている。だから、性的ジョークとして童貞をネタにしたことに反発する人が出るのもわかる。
 ただし、その性的ジョークへの批判が、「はあちゅうさんの性暴力の告発」をなかったことにする方向に進まないよう、気をつけなければならない。先に述べたように、性暴力の告発の重荷は、告発の後にのしかかってくる。その状況で、何をどう批判するのかという判断が、周囲の第三者には問われる。この点については、以下のブログ記事で丁寧に論じられている。

「セクハラの構造問題が議論されるべきなのに、被害者同士の殴り合いで発散していく地獄」
https://note.mu/fladdict/n/n666b0d9aaa4f

 上で書かれているように、童貞であることに深く傷ついてきた人たちが、はあちゅうさんに反発して怒りをぶつけたことに対しては、第三者は言えることはないだろ。その人にとって、大事な問題を第三者が「黙っていろ」と言うことはできない。しかし、この童貞の問題について「当事者以外もはあちゅうさんへ怒りをぶつけている部分があるのではないか」というのが上の記事の要点である。
 このことについては、これまでの性暴力の告発において、「当事者の一緒に怒ることが良いことだ」とされてきたことの功罪思う。私は一貫して第三者が怒りをぶつけることに反対している。はあちゅうさんの被害に対して、加害者に怒りを向ける必要もないと思うし、童貞のジョークに対して、はあちゅうさんに怒りを向ける必要もないと思う。重要なのは第三者の怒りではなく、「セクハラの構造」を明かしていくことである。
 その上で、ヨッピーさんの記事にも言及したい。ヨッピーさんは、インターネット上で活躍しているライターである。そして、Twitter上で、ヨッピーさんがはあちゅうさんの告発を後押しし、現在も連絡をとっていることを自ら明かしている。そして、以下のように書いた。

「〇〇は嫌いだけど、とかイチイチ言わなくていい。」
http://yoppymodel.hatenablog.com/entry/2017/12/19/124547

 この記事でヨッピーさんは、かなり激しい言葉で「今回の件みたいに、業務上の権力者が目下のものに対して日常的かつ執拗に行った逃れづらいハラスメントと、ネット上の発言によって不特定多数を傷つけることが同質のものではないことなんてみんな最初からわかっている癖に、「これもセクハラだ!同じだ!」って結局一緒くたにして叩いてる人いっぱいいるじゃないですか」と書いている。これは、「はあちゅうさんが受けた性暴力の被害」と「はあちゅうさんの童貞のジョーク」を等価だとみなして、相殺することへの批判である。
 ヨッピーさんは、はあちゅうさんから童貞のジョークに対する謝罪が出た後も、あくまでも「僕の1個人の意見です」と断った上で、以下のように書いている。

「あいつも同じ穴のムジナ」みたいな事言う人は本当にそれを今回の件と同質に並べて良い事柄だと思ってるんですかね。もちろん童貞を茶化すような発言で本当に傷ついてる人が居ることは理解するしそういう風潮が是正されるべきものであることは間違いないわけですが、それでも大多数の人が「嫌いだ」って言いたいがためにその件を持ち出してるように見えるんです。本当にそうじゃないって言いきれますか?

 このヨッピーさんの疑念について、インターネット上の多くの人は同意しないが、私は同意している。それは、単純に私がヨッピーさんを、単なる第三者ではなく、より被害者に近い「支援者」だとみなしているからだ。その立場の発言であれば、理解できる。
 ヨッピーさんはこれまで支援者と名乗ったことはないし、そのようなカテゴリにこちらが当てはめることは暴力的なことであり、本人には不本意かもしれない。けれど、もしかするとヨッピーさんの発言を、性暴力の「支援者」としての枠組みで捉えた時、見え方ががらりと変わるかもしれない。そのため、以下では一般論としての性暴力の「被害者」と「支援者」の話を書きたいと思う。
 あくまでも以下は一般論であり、これまで言及してきたはあちゅうさんの性暴力の告発とは、異なる面もあるだろう。私はかれらのことを、以下の論によって解釈するつもりもないし、説明するつもりもない。当人の言ったことや書いたものが全てである。他方、そうした発言や記事を受け止めるために、聞く側が共有した方が良い知識もあるように思う。それを念頭に置いて、読み進めて欲しい。

