マンガ作品の表現規制について

 私はマンガ作品が人間の価値観に影響を与える可能性を拝しない。価値観は社会的に構成される部分が大きいので、社会に流通するマンガ作品もその一部として機能しているだろう。私たちの性/性役割についてについても、マンガ作品が差別を深めたり、差別に抵抗する力になったりすることはあるだろう。その上で三点を述べておく。

(1)マンガだけが影響を与えるわけではない
(2)「性役割の固定化」と「性暴力」をイコールではない
(3)「表現物を理由にした性暴力」の言説の危険性

(1)マンガだけが影響を与えるわけではない

 私はかねてから、性差別の抑止のために表現規制をするのであれば、性差別的な記述のあるマルクスヘーゲルの文献についても検討すべきだと思っている。私は哲学・思想の学会に出席するが、そこではマルクスヘーゲルの研究者が差別発言を繰り返している。男女二元論による本質化を行い、学会で「女性の本質は出産することにある」と言い出したヘーゲル学者もいる。哲学の研究者は文献を精読し、朝から晩までそのことを考えている。よって、娯楽としてマンガ作品を楽しむ読者よりも、哲学研究者の方が表現物からの影響を受ける可能性は高い。かれらが性差別的な観念を頭に植え付けられてしまった可能性は大いにある。本気で性差別を撤廃するために表現規制をするならば、これらの哲学文献の研究の規制もすべきではないか。
 加えて言うと、私は表現規制には反対であり、性差別を助長するとしても、マルクスヘーゲルの研究を規制するべきではないと考えている。私自身、大学院のゼミでアリストテレスの「二コマコス倫理学」について議論する際に、そこに出てくる性差別的な表現を、出来る限り無視はしたが、苦痛であった。おそらくこの苦痛は男性研究者にはないものだろう。こうした苦痛の有無は男女の研究者の間の非対称性だと言えるだろう。それでも、「二コマコス倫理学」を読み、議論することは私にとって有用であった。なので、表現規制は必要ないと思う。転じて、マンガの中の性差別表現についても規制を求めない。
 さらに私が哲学の文献の話を持ち出したのは、たとえすべてのマンガ作品の性差別表現を規制しても、マンガ以外のこうした専門書の中でも性差別表現は跋扈している点を見逃して欲しくないからだ。そのため、女性の立場から、マンガ作品のみの表現規制は効果がないと考える。
 その上で、こうした文献やマンガ作品が性差別を助長することが、性暴力の助長することとは位相が異なる。私はマルクスヘーゲルの文献を読んで、性暴力を肯定する価値観が支配的だと思ったことはない。「性差別の助長」と「性暴力の助長」は異なる。そのことを(2)では述べたい。

(2)「性役割の固定化」と「性暴力」はイコールではない。

 少年マンガの性表現の有害性の話になると、必ず「少女マンガだって有害だ」という話を持ち出してくる人がいる。「ジャンプ」のカラーイラストに対して「性暴力を助長する」という批判が寄せられた件について書かれた、以下の記事を見てみよう。

 例えば娘が熱心に読んでいた、まいた菜穂12歳。』は、「ちゃお」の看板作品であるが、あれを読んでいると、女子が庇護されるべき存在という感覚とか、女子文化を理解する男子を待ち焦がれてしまうメンタリティとか、そういうものを知らず知らずのうちに植え付けてしまうのではないか、という批判が成り立つ。
 そういう少女マンガの刷り込みというのは、思った以上に深い影響を与える。
 藤本由香里は、

少女マンガのモチーフの核心が、自分がブスでドジでダメだと思っている女の子が憧れの男の子に、『そんなキミが好き』だと言われて安心する、つまり男の子からの自己肯定にある、ということを最初に指摘したのは橋本治である。(藤本『私の居場所はどこにあるの?』朝日文庫p.22)

と述べた上で、自分(藤本)はこの刷り込みの虚構性をその場で悟ったものの、最終的にこの少女マンガの呪縛から脱するのには20代の終わりまでかかったことを告白している。

「ジャンプお色気♡騒動」に思う
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20170707/1499363338

 ここで挙げられている例に顕著だが、これは「性役割の固定化」の問題である。それに比べて、「ジャンプ」のカラーイラストは、女性が衣服を剥ぎ取られているにもかかわらず、喜んでいるように見える表現から「性暴力を助長する」として批判された。この比較は対照ではない。なぜなら、上で挙げられた少女マンガ作品の中では「性役割の固定化」が行われていても、性暴力は肯定されるわけではないからだ。女性が「女子が庇護されるべき存在という感覚」を持っていたり、「女子文化を理解する男子を待ち焦がれてしまうメンタリティ」を持っていたりしても、それが暴力を免罪する理由にはならない。女性がどんな価値観を持っていても、レイプしていいわけがない。そもそも、「庇護されるべきだと思わないという感覚」や「女子文化を理解する男子を待ち焦がれないメンタリティ」を持っていたとすれば、性暴力を防ぐことができるだろうか。そんなことはない。ある種の性暴力加害者は狡猾であり、被害者のあらゆる弱みを握って、自分の欲望を満たそうとする。この比較はまったく対照的でない。
 それでは、少女マンガの中に「性暴力を助長する」という、ジャンプの件と対照的な作品があるのだろうか。少女マンガにも、性暴力を肯定していると取れる作品はある。有名なのは名香智子「PARTNER」である。

