ポン・ジュノ「母なる証明」

*この映画は謎解きの面白さがあります。この記事には、ネタバレに近い記述ありますので、観る予定の方には読むのをオススメしません。


 主人公である「母」を演じたのはキム・ヘジャである。彼女は韓国では「韓国の母」と呼ばれる大スターだ。「母」の息子トジュンは殺人の容疑で逮捕される。二人が住む街は韓国の地方都市で、殺人事件が起きたのも数年ぶりだ。警察もまともに捜査しない。他人とうまくコミュニケーションのとれないトジュンは、容疑を認めて自白したという書類に、サインをしてしまう。しかし、「母」はトジュンの無実を信じ、奔走する。純粋無垢なトジュンと、献身的な愛を注ぐ「母」。だが、この映画は肯定的に母性愛を描かない。ミステリー仕立てで、後半は事件の真相が明らかになる。その中で、みるみる「母」の暴力性や罪があらわになっていく。
 web上のいくつかの映画評でも指摘されているが、ヒチコックに影響を強く受けた作品だ。脚本も撮影計画も綿密に練られており、精神分析的なモチーフも散りばめられている。
 トジュンは、映画を見る限り、知的障害を持っているような振る舞いをする。だが、その精神医学のカテゴリーでの分類はあまり意味がない。重要なのは、トジュンが「真実を語れない者」として設定されていることだ。物語の始めに、トジュンと友人のジンテのエピソードがある。観客はジンテが自動車のミラーを壊すのを見る。次に、警察署でトジュンが、ジンテに強く言われて、「俺が壊した」と言ってしまうのを見る。そして物語が進み、警察署で脅されながらトジュンが「俺が殺した」と言うのを見るのである。彼は真実を知っている、が、それを話せない。誰もトジュンが無実を訴えていることを知らない。そこで母が、自らが代理であるように、トジュンの無実を語り続けるのだ。
 「母」とトジュンは近親相姦関係があるように、ほのめかされている。夜遅くトジュンが帰ってくると、「母」が一人でベッドに横たわっている。トジュンは裸になり、セックスシーンのように「母」を抱き寄せる。また、トジュンはセックスする、という意味で「女と寝る」と言い、「女って誰だ?」と聞かれると「母さん」と答える。周囲は、トジュンがセックスの意味を理解していないと解釈している。しかし、「母」がトジュンを溺愛しているのは事実である。「母」は、立ち小便するトジュンの陰部を覗き込むこともある。そして、トジュンは、「母」が隠してきた、自分が幼い時に、追い詰められた「母」に殺されそうになったことも覚えている。隠された真実を「知らない」のではない「語れない」存在として、トジュンは描かれる。
 物語の最後に、トジュンは「母」にあるものを渡す。「母」の秘密をトジュンは知っていることが、「母」に伝わる。だが、ここでもやはり語られることはない。トジュンはすべてを知っているのだ。ここで優劣関係の逆転が起きる。「母」が無力なトジュンの優位に立つのではなく、真実を知るトジュンが「母」の優位に立つ。
 そして、もっとも精神分析的であるのは、この「母」には固有名がないことである。作品中には「母」は「母さん」「おばさん」」と呼ばれている。監督の意向でわざと名前をつけなかったらしい。トジュンの母としてだけ生きる女性。「母」を象徴する<母なるもの>を、キム・ヘジャは演じる。ラストシーンで、観光旅行のバスの中で、「母」は太ももの裏にあるツボに鍼を打つ。それはしこりになるような、悪い記憶を消すツボである。夕陽が射しこむバスの中で、母たちが音楽に合わせて踊っている。その列に「母」も加わり、ダンスをする影の一部となり、映画は終わる。
 「母」は終始、トジュンについて語り続ける。唯一、彼女自身について語っているのは、追い詰められて発する「母さん、どうしたらいい?」という言葉である。トジュンの父親はもちろん、<父なるもの>もこの作品では一切排除されている。周囲にいるのは、子を望んでいる「母」の友人や、息子と同じ年ごろのトジュンの友人。刑事までもが、子どもの頃、「母」に世話になっており、息子的な存在である。殺人事件の被害者は若い女子高校生であり、両親を亡くし祖母と暮らしている。「母」にとって対抗的な男性はいない。一人だけ、重要な人物が出てくるが、彼は「母」の手で消されてしまう。真実も罪も抱えて、「母」は踊り、語るのをやめる。
 だが、固有な名前を持たない設定ではあるが、「母」の固有性はしっかりと描かれる。冒頭のオープニングシーンでは、疲れ果てた「母」が枯れ草の中を歩いて近寄ってくる。そしてゆっくりと踊るように手を動かす。サンバのようなリズムが聞こえ、「母」は顔を覆い、手を懐に入れる。この「母」の動きは生々しい表情を持ち、どこか訴えかけるようでもあり、エロティックでもある。これは、物語の中盤で、「母」が自らの欲望に駆られて、ある罪を犯す場面につなげられている。
 これは、「母」の息子への愛と狂気を描いた作品だとも言える。だが、極限にまで感情的になり理性を放棄する人間を描きながらも、監督の側は構成・演出は知的な計算に基づき精巧に組み立てている。知的で迫力に満ちた作品だった。
 余談だが、トジュンを演じたウォンビョンは、いわゆる「韓流スター」の一人に挙げられる俳優らしい。たいていの韓国のアイドルはそうだが、芸術大学・大学院で演技の勉強をしている。もちろん、アカデミックな訓練だけが良い芸術を作るわけではない。それでも、こうした緻密なドラマでこの役を演じるのは、基礎訓練なしには難しいだろう。こうした俳優の輩出は、韓国の演劇教育の賜物でもあるのだろうと思った。