(3)告発した被害者と支援者はどのような状況に置かれるか

 それでは、性暴力の被害者と支援者がどのような状況に置かれるのかについて、宮地尚子「環状島=トラウマの地政学」を参照して考えてみたい。

環状島=トラウマの地政学

環状島=トラウマの地政学

 宮地さんは、性暴力に限らず、当事者と支援者が置かれた状況について、「環状島」の地形にたとえて説明している。環状島とはこんな島のことだ。(図は【宮地, p.7.】)

 環状島はドーナツ上になっている島のことである。島の中心部に内海を持ち、そこからすり鉢上に斜面になっており、山に囲まれている。その山の尾根を越えると、今度は外海に向けて斜面が続いている。宮地はこの環状島の図を用いて、当事者と支援者の置かれた位置を次のように示す。(図は【宮地, p.10】)

 これは環状島の断面図である。中心の内海の最も深部は「ゼロ地点」だとされている。ここは、言うなれば爆心地である。厳しい衝撃で粉々に吹き飛ばされ、死の証拠すら残らなかった当事者のいる場所である。そして、この内海には亡くなった当事者たちが沈んでいる。当事者は、その内海から這い上がり、島の外に出て行こうと向かうのが、内斜面だ。この斜面を登って当事者は外の世界に出ようとしている。尾根を越えた向こうの斜面にいるのが支援者だ。支援者は外側からこの斜面を登って、尾根の内側にいる当事者を助けようとする。外斜面をおりてしまった場所に広がる外海が非当事者の世界である。
 こうした環状島のモデルを使ってイメージすると、被害者が性暴力を告発するというのは、島の内海から内斜面を登り、尾根から外海に向かって発信することである。また、支援者は外斜面を登り、尾根までたどり着いて被害者を助けることになる。そして、宮地さんは、この尾根にいる当事者と支援者は、内海への〈重力〉に引きずられ、尾根を吹きすさぶ〈風〉に晒されるという。
 宮地さんのいう重力とは、主にトラウマの症状を指している。厳しい経験を語ろうとすればするほど、当時の痛みや苦しみが想起され、内海へ引っ張られる。被害者は必死の思いで内斜面を登ってきたのだが、重力はその被害者を内海へ引き摺り下ろそうとする。その中で、被害者は重力に耐え、踏ん張って尾根にとどまらなければ、性暴力を告発できないのである。
 同時に支援者も尾根にたどり着くと、そのまま内海まで引き摺り込んでくる重力に襲われる。性暴力の被害の詳細を聞き、深く受け止めて共感的になることで、支援者自身がトラウマを負うことがある(これは代理受傷と呼ばれている)。そのまま重力に負けてしまえば、内斜面をずるずると滑り落ちて、支援者も内海に飲み込まれてしまう。だから、尾根で告発する被害者を助ける支援者もまた、危険な状態に陥りやすい。
 次に宮地さんは〈風〉について以下のように説明している。

(前略)〈風〉とは、トラウマを受けた人と周囲の間でまきおこる対人関係の混乱や葛藤などの力動のことである。環状島の上空にはいつも強い〈風〉が吹き荒れている。内向きの〈風〉と外向きの〈風〉が吹き乱れ合い、〈内斜面〉も〈外斜面〉も同じ場所に留まりつづけるのはたやすくない。【宮地, p.28】