 この作品は1980年から1987年まで少女マンガ雑誌プチコミック」に連載された。社交ダンスがテーマではあるが、セックス描写も十分にある。この作品の中で、主人公の茉莉花は「初恋の相手・フランツ」からレイプされかける。しかし、途中でフランツは謝り始め、茉莉花への愛を語り、二人は交際し始める。茉莉花はフランツとのロマンスに溺れるように浸るのだが、途中から彼の身勝手さに愛想を尽かし、「あなたなんか死ねばいいのよ」と雪山に突き落として別れる。このエピソードの前半は「性暴力から始まる恋愛」を肯定しているようにも読める。だが、この作品はその「恋愛の形」を理想化しているというよりは、「現実にもありえる話」として読者に説得的に描いている。世の中にはこうした「恋愛の形」は皆無ではなく、女性が暴力に傷つきながらも、関係を築いていくことはある。その善悪は外側から断罪できるものではない。
 また、私はこの作品は「性暴力を助長する」可能性もあるだろうが、かつて「性暴力を受け入れてしまった女性」を力づけるものとしても機能するように思う。最後に茉莉花が、フランツに対して「勝手に死ねばいいのよ」という心の中で叫ぶ言葉は「性暴力から始まる恋愛」に対して、抵抗ののろしをあげているようにも見えるからだ。他方、この時、茉莉花は別の男性への助けを求めていて、やはり「女子が庇護されるべき存在という感覚」を持っていると言えるかもしれない。それが、茉莉花の弱さだと断罪し、性暴力被害に遭ったのは彼女のメンタリティが理由だと結論づけることができるだろうか。もし、そうする人がいるならば、その人はまさに「隙あらば性暴力の加害を行って良い」という、暴力的なメンタリティを持っていると言えるだろう。
 なお、「性暴力」に対する「被害者の抗い」を描いた少女マンガ作品が膨大にあることはいうまでもない。いくつか思いつくものをあげておく。
ラヴァーズ・キス (小学館文庫)

ラヴァーズ・キス (小学館文庫)

吉祥天女 (1) (小学館文庫)

吉祥天女 (1) (小学館文庫)

愛の時間 (FEEL COMICS)

愛の時間 (FEEL COMICS)

(3)「表現物を理由にした性暴力」の言説の危険性

 最後に現実の性暴力の問題から、表現規制の危険性について書いておきたい。表現物の影響で性暴力が行われるという言説は、性暴力加害者に「簡単に自己の行為を説明する道具」を与えてしまうことになることを指摘したい。これまでの現実の性暴力事件で男性加害者は「性欲が抑えられなかった」と供述してきた。それが警察官の誘導によるものである可能性が高いと、研究者の牧野雅子からは指摘されている。

刑事司法とジェンダー

刑事司法とジェンダー

 牧野は警察が容疑者の取り調べの中で、加害者に「性欲が抑えられなかった」という言葉を恣意的に誘導して言わせていることを明らかにした。そのため、加害者は誘導に応じて「性欲が抑えられなかった」と述べる。そのため、加害者はやはり「性欲が抑えられなかった」から性暴力行為に至ったと結論づけられているのである。こうして警察官によって、「性欲を理由とする性暴力」の言説が再生産されているのである。この中で性暴力加害者の現実は隠蔽される。
 同じことは今度は「表現物を理由とする性暴力」の言説でも起きる可能性がある。先日、性描写のあるマンガを描いている作者のところに、警察官が訪れて「作品の影響で加害者が性暴力行為に至った可能性があるので、今度は注意をしてほしい」という旨の申し入れをしたという事件があった。こうしたことが連続すれば、警察官が誘導によって「表現物を理由とする性暴力」の言説が再生産されることが、容易に推測できる。この中でも性暴力加害者の現実は隠蔽されていく。性暴力加害者は自己の行為についての責任を放棄し、言われるがままに供述することで、真実を隠したまま、捜査を乗り切れてしまうのである。
 こうした、わかりやすい言説の再生産は、加害者だけではなく、かれらを取り巻く私たちに対しても、「性暴力の現実から目をそらすもの」として機能する。表現物を理由にしていれば、私たちは「問題のある作品」を排除することで性暴力を抑止できる気分になるかもしれない。だが、いうまでもなく、性暴力加害者が性暴力に至る経緯は丁寧に掘り下げて聞き取り、分析する必要がある。現在は性暴力加害者の背景はある程度の類型化をした研究が蓄積されている。性暴力の抑止には、こうした研究と、それに基づく治療プログラムの開発・実践が必要だろう。そのためには金も人材も用意しなければならない。「表現物を理由にした性暴力」の言説が一人歩きすることで、こうした地道な研究や実践が後回しになってしまう危険もあるのである。

