メリットがあるから、女性に参政権が与えられたのか?

 web上で、外国人参政権について議論が起きている。外国人に参政権を与えることに「メリットはなんですか?」と聞いてくる人がいる。そういう人たちへの批判を、id:Prodigal_Son さんがしている。

Prodigal_Son「で、メリットはなんですか?」
http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20091112/1257981327

それに対して、id:meiwakoko さんは「国のメリットになる」場合にだけ、参政権は付与されるという反論を出している。

「つまりメリットは何もないわけですね?」
http://d.hatena.ne.jp/meiwakoko/20091112

ひとまず、両者の議論を横に置いておいて、以下のやりとりを見てみよう。まず、Prodigal_Sonさんの問いかけである。

男子の普通選挙が実施されたのは1925年で、女性解放運動活動家からは「女性に対する選挙権の付与」を求める声が沸き起こりました。

あなたはこの「女性の選挙権付与」を求める人、それを支持する人に対して「で、メリットはなんですか?」と問いかけるのでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/Prodigal_Son/20091112/1257981327

次にmeiwakokoさんの回答である。

男性ばかりの意見による政府より、人口の半分を占める女性の意見も取り入れた政府の方が、

よりよい政治をする可能性が圧倒的に高い。

十分過ぎるほどのメリットだ。
http://d.hatena.ne.jp/meiwakoko/20091112

しかしながら、アテネ以来、女性は参政権を持つ価値がないという時代が2000年以上続いてきた。20世紀に入ってから、急に女性に参政権を与えるメリットが生まれたのだろうか?こういう疑問が出てくる。そこで、女性参政権獲得の歴史を築いた、イギリスの女性史を概観してみよう。どういう経緯で、女性が参政権を獲得したのか、ふり返る。
参考にするのは、レイ・ストレイチー「イギリス女性運動史」である。

イギリス女性運動史 1792-1928

イギリス女性運動史 1792-1928

これは80年以上読み継がれてきたメジャーな本で、1928年に出版された。当時の女性の社会生活や、詳しい運動家のエピソードもふんだんに添えられ、楽しい本だ。書かれた時代背景もあり、現代の視点からは批判的に捉えられる部分もあるのだが、とにかくこの本を手掛かりにみていきたい。


 1789年のフランス革命をきっかけに、女性も運動に参加する契機が生まれた。しかしながら、女性が家の外で活動するのはよくない、という偏見が強く、慈善活動もままならなかった。1838年チャーチスト運動の中では女性の参政権についての意見も出たようだ。しかし、記録には「多くの会員は、法案に女性参政権のことが盛り込まれると男性の選挙権獲得を遅らせるかもしれないと思っていました」と記述されている。これが、女性参政権についての、明文化されている中では、もっとも初期の男性側の意見である。
 しかし、女性の置かれている過酷な状況は、問題化されている。もっとも注目されたのは「労働」と「離婚」の問題である。女性労働者は、子どもの労働者とともに、低賃金で長時間労働を強いられていた。また男性の多くは、家庭で妻に暴力をふるっていたが、離婚が禁じられているため、女性は逃げることができなかった。こうした状況に立ち向かった男性がある。ジョン・スチュワート・ミルである。
 ミルは「女性の解放」を書き、女性の社会進出を求めて、世間に訴えた。*1ミルの考え方は次のようなものである。女性を観察していると、とても政治や労働、表現活動に適した性質を持たないように見えるかもしれない。しかし、彼女たちが育てられた環境、受けた教育、一定の振る舞いを求める文化を鑑みれば、それも致し方のないことである。もし、彼女たちも、男性たちと同じように扱われ、期待され、権利を得れば、能力を開花するかもしれない。そのとき女性は、今以上に社会に貢献するであろう。
 ミルの考え方は、功利主義と呼ばれる。「女性に権利を与えることに、メリットがある」と訴えたのだ。ポイントは、ミルが「現在の女性の評価で、メリットの有無を判定する」のではないことだ。「とにかくやってみれば、わかることだ」と主張する。確認しておくが、ミルの功利主義者の場合、潜在する能力に期待し、機会平等を与える。メリットの有無の予測に基づく選別を行うのではない。
 さらにミルは具体的な政治活動に乗り出す。1865年に国会議員に立候補する誘いを受けたミルは、女性参政権の問題を最優先することを条件に挙げた。女性運動家たちの協力のもと、ミルは当選する。さっそく、ミルは選挙法改正法案の樹立に尽力した。女性たちもミルに提出を求めて、署名を集めて請願書を作成する。1867年には、ミルは女性参政権に対する初めての国会討論を引き起こした。ミルは英国憲法の基本原則に基づく、女性参政権請求の主旨を語ったあと、男性に対してより人間的な側面へと移行して訴えかけた。以下、本から孫引きする。