 登山の経験者であれば、尾根に吹きすさぶ風の激しさはよく知っていることだろう。内向きの風に晒される被害者は、尾根から吹き飛ばされて内斜面から転がり落ちそうになる。この風は、あるときは内海に近いほかの被害者の呻き声であったりする。「助けて」という声を振り切って、被害者は自分だけが尾根を越えようとする。そのことに対する罪悪感が被害者を襲ってくる。あるときは、内斜面の上から内海にいるほかの被害者に対して優越感をえるかもしれない。逆に、自分より尾根に近づいているほかの被害者に羨望の眼差しを向けるかもしれない。もしくは、同じ尾根に立っているのに、ほかの被害者の方が支援が集まり、注目を得ていることに失望するかもしれない。こうした風に耐えながら、被害者は必死に尾根に立ち、自らの性暴力の経験を語る。いつ転がり落ちてもおかしくない場所に立っているのである。
 他方、外斜面にいる支援者は、被害者を助けようと尾根近くまで必死に手を伸ばす。しかし、被害者の側はこれまで繰り返し、裏切られてきた思いがあるため、簡単にその手を取らない。支援者は、危険を冒して尾根の内側まで来ることを被害者から請われ、「どうせここまでは来られないだろう」となじられたりする。被害者は、確実に支援者が信頼できるかどうかを確認するために、尾根で支援者を試すこともある。この風が吹き荒れる尾根の上で、支援者もまた転がり落ちないように踏ん張っている。そのことにより、支援者は疲弊し、下山したくなっていく。また、よりどちらがより内斜面に近づけるのかという、支援者同士の競争もある。さらには外海の非当事者からも風が吹いていくる。「被害者を利用している」「支援者こそが状況を悪化させている」などの批判が、支援者に浴びせられる。ここで繰り返されるのは「偽善者非難」である。こうして支援者もまた、いつ転がり落ちてもおかしくない場所で、被害者の告発を支えることになるのである。
 私が性暴力の告発に際して念頭にあるのは、こうした被害者と支援者の状況である。だから、私は性暴力被害者に向かって、「告発した方が良い」ということはない。尾根では、重力と風に耐えることに疲れてしまった被害者を何人も見た。そのときに、被害者を置いて、自分だけ外斜面を降りていった支援者も見た。その被害者と支援者の間に何があったのかほとんどわからない。私も尾根にいるときは自分が立ち続けるだけで精一杯だった。私が被害者を置いて外斜面を降りていく後ろ姿を見た人もいるかもしれない。
 私は「尾根に立て」とは言えない。自分が尾根に向かったことがあるとしても、やはり言えない。尾根での経験こそが、深いトラウマになることもある。そして、残念なことに「尾根に向かったこと」の責任は、被害者と支援者にあるとされる。自己責任の登山なのだ。「十分な準備をしていたのか」「装備が甘かったのではないか」「天候を読み間違えたんじゃないか」「あの人は無事に登頂できたじゃないか」と外海からいろんな声が聞こえてくる。その状況を見て、尾根に登ろうとする人は足がすくむ。そのことを誰が責められるだろうか。誰も尾根に向かわなくなったとして、それは被害者と支援者が悪いのだろうか。
 それなのに、なぜ尾根に向かう被害者がいるのか。私はそれは、「あの尾根を越えてみせる」ことで、新しい世界を切り拓く力が被害者にはあるからだと思っている。尾根を越えようとする被害者は、内海や内斜面にいる被害者に背を向けなければならない。でも、ほかの被害者たちは、尾根に向かう被害者を見ている。あの向こうの世界に到達できるかどうかを、かたずをのんで見守っている。もしかすると、尾根を越えることによって、次の被害者も尾根を越えようとするかもしれない。また、尾根を越えられなかった被害者を見て、そのあとを引き継いで尾根を越えようとする被害者もいるかもしれない。尾根から内斜面を滑り落ちる被害者を受け止めようとする被害者もいるかもしれない。
 同時に、尾根に向かう支援者の後ろ姿を外海から見ている非当事者もいるだろう。支援者は非当事者の住む世界から遠く離れて尾根に向かう。そして、被害者の手を取ってこちら側の世界に迎え入れようとしている。その後ろ姿をかたずをのんで見守っている非当事者がいる。その非当事者も、また尾根に向かうのかもしれない。または、尾根から戻ってきた支援者や被害者を受け入れようとする非当事者もいるかもしれない。
 こうした尾根に立つ、被害者や支援者を見ている人たちがいることは、わかりやすい「社会を変える」ような行動にはならないかもしれない。なぜなら、黙って見ている人たちは、なかなか可視化されないからだ。それでも、こういう人たちの心を動かすことが、性暴力の告発の意義だと私は思っている。政策や法律を変えたり、裁判に勝ったり、わかりやすい変化を起こすことだけが告発の意義ではない。静かに人の心に、性暴力の問題を考える出発点を与えるような、告発の意義もある。
 以上のように、メタファーを多用して、一般論としての性暴力の被害者と支援者の置かれる状況について書いてきた。これはあくまでもモデルであって、具体的な被害者や支援者の関係に当てはめるようなものではない。その人の経験を、第三者が説明したり解釈したりすることは私の本意ではない。ただ、告発をした被害者、そして支援者が過酷な状況に置かれることはもう少し知られてもいいと思う。告発するというのは、簡単ではないし、二次加害の有無だけではなく、何重にも折り重なった複雑な問題なのである。