ザ・ノンフィクション「会社と家族にサヨナラ 〜ニートの光の幸せ〜」

 日本で一番有名なニートことid:phaさんを中心に運営している「ギークハウス」が、テレビ番組「ザ・ノンフィクション」に取り上げられた。

「ザ・ノンフィクション後編は25日放映です」
http://pha.hateblo.jp/archive/2017/06/24

ギークハウスは、30代前後の人たちが共同生活を行うシェハウスだ。「働かない/働けない」人たちが集まって暮らしている。主な運営資金はカンパや就労している人たちの出資で賄っている。プログラマなどのIT関係者の溜まり場というイメージも強かった。社会の「常識」や「ルール」に馴染めなかったり、精神疾患・障害を持っていたり、失職を繰り返したりしている人たちが共同生活をしている。同時に抜きん出た「個性」と「才能」を持つ人が数多く集まる場所にもなってきた。
 このギークハウスを取り上げた番組の中で私が引き込まれたのは、phaさんの「一人だけ生き残っても仕方がない」という言葉だった。phaさんは、何冊も本を出版するライターであり、ギークハウスの運営を展開している実業家である。いまも「だるい」という言葉をつぶやき、決められた場所で働くことはできないと言う。それでも、もう元ニートであって、十分に賃労働も社会参加もしている。そこで、やっているのは「みんなの居場所」を維持しようとすることだ。
 phaさんは「家族」という血縁関係や性愛関係での繋がりとは、別の形での共同体のあり方を模索する。利害関係でもないし、社会理念でもない。ただそこで、みんなが集まれる場所、というのは、人の流動性が高くなっていつも不安定だ。同じメンバーでやっていく約束は何もない。それも、ギークハウスは「ちゃんとした場所」ではない。雑然としているし、集まる人たちも個性が強く、好き勝手に動く。そういう場だからこそ、繋がれる人たちがいる。
 さらに、phaさんは、ギークハウスが引越しすることになったことを機に、二段ベッドをいくつも据付けることにした。「居場所のない人」を引き受けるためである。「家で引きこもっている」「親との関係が上手くいかない」「他人の家に居候している」などの行き詰まっているが、「お金がない」ために行く場所のない人が、転がり込めるようにしたのだ。民間のセーフティーネットだ。
 もちろん、本来的にはこうしたセーフティーネットは、福祉が担うべきものだろう。行く場所がない人には「支援」が必要だ。だが、phaさんは「支援」という言葉を使わない。「自分の周りに面白い人がいてほしいから」「そのほうが楽しいから」という言葉で説明する。phaさんは「支援者」の位置をとらない。やっていることが「支援的」であっても、おそらく「支援」をしたいのではない。私にはphaさんの取り組みは、「支援」とは異なる形で、場を作って「共に生きる」ことを目指すという、「基本に忠実な当事者団体」のやり方と重なって見えた。
 そして、もう一人、この番組でクローズアップされるのが、ギークハウスの常連、漫画家の小林銅蟲さんだ。小林さんは現在、イブニングで料理マンガ「めしにしましょう」を連載中だ。

小林銅蟲めしにしましょう
http://www.moae.jp/comic/meshinishimashou/1

 小林さんは、この連載を開始するまで大変な紆余曲折があった。一時期は、病気や引きこもりで外に全く出れず、親との関係も悪化して辛い時期が続いた。恋人の助けを借りて家を出て二人暮らしを始めたが、マンガを描くことで十分な定期収入を得るまで、長い道のりがあった。やっと、連載を始めることができると、小林さんはギークハウスの無職の人を、アルバイトに雇う。マンガを描くことをさぼらないように、隣で見ていてもらう仕事だ。もちろん、実際にマンガを描くために必要だから雇ったのだが、仕事のない人に「職を作る」ためでもある。小林さんはそのことをさらっと「還元したい」と語った。
 テレビで切り取られたこの生活が、どれくらい現実と一致しているのかは私にはわからない。内部に問題がないはずはないし、維持運営の経費や雑務の大変さを考えるとめまいがする。それでも、番組が描いた「夢」が伝わる人もいると思う*1。「私は与えられた」から「私も与えたい」という夢は、ロスジェネと呼ばれる私も含めたある世代が抱くわずかなキラキラしたものなのかもしれない。この世代は、「努力は報われない」ことが多く、「どこにもいけない」から辛い場所にとどまり続けた。そのことを恨むのではなく、次の人へのパスに繋げたい。そう思う時にこの世代の「光」の面が際立つ。もちろん、この世代の「影」の面が強くなれば「私は与えられなかった」から「私も与えない」に反転するのだろうが。

*1:個人的には、過去のいろんな人のことを思い出して泣いてしまったし、自分はこうした繋がりから離脱することを決めてしまった、という気持ちもある。

警察官が被害者に「処女ですか?」と聞く必要はない

 インターネット上で、警察官が性暴力被害者に「処女ですか?」と聞くのは、「処女の被害であれば強姦致傷になるからだ」という流言が飛び交っている。警察のセクシュアルハラスメント行為を正当化する言説であるので、訂正を求めたい。
 以下で(1)「強姦」と「強姦致傷」(2)処女膜損傷が「強姦致傷」と認められた判例(3)「強姦致傷」には診断書が必要(4)レイプシールド法の必要性について順番に書いていく。タイトル部の答えだけを読みたい場合は(3)から読んでほしい。
 なお、私は法律の専門家ではない。本来は専門家による解説が適切であるが、取り急ぎ書いておく。

(1)「強姦」と「強姦致傷」

 刑法では、「強姦」と「強姦致傷」は以下のように定められている。

177条(強姦)
暴行又は脅迫を用いて十三歳以上の女子を姦淫した者は、強姦の罪とし、三年以上の有期懲役に処する。十三歳未満の女子を姦淫した者も、同様とする。
181条(強制わいせつ等致死傷)
②第百七十七条若しくは第百七十八条第二項の罪又はこれらの未遂罪を犯し、よって女子を死傷させた者は、無期又は五年以上の懲役に処する。

 上でわかるように、「強姦」とは「女性対するレイプ」のことであり、「強姦致傷」とは「女性に対するレイプの際に、怪我をさせたり、死なせたりすること」である。なぜ女性に限っているかというと、日本の刑法では強姦は性器主義をとり、「男性の陰茎を女性の膣に挿入する」ことだからだ。男性に対するレイプは、強姦と認められていない。6月2日から始まった刑法改正の審議*1では、この強姦の定義を変更し、男性に対するレイプを認めることが含められている。
 「強姦」と「強姦致傷」の違いは、親告罪であるかないかである。強姦の場合は親告罪であるため、被害者が望まない限りは、検察官は起訴しない。それに対して、強姦致傷の場合は、検察官だけの判断で起訴が行われる。そのため、強姦の場合は被害者が起訴する/しないを判断しなければならないという重圧があり、「自己責任」状態になってしまっているので、こちらも現在の刑法改正の審議で「非親告罪化」が検討されている。ただし、性暴力の場合、裁判をするとなれば被害者の負担は大きくなる。そのため、検察官が一方的に起訴をすることが被害者にとって有益であるのかは定かではない*2
 さらに、「強姦」の刑期は「最低三年の有期懲役」である。他方、「強姦致傷」の刑期は「無期又は五年以上の懲役」である。懲役とは刑務所に入ることである。「強姦致傷」のほうが、刑期は長くなるが、それよりも重要なのは「裁判員裁判の対象になること」である。裁判人裁判の対象は、「無期又は死刑に相当する重犯罪」であるため、「強姦致傷」も含まれる。そのため、(ある程度の遮蔽はあるものの)一般の市民の前で、性暴力被害者は証言せざるをえなくなる。そのため、「強姦」ではなく、「強姦致傷」で起訴することは、被害者の精神的負担を大きくする可能性がある。このことについては、以下の記事が詳しい。