(略)ミルは次のように語った。
「何かもやもやした感情が存在していることを私は知っている。それをあからさまに表すことが恥となるような感情――たとえば、まるで女性が、ある特定の男性にとってもっとも役に立つ献身的な召使になるにはどうすべきかということ以外、何度とにも関心を持つ権利がない、と感じていること……。人類の半分の人びと[男性]に不便が生じる可能性があるとしても、もう半分の人びと[女性]の全存在を認めないという主張は、その不公平さを別にしても特にばかげていると思われる。人間社会のふつうの営みを経験し、その経験から学ぶだけのふつうの能力をもつ男性なら、いったい誰が、男性に仕える以外無知である者[女性]が自分のつとめを立派に果たせると思うだろうか。……また常に男性より劣っていることを望み、この世の楽しみが強制的に家庭の囲いの中に限られていて、男性がもっとも重要な任務として取り組んでいる知的関心を呼び起こすものに対し、無知と無関心こそを美徳として身につけようとする女性と考えや感情をすべて共にしながら生きていくことが、男性にとって果たして本当によいことなのだろうか。(後略)」
(90ページ)

男性議員たちは、ミルの決意と情熱に押され、この問題に一時間ほど向き合った。しかし、その後もう一度考えることは決してなかった。それでも、この討議は女性参政権獲得運動が政治問題一覧表に加えられた、大きな一歩である。ミルたちは、最終的な勝利は遠くないと確信していた。こうして、理解ある男性のもとに、女性参政権は与えられたのだろうか?とんでもない。ここから50年に及んで、参政権獲得の闘いが始まるのだ。1870年の議会でも、敵側が過半数を確保する。さらに1873年に、ミルが死去する。ストレイチーは次のように書く。

(略)彼は女性たちの信条の中心的な唱導者であり、彼女たちの難問すべてに判断を下してくれる人であった。彼の信念と支援がこの運動を政治という海に乗り出させてくれた。彼の教え導く手を失ったとき、女性参政権委員会はまったく途方に暮れた。彼女たちは擁護者として、相談相手として、そして友人としてのミルを惜しんだ。以降、ミルに代わる人物が現れることはなかった。
(224ページ)