小松原織香『性暴力と修復的司法』

 このたび成文堂から『性暴力と修復的司法』を出版することになりました。アマゾンで予約が開始されましたので、お知らせいたします。

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

 元になっているのは、博士論文「性暴力被害者にとっての対話の意義――Restorative Justice(修復的司法)の実践を手がかりに――」(2016年3月)で、出版に際しては大幅に書き換えました。特に、修復的司法に触れたことのない人にも、少しでもわかりやすく伝わるように、第一章の「RJとは何か」の部分は、力を入れて書き直しました。また、第四章では性暴力分野での修復的司法の実践について議論し、米国、アイルランドデンマークなどのセラピスト主導のプログラムも紹介しています。「実際にどんなことが行われているのか」「フェミニズムとの論争はあるのか」「心理セラピーとの関係はどうなるのか」などの疑問について、少しでも答えられるよう、ページを多めに割いて論じています。そして、第五章では「対話」と「赦し」について踏み込んだ哲学的議論に挑んでいます。こちらの部分はこれからの展開していくつもりですので、叩き台としてご意見いただけましたら幸いです。
 以下にサンプルとして、一部を掲載いたしますので、参考としてご覧ください。*1

*1:校正前の最終稿のため、本当は一部表現が異なる箇所があります

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マンガ作品の表現規制について

 私はマンガ作品が人間の価値観に影響を与える可能性を拝しない。価値観は社会的に構成される部分が大きいので、社会に流通するマンガ作品もその一部として機能しているだろう。私たちの性/性役割についてについても、マンガ作品が差別を深めたり、差別に抵抗する力になったりすることはあるだろう。その上で三点を述べておく。

(1)マンガだけが影響を与えるわけではない
(2)「性役割の固定化」と「性暴力」をイコールではない
(3)「表現物を理由にした性暴力」の言説の危険性

(1)マンガだけが影響を与えるわけではない

 私はかねてから、性差別の抑止のために表現規制をするのであれば、性差別的な記述のあるマルクスヘーゲルの文献についても検討すべきだと思っている。私は哲学・思想の学会に出席するが、そこではマルクスヘーゲルの研究者が差別発言を繰り返している。男女二元論による本質化を行い、学会で「女性の本質は出産することにある」と言い出したヘーゲル学者もいる。哲学の研究者は文献を精読し、朝から晩までそのことを考えている。よって、娯楽としてマンガ作品を楽しむ読者よりも、哲学研究者の方が表現物からの影響を受ける可能性は高い。かれらが性差別的な観念を頭に植え付けられてしまった可能性は大いにある。本気で性差別を撤廃するために表現規制をするならば、これらの哲学文献の研究の規制もすべきではないか。
 加えて言うと、私は表現規制には反対であり、性差別を助長するとしても、マルクスヘーゲルの研究を規制するべきではないと考えている。私自身、大学院のゼミでアリストテレスの「二コマコス倫理学」について議論する際に、そこに出てくる性差別的な表現を、出来る限り無視はしたが、苦痛であった。おそらくこの苦痛は男性研究者にはないものだろう。こうした苦痛の有無は男女の研究者の間の非対称性だと言えるだろう。それでも、「二コマコス倫理学」を読み、議論することは私にとって有用であった。なので、表現規制は必要ないと思う。転じて、マンガの中の性差別表現についても規制を求めない。
 さらに私が哲学の文献の話を持ち出したのは、たとえすべてのマンガ作品の性差別表現を規制しても、マンガ以外のこうした専門書の中でも性差別表現は跋扈している点を見逃して欲しくないからだ。そのため、女性の立場から、マンガ作品のみの表現規制は効果がないと考える。
 その上で、こうした文献やマンガ作品が性差別を助長することが、性暴力の助長することとは位相が異なる。私はマルクスヘーゲルの文献を読んで、性暴力を肯定する価値観が支配的だと思ったことはない。「性差別の助長」と「性暴力の助長」は異なる。そのことを(2)では述べたい。