「強姦致傷罪での起訴は裁判員裁判以降、激減した」
https://www.buzzfeed.com/jp/kazukiwatanabe/prosecutor-did-not-indict-takahata?utm_term=.qbe0LrKK2V#.rpX6KkDDP3

 以上のように、より刑期の長い「強姦致傷」での起訴が、「強姦」での起訴よりも被害者に有益だという確証はない。また、法の運用上は、検察官の操作的な線引きになっている。

(2)処女膜損傷が「強姦致傷」と認められた判例

 それでは、処女膜の損傷を理由として「強姦致傷」が認められた判例を見ていこう。これは私がインターネットで調べて見つけただけなので、実際の運用上で、どの程度、この判例が使われているのかはわからないが、参照する。

事件番号  昭和34(あ)1274
事件名  強姦致傷
裁判年月日  昭和34年10月28日
法廷名  最高裁判所第二小法廷
裁判種別  決定
結果  棄却
判例集等巻・号・頁  刑集 第13巻11号3051頁
原審裁判所名  東京高等裁判所
原審事件番号  
原審裁判年月日  昭和34年5月30日
判示事項  強姦して処女膜裂傷を生ぜしめた場合と刑法第一八一条の罪の成立。
裁判要旨  処女を強姦して処女膜裂傷(処女膜の左後方に粘膜下出血を伴う〇・五糎の裂創)を生ぜしめたときは、刑法第一八一条の強姦致傷罪が成立する。
参照法条  刑法181条
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=55811

 ここで注目してほしいのは、1959年の判例だということである。今から50年近く前に下された判断であり、当時の性意識が反映されている。
 私はこれまで、数冊の性暴力に関する法律家のガイドブックを読んできたが、今までこの判例の検討は見たことがない。現代の性暴力の裁判に取り組む上で、重要な判例と言えるかどうか不明である。少なくとも支援者の議論では「処女膜損傷」の有無に重点は置かれていない。あえて現代的な観点で、この判例についてコメントするならば、「処女性を重んじる」という性差別的な偏見の強い判例であると言える。

(3)「強姦致傷」には診断書が必要

 実際に「処女膜損傷」を理由にした「強姦致傷」で訴えるならば、医師による診断が必要になる。その際には、加害者の暴力が処女膜を損傷したという因果関係を明らかにしなければならない。つまり、被害者の証言だけで、「処女の被害者であるから、強姦ではなく強姦致傷である」と認められるわけではないのである。したがって、警察官が性暴力被害者に「処女ですか?」と尋ねる不可避の理由はない。
 そもそも、性暴力の場合に、性器が傷つくことは、処女であってもなくても有り得ることである。だから、警察官は一律に「もし、痛みや出血があれば医師の診断を受けることができますが」と申し出ればいいのである。処女膜であれ、そのほかの性器の部分であれ、損傷があれば「強姦致傷」になるのである。(ただし、外陰部の損傷の診断は、非常に難しいこともこれまでの法医学の研究からはわかっているようだ*3。)
 また、仮に、性体験の有無を聞く必要が証拠の採取や捜査上、警察官や医師に生じた場合は、慎重な姿勢が必要であることも指摘されている。

(前略)見ず知らずの医療者や警察官などが、たとえ、診察上、あるいは、捜査上、それぞれに必要であったとしても、これまでの性体験の有無や直近の同意のある性交について、なんの前置きもなく、あまりにも唐突に聞いてしまうことがあるかもしれない。これは、被害に遭ったという者にかなりの心理的負担を強いると考えられ、場合によっては、相当程度傷つけることにもなりかねない。したがって、まず、なぜそのような質問をするのか、きちんと説明をすることが重要である。例えば、「外陰部に傷が見つかったり体液が検出されたり感染症の結果が陽性だったりした場合に、いつ、誰からの物かを考えないといけないので、今からお尋ねすることについて教えてください」などと伝えると、被害者も多少の心の準備ができると考えられる。
高瀬泉「法医学者からみた性暴力対応の現状」(『性暴力と刑事司法』、p.133)

 以上のような配慮があれば、性体験について聞かれた被害者の印象はまったく違うものになるだろう。できる限り、このような質問は避けるべきであるだろうが、もし、することになれば、質問者の心構えが必要になる。この質問の仕方が、被害者に「処女ですか?」と聞くのとはまったく違うということは一目瞭然である。(残念ながら、警察官だけではなく、医師もこうした配慮のある質問をできる人は少ないと考えられる。性暴力被害者を取り巻く厳しい環境は、司法の問題が大きいはもちろんだが、医療の問題も大きい)

(4)レイプシールド法の必要性

 ここまで見てきた通り、性暴力被害者に、性体験の有無を聞くことはできる限り避けるべきである。しかし、現状の刑事司法制度では、裁判においても被害者は事件以外の性体験について質問されることがある。そこで、米国にはレイプシールド法が制定され、被害者に過去の性体験について質問することが禁止された。以下のように解説されている。