 苦戦しながらも、女性運動家たちは粘り強く活動を続ける。1880年の総選挙では女性参政権に好意的な多数の議員の復帰がみられる。運動内部の抗争も経験し、運動家たちは成熟してい行く。だが、国政ではまたもや敗北する。1883年の選挙法改正法案が提出されるが、男子選挙権の拡大がもたらされ、相対的にさらなる女性の地位低下を招くこととなり、終わった。だが、1890年代には、労働組合の女性活動家も参政権獲得にかかわり始め、活気づく。
 そして、1903年、すさまじい伝説となった「戦闘的女性参政権運動」が開始される。きっかけは、無計画なものだった。議会で、男性議員が時間かせぎの演説をして、討論の可能性をつぶしてしまったときだ。傍聴席の格子越しにそれを聞いた女性運動家たちの怒りが爆発する。一斉に国会を飛び出して、怒りにもえて集会を開こうとした。警官によって、移動させられたものの、それまでの「忍耐と信頼」により粘り強く運動を続けてきた時代に終止符を打ち、戦闘的運動が始まった、その瞬間であった。
 さらに、女性運動家たちを支持してきたはずの自由党大会でも事件が起きる。女性参政権問題に対する質疑が、女性運動家たちにより行われたのだが、返答がない。そこで椅子の上に立ち再び質問を繰り返すと、観衆から怒りくるった叫び声があがり、室内警備員が彼女を引きずり降ろし、声をおさえつけるために帽子で顔を覆った。そのとき、演壇の人々は冷笑していたのである。再び運動家が立ち上がり、質問を繰り返すと、男性たちがあちこちから詰め寄り、彼女を殴ったり引っかいたりした。演説者は、正当な質問であるにも関わらず、最後まで返答しなかった。これも戦闘的運動をさらに推し進める原動力になった。一方、女性運動家たちは、議事妨害で逮捕され有罪の判決を受ける。そのことで、報道機関に取り上げられ、女性参政権運動への注目が一気に集まる。マスメディア戦略を、運動家たちは手に入れたのだ。
 女性参政権運動は「サフレジェット」と称されるようになり、上のような戦闘的行動や、「サフラジスト」と呼ばれた法を遵守する組織の拡大し続ける宣伝活動により、国内のだれもが知るところとなった。男女の問題は、誰もが簡単に口にでき、やすやすと「賛成」「反対」を言いきることでカタルシスを得ることができる。そこで、人々の間でももちきりの話題となる。1907年には、初の大規模デモが行われ、3000人の女性が、雨の中長いスカートを引きずり、「ぬかるみの行進」を行った。まだ大多数の女性が、通りから通りへと行進することはおぞましいと感じる中で、周囲の反応は悪くなかった。
 だが、戦闘的行動をするのは、一部の人びとだった。運動内では、合法内で活動する穏健派から、戦闘派への批判が高まる。穏健派は、組織の機能を効率化し、会員の数が増加するのに合わせて、より完全な組織を実現することに邁進していた。戦闘派は、これとはまったく異なり、「言葉でなく行動」を組織のモットーとした。組織内の手続きを無視し、非民主的に決断を下し、世間をあっといわせるような行動に出た。逮捕されることが、運動的意義になり、わざと暴力事件を起こすこともあった。さらに、警察から尾行されていたため、隠密行動が主となる。穏健派は、こうした戦闘派のスタンドプレーを批判した。戦闘派のほうは、合憲的な活動しかしない穏健派をあざ笑った。
 戦闘派は収監されたことを利用して、通常の刑務所の生活ぶりを暴露し、告発もした。さらに彼女たちは、当局を困らせる方法を考えだし、ハンガーストライキを始める。当局は、看守が無理やり食べさせる強制食餌で対抗した。だが、囚人たちは激しく抵抗したため、危険を及ぼした。囚人たちはハンストを続け、そのまま衰弱し生命の危機に陥るので、仕方なく釈放された。

 世論の注目は集めたものの、運動自体の進展は芳しくなかった。1911年にアイルランド自治問題が取り上げられた。だが、依然と選挙権のない女性は顧みられることはなかった。この運動が始まってから、男性有権者数は70万から700万ふ増えた。しかし、女性有権者はゼロだった。
 政府と国会は、女性参政権法案を審議する時間すら作らなかった。代わりに、戦闘派のサフラジェットを統制する法案を通した。「猫とねずみ法」である。ここから、戦闘派の命がけの行動を、長い部分だが引用する。