(2)「性役割の固定化」と「性暴力」はイコールではない。

 少年マンガの性表現の有害性の話になると、必ず「少女マンガだって有害だ」という話を持ち出してくる人がいる。「ジャンプ」のカラーイラストに対して「性暴力を助長する」という批判が寄せられた件について書かれた、以下の記事を見てみよう。

 例えば娘が熱心に読んでいた、まいた菜穂12歳。』は、「ちゃお」の看板作品であるが、あれを読んでいると、女子が庇護されるべき存在という感覚とか、女子文化を理解する男子を待ち焦がれてしまうメンタリティとか、そういうものを知らず知らずのうちに植え付けてしまうのではないか、という批判が成り立つ。
 そういう少女マンガの刷り込みというのは、思った以上に深い影響を与える。
 藤本由香里は、

少女マンガのモチーフの核心が、自分がブスでドジでダメだと思っている女の子が憧れの男の子に、『そんなキミが好き』だと言われて安心する、つまり男の子からの自己肯定にある、ということを最初に指摘したのは橋本治である。(藤本『私の居場所はどこにあるの?』朝日文庫p.22)

と述べた上で、自分(藤本)はこの刷り込みの虚構性をその場で悟ったものの、最終的にこの少女マンガの呪縛から脱するのには20代の終わりまでかかったことを告白している。

「ジャンプお色気♡騒動」に思う
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20170707/1499363338

 ここで挙げられている例に顕著だが、これは「性役割の固定化」の問題である。それに比べて、「ジャンプ」のカラーイラストは、女性が衣服を剥ぎ取られているにもかかわらず、喜んでいるように見える表現から「性暴力を助長する」として批判された。この比較は対照ではない。なぜなら、上で挙げられた少女マンガ作品の中では「性役割の固定化」が行われていても、性暴力は肯定されるわけではないからだ。女性が「女子が庇護されるべき存在という感覚」を持っていたり、「女子文化を理解する男子を待ち焦がれてしまうメンタリティ」を持っていたりしても、それが暴力を免罪する理由にはならない。女性がどんな価値観を持っていても、レイプしていいわけがない。そもそも、「庇護されるべきだと思わないという感覚」や「女子文化を理解する男子を待ち焦がれないメンタリティ」を持っていたとすれば、性暴力を防ぐことができるだろうか。そんなことはない。ある種の性暴力加害者は狡猾であり、被害者のあらゆる弱みを握って、自分の欲望を満たそうとする。この比較はまったく対照的でない。
 それでは、少女マンガの中に「性暴力を助長する」という、ジャンプの件と対照的な作品があるのだろうか。少女マンガにも、性暴力を肯定していると取れる作品はある。有名なのは名香智子「PARTNER」である。