この制度は、主尋問および反対尋問において、被害者が被告人やその他の者との関係で有した過去の性的行動に関する証拠について、その許容性を制限するものである。多くの州は、被告人との間の過去の性遍歴を証拠として利用することを制限し、その結果、それは非公開または裁判官室での審理でなければ認められないとし、また、同意の証明などの一定の目的のためにのみ許容されるとされた。各州はまた、被告人以外の第三者との間の過去の性遍歴を証拠として利用することを厳しく制限しようとした。その結果、それは非公開での審理でなければ認められないとし、また、同意の証明などの特定の場合にのみ許容されるとされた。特定の場合とは、性液の同一性、隠れた動機、過去の不実の告発の証明といった目的である場合が含まれる。いくつかの州は、同意や信用性を証明するために、性遍歴を証拠として利用することを禁止した。
斎藤豊治「アメリカにおける性刑法の改革」(『性暴力と刑事司法」、pp.171-172)

 以上のように、レイプシールド法の制定によって、性暴力被害者に過去の性体験を聞くことは厳しく制限されることになった。日本でも、導入を求める声がある。警察官だけでなく、医者、弁護士、裁判官、検察官に対しても、性暴力被害者に過去の性体験を聞くことに対する批判が、国際的にも高まっているということである。

性暴力と刑事司法

性暴力と刑事司法

女子のための「性犯罪」講義―その現実と法律知識 (Social Compass Series)

女子のための「性犯罪」講義―その現実と法律知識 (Social Compass Series)

*1:付け加えておくと、この刑法改正案はこれまで専門家会議を重ね、慎重に進めらてきており、今国会で重点的に審議されるはずであったが、共謀罪のために後回しにされた。

*2:私は非親告罪化には慎重な姿勢をとっている。性暴力被害者の支援活動に関わっていて、切実なのは被害者の「孤立」と「困窮」である。もちろん裁判を望む被害者もいるが、一部の性暴力問題に取り組む弁護士の「全ての被害者は裁判したいと思っている」というのは、経験的に嘘だと知っている。「それどころではない」「そんなことしたくない」と思っている被害者もたくさんいる。

*3:高瀬、pp.135-137.

「成人向け同人小説」を研究対象にする場合の問題について【追記あり】

 id:lisagasuさんからブクマコメ*1でコールをいただいていたので、「成人向け同人小説」を研究対象にする場合の問題について、簡単に私の意見を述べる。これは、人工知能学会に掲載された論文において、「成人向け同人小説」を作者に無断で分析対象にし、その固定URLを伏字なしに掲載した件について言及している。(この論文は立命館大学の管理するウェブサイトに公開され、誰もが簡単にアクセスにできる状態にしてあった。立命館大学側が事態に気づき、非公開に切り替えた。)
 私がこの件が問題であると考えるのは以下の4点である。

(1)研究テーマが表現の「有害性」についてものであったこと
(2)研究対象が「成人向け同人小説」であったこと
(3)研究の方法・内容に不備があったこと
(4)論文を非公開にする判断を下したのは「学会」ではなく「大学」であったこと(追記:こちらは事実誤認であることがわかっため、撤回)

(1)研究テーマが表現の「有害性」についてものであったこと

 まず大きな問題としては 研究テーマが表現の「有害性」であったことにある。どのような表現が「有害」であるのかないのかについては、議論が継続中であり、非常に扱いの難しい領域だと言える(追記3参照)。しかしながら、この論文の研究者は(おそらく法や条例の規制を念頭に置くことで)「有害であること」の基準についての自己定義を明確にしていなかった。そのため、ある作品を「有害だと評価すること」の妥当性と政治性についての検討が足りていなかった可能性がある。この件については論文が非公開になった以上、詳しく論じることはできないが、研究者が十分に配慮すべき点ではあると思う。

(2)研究対象が「成人向け同人小説」であったこと

 次の問題は、この研究が分析対象に選んだのが「成人向け同人小説」であったことである。同人小説は、商業小説とは異なり、個人が趣味の範囲内で執筆を行なっている。その頒布規模に関わらず、あくまでも個人の独立した創作活動であることが重要である。仮に、商業小説であれば、出版社などの関係者が、作品の執筆者とともに作品制作に関わることになる。同人小説の作者は、商業小説の作者よりも「弱い立場」にあると考えることができるだろう。こうした同人小説を、商業小説ではなく選んだという点については、恣意性があったと言える。その対象の選定の妥当性には疑問がある。
 また、同人小説の多くは二次創作であり、いわゆる「女性向け(男性同士の性愛描写を含む)作品」は、原作者またはその原作のファンに損害・不利益を与えないように配慮しながら、執筆活動を行なっている。できる限り、同好の者以外の目には触れないように努めるという文化がある。今回の論文で取り上げられた、小説の投稿サイトでも、作品ごとに細かくタグ付けがされている。これは作者は同好者だけが読むことができるように念入りに配慮をすることになっているということである。その配慮の是非や妥当性はここでは問わないが、いわゆる市場で流通する表現物とは異なるルールで創作活動が行われることは、この件では重要な点である。
 この論文では、研究者は「成人向け同人小説」の作者が行なっている創作活動の実態に、どれだけ関心を持ち、情報収集を行なった上で、研究を行ったのかについては疑問がある。「人」を対象にした研究(追記2参照)は、常に「そこで暮らしている人々」の生活を破壊する恐れがある。そのため、研究者は調査倫理として、研究する相手についての入念な調査と準備をしなければならない。これは、この論文が研究倫理の上で問われる点であると思われる。

(3)研究の方法・内容に不備があったこと

 論文が非公開になっているため、詳しくは検討できない。また、私は人工知能についての研究の手法についての知識はないため、妥当性はわからない。しかしながら、web上では、「サンプルが10件であったこと」「サンプルの選定基準が明らかでないこと」などについて批判がある。この問題については、論文報告を認めた人工知能学会によって、妥当性が検討されるべきだろう。