(略)実際、サフラジェットという特定の囚人のみに適用するように作られたこの法律は、サフラジェットがハンガーストライキで死ぬ危険性があるとき、法務大臣仮出獄許可証のもとに釈放できるとした。このような女性は健康回復のため出獄することを許され、十分な体力を取り戻すとすぐに新たな逮捕状なしに再逮捕され服役を続け、体調回復のために出獄した日数は服役日数に数えられないことになった。政府はこれに期待して、女性が法律を冒とくし法廷を侮辱することはもはやしなくなるだろうし、彼女たちが刑罰という厳しい現実を味わい、これ以上面倒を起こさないようになるだろうと考えた。法務大臣は、この対象となっている人びとの根性をまったくわかっていなかったのだ。人間の殉教の歴史と物語があるにもかかわらず、法務大臣は、熱狂者は力で押さえつけられ、正義のために戦う人びとが威圧政治に屈すると思いこむ過ちを犯していた。しかし彼はすぐにその過ちを思い知らされた。
 パンクハースト夫人は、四月三日、ホロウェイ刑務所に連行され、まもなくハンガーストライキを始めた。これ以上刑務所に拘束できないほど彼女が衰弱するまで待つ間、彼女の支持者たちは外で抗議を続け、数十人の女性が彼女と同様に投獄された。四月一一日、パンクハースト夫人は生命の危機に瀕し、その日、一五日間の仮出獄許可で釈放された。彼女は療養所に連れていかれた後、郊外の一軒家へ移された。一五日以上が過ぎ、その場所は警官に包囲されたが逮捕はされなかった。五月の終わりに近づくと健康を回復しはじめ、彼女はすぐに集会に参加し支持者たちに演説をすると公表した。その集会の段どりがなされ、まさに執り行う準備が進んでいたとき、パンクハースト夫人は自分が立ち上がることができないことがわかった。それでも集会に出かけようとして、階段から待機していた車までほとんど運ばれるようにして下りた。しかし警察も彼女を待ち受けていた。もし彼女が集会に行くほど体力を回復しているのなら、ホロウェイ刑務所に戻るのにも十分であったので、警察は彼女を引きずり下ろした。彼女に再び服役させようという試みはたった五日間しか続かず、五月三〇日、再び生命の危機に瀕したパンクハースト夫人は再釈放された。
 翌日はダービー競馬の日で、華やかで熱気に満ちた競馬の最中に、戦闘派サフラジェットのひとりであるエミリー・ワイルディング・ディヴィッドソンが突然悲劇的な出来事をおこした。この女性は、人びとの関心を彼女の主張に引き付け、それがいかに深刻で差し迫っているのかを証明するため、誰にもそのもくろみを告げることなく疾走する馬の足元に自らの身を投げ死亡した。彼女の行動は国中を驚かせ関心をかき立てた。戦闘派を心底狂信的とみなし、彼女の犠牲的な死との関連性やその目的をわかっていなかった人びとも、その行動に驚かないわけにはいかなかった。世界中の人びとがその記事を読み、イギリスには、女性は自由であるべきだという信念のために自ら死を招いた女性たちがいるということが世界中に知れ渡った。ミス・ディヴィッドソンの葬儀には、戦闘派の大行進があり、それが静かにロンドンの通りを進むのを見た群衆の思いは複雑だった。人びとは、徐々に好意的にとらえはじめたこの運動のことを知り、常にばかにしてきた戦闘派のことも知った。そしてこの時、無謀で犠牲的な死をとげ大義に殉教した女性を目のあたりにして、人びとは嘆き、動揺した。このような争いに終止符を打つ時が来ていた。
 たった何日間かホロウェイ刑務所から出獄していたパンクハースト夫人は、その葬列に参加しようとしたが、ここでも警察に邪魔をされ、刑務所に連れ戻された。そこで彼女は過酷なハンガーストライキを続け、今度はそれに加え、水を口にすることも眠ることも拒否した。彼女の体への負担は増加したが、生命の危機に達することもより早くなったので、三日のうちに再び釈放されなければならなくなった。
 パンクハースト夫人は病気や苦しみや危険にひるむことはなかった。仮釈放から一カ月も経たないうちに、ロンドン・パヴィリオンでの集会で演説し、彼女の支援者たちの策略によって安全な場所へ逃げた。戦闘派は一週間、変装して警察の目をくらまし、追跡者を煙に巻いて、華麗な刑事物語風に警察をもてあそんだ。彼女たちは、概して、「猫とねずみ法」の運用が実態として無意味になるようにしむけ、その後、パンクハースト夫人はもう一度身の安全を確保した。彼女を服役させようとする四度目の努力がまたなされて、四度目もまた彼女はそれに対抗し、まもなくやはり仮釈放されなければならなくなった。数日後、車椅子で大集会に参加したパンクハースト夫人は、邪魔されることなく演説することが許された。(後略)
(278〜281ページ)

 こうした闘いののちにも、政府は女性に参政権を与えることはなかった。だが、国中の関心は高まり、1914年、サフラジェットはさらなる運動をして、勝利への扉を開くかもしれない冬の選挙を待っていた。だが、思いもかけないことが起きる。第一次世界大戦である。
 戦時下において、女性は積極的に国家に協力した。戦闘員としての戦争参加はなかったが、節約や男性たちの仕事の代理に励んだ。そして、こうした女性の<銃後>の協力は高く評価されるようになる。また、女性たち自身も、結果的に社会に進出し、何かを成し遂げる喜びを泡うきっかけを得た。戦後には、あっという間に女性参政権は受け入れられていく。1916年には、有力議員が「戦争での働きぶりを基準とした名簿作り」を主張し始めた。そこで、サフラジェットは、女性も戦争にかかわる仕事に従事したことを強調した。1917年の新政権では、女性参政権に関する報告会が、成人女性のうち約600万人に選挙権を与える案を出した。そこには「夫または女性が住宅を所有していること」「30歳(もしくは35歳)以上」という条件があった。そこで、サフラジェットは繰り返し哄笑し、1918年には「30歳以上の、すべての地方自治有権者の妻」に参政権が与えられることになった。1918年2月16日、50年に及ぶ戦いが終わり、性差の壁は崩れ落ちたのである。