 この作品は1980年から1987年まで少女マンガ雑誌プチコミック」に連載された。社交ダンスがテーマではあるが、セックス描写も十分にある。この作品の中で、主人公の茉莉花は「初恋の相手・フランツ」からレイプされかける。しかし、途中でフランツは謝り始め、茉莉花への愛を語り、二人は交際し始める。茉莉花はフランツとのロマンスに溺れるように浸るのだが、途中から彼の身勝手さに愛想を尽かし、「あなたなんか死ねばいいのよ」と雪山に突き落として別れる。このエピソードの前半は「性暴力から始まる恋愛」を肯定しているようにも読める。だが、この作品はその「恋愛の形」を理想化しているというよりは、「現実にもありえる話」として読者に説得的に描いている。世の中にはこうした「恋愛の形」は皆無ではなく、女性が暴力に傷つきながらも、関係を築いていくことはある。その善悪は外側から断罪できるものではない。
 また、私はこの作品は「性暴力を助長する」可能性もあるだろうが、かつて「性暴力を受け入れてしまった女性」を力づけるものとしても機能するように思う。最後に茉莉花が、フランツに対して「勝手に死ねばいいのよ」という心の中で叫ぶ言葉は「性暴力から始まる恋愛」に対して、抵抗ののろしをあげているようにも見えるからだ。他方、この時、茉莉花は別の男性への助けを求めていて、やはり「女子が庇護されるべき存在という感覚」を持っていると言えるかもしれない。それが、茉莉花の弱さだと断罪し、性暴力被害に遭ったのは彼女のメンタリティが理由だと結論づけることができるだろうか。もし、そうする人がいるならば、その人はまさに「隙あらば性暴力の加害を行って良い」という、暴力的なメンタリティを持っていると言えるだろう。
 なお、「性暴力」に対する「被害者の抗い」を描いた少女マンガ作品が膨大にあることはいうまでもない。いくつか思いつくものをあげておく。
ラヴァーズ・キス (小学館文庫)

ラヴァーズ・キス (小学館文庫)

吉祥天女 (1) (小学館文庫)

吉祥天女 (1) (小学館文庫)

愛の時間 (FEEL COMICS)

愛の時間 (FEEL COMICS)

(3)「表現物を理由にした性暴力」の言説の危険性

 最後に現実の性暴力の問題から、表現規制の危険性について書いておきたい。表現物の影響で性暴力が行われるという言説は、性暴力加害者に「簡単に自己の行為を説明する道具」を与えてしまうことになることを指摘したい。これまでの現実の性暴力事件で男性加害者は「性欲が抑えられなかった」と供述してきた。それが警察官の誘導によるものである可能性が高いと、研究者の牧野雅子からは指摘されている。

刑事司法とジェンダー

刑事司法とジェンダー

 牧野は警察が容疑者の取り調べの中で、加害者に「性欲が抑えられなかった」という言葉を恣意的に誘導して言わせていることを明らかにした。そのため、加害者は誘導に応じて「性欲が抑えられなかった」と述べる。そのため、加害者はやはり「性欲が抑えられなかった」から性暴力行為に至ったと結論づけられているのである。こうして警察官によって、「性欲を理由とする性暴力」の言説が再生産されているのである。この中で性暴力加害者の現実は隠蔽される。
 同じことは今度は「表現物を理由とする性暴力」の言説でも起きる可能性がある。先日、性描写のあるマンガを描いている作者のところに、警察官が訪れて「作品の影響で加害者が性暴力行為に至った可能性があるので、今度は注意をしてほしい」という旨の申し入れをしたという事件があった。こうしたことが連続すれば、警察官が誘導によって「表現物を理由とする性暴力」の言説が再生産されることが、容易に推測できる。この中でも性暴力加害者の現実は隠蔽されていく。性暴力加害者は自己の行為についての責任を放棄し、言われるがままに供述することで、真実を隠したまま、捜査を乗り切れてしまうのである。
 こうした、わかりやすい言説の再生産は、加害者だけではなく、かれらを取り巻く私たちに対しても、「性暴力の現実から目をそらすもの」として機能する。表現物を理由にしていれば、私たちは「問題のある作品」を排除することで性暴力を抑止できる気分になるかもしれない。だが、いうまでもなく、性暴力加害者が性暴力に至る経緯は丁寧に掘り下げて聞き取り、分析する必要がある。現在は性暴力加害者の背景はある程度の類型化をした研究が蓄積されている。性暴力の抑止には、こうした研究と、それに基づく治療プログラムの開発・実践が必要だろう。そのためには金も人材も用意しなければならない。「表現物を理由にした性暴力」の言説が一人歩きすることで、こうした地道な研究や実践が後回しになってしまう危険もあるのである。