(4)論文を非公開にする判断を下したのは「学会」ではなく「大学」であったこと(この点については事実誤認であったことがわかったので、取り下げ。関係者へ陳謝の上、撤回いたします。経緯について追記1と4と5を参照。)

====撤回====
 最後に、他の3点とは異なる問題がある。それは、論文を非公開にする判断を「学会」に先じて「大学」が行ったことである。いうまでもなく、これは大学による研究者に対する「表現の自由」の抑制にあたる。ここまで書いてきた3点の問題があるため、私はこの論文は十分に非公開の判断を下す理由があると考えるが、その判断を下すのは誰であるのかは、十分に注意をしなければならない。
 研究者当人が、自己判断によって論文の非公開を希望する場合は大きな問題はないだろう。(その研究者の意思が、政治状況や権力関係によるものであることもあるが、その点はここでは問わない)次に、学会側が学術的な不備があることを認めて、非公開の措置をとることもあり得るだろう。学会は、学会員の研究の質の保障をする役割も担っているからだ。だが、大学側が非公開にする場合は、その判断の妥当性がどこから来るのかを明確にしなければならない。たとえば、研究倫理違反であるならば、研究倫理を管轄する大学の機関が判断を下すことになる。しかしながら、現時点ではそのような機関による判断であることは発表されていない。大学が妥当な理由なく、研究者の論文の公開を差し止めることについては、「表現の自由」の観点から問題があるだろう。
 このことを問題視するのは、今回とは逆の理由によって大学による論文の非公開の措置があり得るからだ。すなわち、「成人向け同人小説」を肯定的に書く論文が、それらの表現を認めない者から差し止めの請求があった時、大学の独断で非公開になる可能性があるということだ。この件では、大学側の「迅速な対応」は「実質的」には肯定的に評価されるだろうが、「表現の自由」を守る点からは慎重に見るべきである。
==========

 以上の4点が私の今回、問題だと思う点である。

追記1

 (4)について、この論文は学会判断で非公開になったという情報が寄せられている。私がツイッターの流れを見ている限り、論文に気づいた有志が立命館大学の事務局に電話をし、立命館大学側が「問題が重大である」と認識して非公開にしたという話になっていたように思ったが、リアルタイムでのやりとりだったため、真偽は不明である。そのため、この非公開のプロセスが正式に明らかにされた場合、(4)は私の事実誤認として取り下げる。
 なお、立命館大学は2009年に学生の「性に関する展示」を当事者に無断で撤去したことがある。そのことも念頭に置いて(4)については書いた。

トランスジェンダーとからだ」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20090126/1232970994

追記2

 この件が、「人」を対象にする研究かどうかの判断基準であるが、研究者の所属する立命館大学では「人を対象とする研究倫理」を以下のように定めている。

※「人を対象とする研究」とは、臨床・臨地人文社会科学の調査および実験をいい、個人または集団を対象に、その行動、心身もしくは環境等に関する情報を収集し、またはデータ等を採取する作業を含みます。
「人を対象とする研究倫理」
http://www.ritsumei.ac.jp/research/approach/ethics/mankind/

 こ論文の場合は、研究対象は「人」ではなく「作品」だとする見方もあるが、研究倫理では「概念上の問題」ではなく「実質上の問題」が問われる。すなわち、研究を遂行していく上で、周囲の人間に与える影響が問われるのである。
 さらに、この中に以下のようなチェックシートがある。

「【様式1】立命館大学における人を対象とする研究倫理審査」に関するチェックシート」
http://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?id=230390&f=.doc

 チェックシートの項目には以下がある。

<危険性>
(省略)
2. 研究対象者に対し、何らかの不快感や困惑、または精神・心理的な負荷や危害を及ぼす可能性があるものですか?
(省略)
4. 研究対象となる個人や集団が差別を受けたり、その経済状況や、雇用・職業上の関係、あるいは私的な関係に損害を与えたりするおそれのある情報の収集など、研究対象者に潜在的に不利益となるようなものですか?

 上のチェックシートでは「研究対象者」となっているが、この件では実質的に研究対象の作品の作者が不安感や困惑、または損害があったと申し立てている。この場合、やはり研究遂行の上では倫理的な問題があったと言えるだろう。
 ただし、上の記事本文を見てもわかるように、その場合に「データの使用許諾を取るべき」だとは私は考えていない。研究倫理への配慮は常にケースバイケースであり、決められた形式に沿うものではないからだ。逆に言えば使用許諾を取ったとしても、倫理的な問題が生じることはある。だからこそ、研究者個人の「配慮」の具体的な方法が妥当であるかどうかは、研究機関の倫理審査が判断するのである*2

追記3

 「成人向け表記」と「有害図書」の違いについて書いておく。「成人向け表記」(18禁表記)とは、表現者側の自主規制である。表現者がその表現を「誰に向けて書いたものか」を示すものである。これは表現者側の任意の指定であり、自由に行われる。他方、「有害図書」とは地方自治体等が指定する表現規制である。これは、ある図書を、何らかの価値判断によって公的に「有害」であると認定することである。両者は「自発的なもの」と「公権力によるもの」という大きな違いがある。
 さらに、「有害性」について、「どのような図書が青少年に有害であるか」についての有効な実証研究はない。なぜなら、研究調査において、青少年に実際に有害と思われる図書を閲覧させ、その影響を計測することは、研究倫理に違反するからだ。よって、図書の「有害性」の認定はなんらかの科学的な根拠に基づくものではない。そのため、「有害図書」の指定は、公的権力がある価値観によって「有害であるかどうか」を判断することになり、政治的判断として行われることになる。よって研究者は、その「有害性」の政治的判断について、精査し妥当であるかどうかは、独自に検証することが必要だと考えられる。