 以上が、イギリスにおける女性参政権獲得の歴史である。上にも述べたが、この本が出版されたのは1928年である。現代の女性史の視点であれば、戦時における国家協力と引き換えに、女性が参政権を得たことについて、別の批判的視点を挿入していかなければならないだろう。*2
 さて、冒頭のやりとりに戻ろう。メリットがあるから、女性は参政権を与えられたのだろうか?最終的に、戦争に協力する中で、女性が役に立つことが認められ、参政権を与えられたと言えるかもしれない。だが、歴史を追う中では、やはりそのような総括は似つかわしくないように思う。「なぜ、女性に参政権が必要か?」という問いに、50年の歴史は一つの答えを用意しないだろう。次々と起こる出来事の中で、奔走する運動家たちによって、この権利は勝ちとられてきた。女性に参政権をもたらした、原理的理由はないのではなかろうか。大きな政治の流れの中で、結果的に、「女性に参政権が与えられる」という現在の状況がある。さかのぼれば、いくらでも原因は見つけられる。たとえ「メリットがあるから参政権を与えられた」という答えがあったとしても、それは要素のうちの一つにすぎないのではないか。そして、各国の参政権獲得の歴史をみても、やはり同じようにそれぞれ固有の偶然と必然が重なり合ってできた、現在があるのだろう。
 「メリットがあるかないか」を議論するのは楽しいかもしれない。しかし、実際に政治を動かしてきた現実は、メリットの有無の議論とは、少しずれたところにある。

追記

 ブクマコメントがカオスです。一応、追記しておきます。
(1)この記事は在日外国人参政権については言及していません
(2)参政権(一般)という問題を考える上で、「メリットの有無」という判断基準<だけ>を持ち込むことに疑問を呈しています
 というわけで、この記事から言えることは

参政権について考えるには、『メリットの有無』以外の要素も大切です

ということです。
(まあ、最初から「在日外国人参政権を否定したい」と思って読むから、こういうコメントが付けるんでしょうけどねえ……どこ読んだらそうなるの?というかんじです。)
 ちなみに、ここのコメント欄は自由討議場ではなく、抑圧的な専制君主制が敷かれています。煽り度が高いと管理人が独断と偏見で判断した場合は、サクッと削除します。んで、よろしくお願いします。(とくにこの話題、荒れやすいので、そういう措置の発動可能性高いです)


 あと、あまりにも腹にすえかねたので、id:tari-G さんへ書いておきます。(コメント書き変えを繰り返しておられ、それ自体は全然いいんですけど、混乱するのでこちらに転載しておきます)

tari-G 人権獲得が運動の血の上にあることがよくわかる力作。他方で運動神聖視の度が過ぎて議会の意義が完全に無視されているのはひどい倒錯。これでは「参政権」運動家も浮かばれない。

あのねえ、どう見たって議会の意義をぶち壊したのは、男性議員たちのほうでしょう?そうでないなら、きっちり「議会が機能しており、女性参政権が成立しえた」ということを資料出してきて反論するべき。議会を神聖視して倒錯してるのは、tari-Gさんのほうでしょう。

追記2

補足の記事書きました。

「法外な者として扱われてきた女性たち」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20091116/1258374361

*1:実は、このミルは、当時では考えられない関係性を、女性と築いていた。若きミルの友人であった、ハリエット・テイラーという女性には、夫がいた。しかし、彼女は夫と狭義の上に別居している。そして、彼女は普段は娘と田舎で暮らし、別居している二人の息子が訪れることもあった。時には夫ジョン・テイラーとロンドンで過ごし、そこにミルが加わることもあったのである。ジョン・テイラーの死後には、彼女とミルは再婚している。だが、法律に規定される婚姻には激しく反発し、次のような文書を作成している。「法により制定されている婚姻関係のすべての性質を、彼女と私の双方は両親にかけて完全に否認するものである。その一番の理由は、契約の一方の当事者に、もう一方の当事者の身体、財産を支配し、行動の自由を制限する法的な力を、本人の願望や意志に関わりなく授けているからである。私にはこれらの憎むべき権力を法的に取り除く何の手段もないため、現存する婚姻法がそのような権限を与える限りにおいて、それに対する正式な抗議を記録にとどめておくことが義務であると感じる。いかなる状況においても、このような権限を行使しないという厳粛な約束を記録に残しておく」51ページ

*2:もうこれ以上書くのは、さすがに長いのでやめます。