追記4

 ブコメで、この論文は人工知能学会の判断で非公開の措置が取られているとの情報をいただいた。

pixivのR-18小説を「有害な文」 学会が論文取り下げ 「検討するため」
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1705/25/news137.html

 しかしながら、追記1でも述べたように、この判断は大学側が学会側に先んじていたように推測できる、リアルタイムの流れがあったため、非公開のプロセスについては公式の発表が欲しい。ここはとても大事な点だと思っているので。

追記5

 ブコメで、この論文の非公開は大学に先んじて学会判断であったことが以下の記事に掲載されていることがわかったため、(4)はこれを覆す情報が出ない限り、撤回いたします。事実誤認についてお詫び申し上げます。

人工知能学会はBuzzFeed Newsの取材に対し、「本学会ならびに本全国大会の幹部で、本件について検討するため、いったん非公開とさせていただきました」と回答。非公開の判断に至った理由なども追加で問い合わせている。

立命館大学は「現在、事実関係を確認中」。大学としてコメントなどを発表する予定はあるか? という質問には「それも含め、対応は事実関係把握後に検討する」とした。

論文PDFの削除については、学会や論文著者から大学側に事前に連絡はなかったという。

「【追記あり】「モラルを疑う」pixiv上のR-18小説を“晒し上げ” 立命館大学の論文が炎上 今後の対応は」
https://www.buzzfeed.com/jp/harunayamazaki/jsai2017-r18?utm_term=.ex5WnjggQY#.vtxnDjAAR0

*1:http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.buzzfeed.com/jp/harunayamazaki/jsai2017-r18

*2:私は今の大学の研究倫理の審査については不満があり、十分に機能しているとは思っていないが、本来的には必要であるし、ないよりはマシという点で現時点でも審査での厳正な判断は重要だとは思う。

小森はるか「息の跡」

 この映画は2013年から2016年の陸前高田を撮影したドキュメンタリーである。陸前高田津波の甚大な被害を受けた。多くの人が家族や大事な人を亡くし、住むところを失くした。その被害のあとすぐに、国道沿いにある「たね屋」が再建した。「たね屋」の佐藤さんは津波でお店の全てを失った。被災後の店舗は柱すら残っていなかった。その跡地に井戸を掘り、自作の店舗を建てて、ビニールハウスで商品になる苗を栽培している。復興工事のトラックがごうごうと轟音で通り過ぎていく中、種を蒔き、芽がでると少し大きな園芸用ポットに移す。佐藤さんはいつも、身の回りの世界に働きかけることをやめない。マカダミアナッツチョコレートを食べていれば、その空っぽになった箱をハサミで切って、新しい種の箱にする。貯水タンクがあれば、そこにマジックで顔を描いてみる。最初は美女の顔を描いて、口紅をつけるように赤マジックで唇をかたどったのに、今度は黒のマジックで眉毛を太くして怖そうなおじさんの顔にしてしまった。そのタンクの蛇口に軍手をはめて、こっちに手を突き出しているみたいに飾り付ける。次にはタンクの隣に、道に落ちていた子どものおもちゃをくっつけた。そのタンクについて、佐藤さんは唐突に語り出し、「このおもちゃの持ち主は津波で亡くなったかもしれない」ということを示唆する。佐藤さんは、「いなくなった者たち」の息吹が聞こえる場所で、小さな創造の世界を生み出している。
 佐藤さんは英語で自費出版で冊子を作っている。津波の被災の事実を書き残し、そこで生き、暮らしていた生活を書き残そうとしている。英語で書いたのは、日本語では苦しくて言葉にならなかったからだ。書き上げた冊子を毎日、自分で朗読している。その声は朗々としていて、読み方も俳優のように格調高い。佐藤さんが文章で表現するのは生者と死者の行き着く場所である「魂の世界」だと感じる。目に見えたものは津波ですべて失われた。だが、佐藤さんは「そこに確かにあったもの」の存在証明をするように英語を綴っていく。そんな風に私には見えた。佐藤さんは英語だけではなく、中国語でも冊子を作っている。佐藤さんの声は「ここにある世界」を超えて、もっと遠くの「どこかにある世界」に呼びかけているように聞こえる。陸前高田の「たね屋」から世界へ、宇宙へと繋がっていくための扉が開かれるみたいだ。
 佐藤さんによれば、住んでいた街の歴史的資料は流されてなくなってしまった。加えて、土地柄もあって、住んでいる人たちは文字で「書くこと」より生活のため手に職をつけることを重視している。不運にもこの土地には記録を残す人が少ない。だからこそ、佐藤さんは記録者になった。誰もやらないのだから、自分がやると決めたのだろう。文献を探し出し、年輪を調べ、海抜を予測してこの土地の歴史を探る。その過程は失われた「死者の声」や「言葉なきものの声」を聞くような作業だ。亡くなった人、土地を去らなければならなかった人、津波に流された植物たち、そうした「いなくなった者たち」が「生きていた」という事実を佐藤さんは「書くこと」で繋ぎ止めようとしていると、私は思った。
 こんな風に哲学的・神学的世界を生きる佐藤さんが出会ったのが、小森はるか監督だ。小森監督は震災後に「芸術に何ができるのか」という問いを抱え、悩みながら映画を撮ってきた。2013年の撮影スタート時は先も見えない貧乏学生だった。その小森監督に佐藤さんは自分のやっていることを話す。彼岸へと呼びかけていた佐藤さんが、此岸に向かってしゃべり始めるのである。小森監督は、下界からメッセージを受け取りに来た使者なのだ。だが、この使者は正直者で、わかったふりもしなければ、お世辞も言わない。佐藤さんは、長く話した後に、何度も「わかる?」「意味わかった?」と尋ねる。小森監督は少しためらったあと「はい」「うーん」と曖昧に返事をする。佐藤さんは「わかんないのかよ」「この話わかるのか、すごいな」とユーモラスに返す。噛み合っているのか、噛み合っていないのかわからない、二人のやり取りの中で、観客席のこちら側も佐藤さんの「言葉の世界」に入り込んでいく。その「言葉の世界」は、「たね屋」の佐藤さんの「生活の世界」と繋がっているけれど、いつもの日常とはちょっとだけ離れた「魂の世界」だ。
 この映画は2016年の「たね屋」の解体で終わる。「たね屋」があった場所は、津波防止の嵩上げ工事で埋め立てられてしまう。自分で屋根を剥がし、「終わっちゃった〜」と佐藤さんは叫んで見せる。最後には自分で作った井戸を取り壊し、パイプを引き抜く。そのパイプが空に伸びていくのをカメラが追うカットを最後に、エンドロールが流れる。あとから、空に伸びる灰色のパイプの映像を思い出すと、あれは宇宙に伸びた通信用のアンテナみたいだったと私は思う。佐藤さんは自分の書いた本に対して「売れなくてもいい。誰も読まなくてもいい。書くことに意味がある」と言いつつ、別の機会には「誰も読まない本には何の意味もない」と矛盾することを言う。それは私もいつも思う。誰に読んで欲しいと言いたいわけでもない。だけど、この言葉を受け取る人がきっといると信じて文字を書く。もしかしたら、受信者は宇宙の別の惑星やあの世にいるかもしれない。それくらいの気持ちを持たないと「魂の世界」には繋がれない。
 もちろん、この映画は被災者を追っており、佐藤さんは津波の経験を持った唯一無二の当事者である。それと同時に、この映画は「もう生きていけない」と思うほど辛いことがあった後に、表現者として生きる道を探す人間の話でもある。これからも佐藤さんの書いたものが、読み継がれて欲しい。(私も映画の上映の後、英語版を購入することができた)

我妻和樹「願いと揺らぎ」

 我妻和樹「願いと揺らぎ」の上映会に参加した。

東北支援チャリティ上映会
『願いと揺らぎ−震災から1年後の波伝谷に生きる人びと−』
https://www.facebook.com/events/1799698950281479/

 この作品は我妻和樹監督の「波伝谷に生きる人びと」の続編である。2011年3月11日の震災で、波伝谷部落は津波の甚大な被害を受ける。波にさらわれて亡くなった人、基礎部分しか残らなかった家、流されてしまったカキの養殖棚。波伝谷の住人は家族や家、仕事を失った被災者となった。前作の「波伝谷に生きる人びと」は、その震災の直後で作品が終わっている。

我妻春樹「波伝谷に生きる人びと」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20151118/1447839610

 本作は、それから1年後の波伝谷の人びとの物語だ。仮設住宅に移り住み、住人たちの孤立を避けようと、自分たちで「お茶会」を開いて「話す場」を作ろうとしている。また、「高台移転」についても、契約講と呼ばれる組織を中心に自治を取り戻そうと苦闘が始まっていた。
 その中で出てきたアイデアが部落行事「お獅子さま」の復活だ。「お獅子さま」とは、各家庭が獅子舞が訪問する春の祭りだ。2011年の「お獅子さま」は震災の数日後に予定されていたが、中止になってしまった。そこで、2012年こそ、「お獅子さま」をやろうという声が若者の中から出てくる。高齢化が進み、年功序列の強い部落の中で、若者たちが自分たちから「やりたい」と言ったことは波伝谷の人びとに勇気を与えた。「お獅子さま」の幕も、踊り手の半纏も津波に流されてしまってない。でも「お獅子さま」でみんなが集まって祭りをやれば、バラバラになってしまった波伝谷が再び一つになれるかもしれない。ある女性はお獅子の道具を「支援ではなく、自分たちのお金で買いたい」と語った。人びとの口から出てくる、「もう被災者じゃない」という言葉。波伝谷は2012年の時点では、瓦礫が残る街並みで「復興」というには程遠い状況だった。それでも、波伝谷の人々は自分たちなりの「自立」の方法を模索していた。まだまだ傷跡の深い被災地で、「お獅子さま」の復活は、津波の後の鎮魂と再生に向けた神話的な「祝祭」となり、人びとの心を再び結びつける契機となる、はずだった。
(以下、ネタバレになるので閉じておく)

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あけましておめでとうございます。

 昨年は博士号を取得いたしました。博士論文は、皆様に広く読んでいただけるよう、準備しているところです。無事に形になりましたら、こちらでもお知らせする予定です。
 4月から大学の非常勤講師として教壇にも立つようになりました。社会問題を考えることを通じて<世界で起きていること>と<自分>とを結びつけて考えていく経験を積んでもらいたい、と思いながら授業をしています。
 授業をしていると、自分の学部生の頃をよく思い出します。2001年に大学に入学し、一人暮らしを始めた下宿の部屋で、9.11の中継映像をテレビで見ていました。卒業論文は「テロ後の演劇」というタイトルで、戦争責任と「赦しの不可能生」について論じました。
 私は決して優秀な学生ではなく、学部生の頃から、自分の論をうまく立てられず四苦八苦してきました。感情的なものと論理的なものを、言語によって結びつけ、文章によって表現できるという確信ができたのは30歳を過ぎてからです。15年経っても、しつこく同じ問題に取り組んで苦労しているので、やはり要領は悪いのですが、「継続は力なり」だとも思います。
 いつも「もっと実力が欲しい」とあがいていますが、今年も諦めずに粘り強く研究を続けていきたいです。今年もよろしくお願いします。