女の体で笑うということ

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 「女性が一流の芸人になれるのか?」という問いがある。関西に住んでいると、吉本興業という会社はとても身近だ。朝から晩まで、テレビでは吉本の芸人が出ている。子どものころから、友達のお兄ちゃんやクラブの先輩が「吉本のお笑い専門学校に行った」「ライブで漫才をしているらしい」という話を、耳にする。大人になれば、芸人との合コンがあると聞く。「将来は、吉本いけるんとちゃうか?」と言うのは、クラスの人気者への褒め言葉だった。
 そんな中で、「女は最後の最後まで、裸になれないから、一流の芸人にはなれない」という言葉も聞く。それは、物理的におまんこをさらせないことだけを指していたのではないだろう。いずれ、恋をし、子どもを産んでいく女性は、どこかで「恥じらい」や「常識」を身につけていかなくてはならない。結局、生涯を破天荒に歩める豪胆な男には勝てない。そんな響きも持っていた。
 ネット上で、懐かしいような文章を書いている人がいた。ヲタケンさんといい、ニコニコ動画で活動している人らしい。全裸になって、笑いをとり、人気を集めている。彼は、ニコニコ動画の生放送で、女性が性的なポーズをとって注目を集めていることに対し、次のように書く。

 そういった点において女性の身体という武器をつかって視聴者を勝ち取るやり方は卑怯ではあり、糾弾くらいはできようが締め出すことはできないと思う。なぜならニコニコ動画はもはやDMMチャンネルとの連携が示すように性的要素を併せ持つ動画サイトになったからだ。オレがどんなに裸で笑いを引き出そうとしても、見た目のいいオンナが裸になればいくらでも精液が引き出せる。運営サイドにとって笑いと精液とどちらがカネになるかといえば厳密にいえば精液だと思うが、ガキのザーメンと一緒に金は流れてこない。だからニコニコ動画はエロコンテンツをいくらつけようとも儲からない。オレはそう思う。あと匿名で意思表示ができるコメントがある限り2ちゃんねるの呪縛からは逃れられない。これを乗り越えて一般層の支持を得るにはどうすればいいのか。オレは自分の事業でこれを打破することを考える。
 別にフェミニズムを敵に回すわけでもないし、オレは女は大好きだが、いつだって争いを起こす原因は女からだ。女が何の気なしにとった行動ひとつで世界が揺れたことも歴史が変わったこともある。オスにとってメスは宝物だ。大事な宝物をめぐってオスは争う。それだけなら理屈はこんなにも簡単なのに、厄介なことにそのメスというのは自我をもってやがる。自らの意思をもち、そして行動する。それが周りのオスを狂わせる。無人島に仲良いオスが2人漂着したとしよう。持ち物は2人合わせてココナッツ1つ。分け合っておいしくたべようと思いきやそのココナッツがオトコAに「あたしAにしか食べられたくないの」とかのたまいやがる。Bは面白くないけど仕方が無いから魚を取りに行く。また別のとき、共同で家を作ろうとする。するとココナッツがまたクチを開く。「ねぇ、アタシの殻をむいて!もっと殻むいて! Bと家を作るよりアタシの手入れをして!」こうしてAとBの仲に亀裂が入る。大事なもの2つに挟まれて擦り減る神経、そんな状態おかまいなしにと迫る現実。言動の端をつまみとって本来10ある事実のうち3しか見ずに他人の領域に踏み込むずうずうしさ。黙して嵐が過ぎるのを待つべし。どうせそのうち晴れる。件の嵐ももう去りかけだ。人の噂も見事75日。

 ニコニコ生放送も女が性という武器を振りかざして乱入してからずいぶんと様変わりした。出会い系になったとかのスレもたった。ガキがちちくりあって子作りしてガイアとアゲハになるのは勝手にやってればいい。文化の衰退、人間関係の崩壊に女の存在は欠かせない。
http://wotaken.blog62.fc2.com/blog-entry-438.html
(引用部の太字・テキストの大きさの変更は削除した)

ここに出てくるミソジニーは、あえて指摘するまでもないだろう。最近ではあまりはやらないようだが、昔は村上龍がこんなようなエッセイで人気を博したこともある。しかし、私の目を引いたのは次の点である。

オレがどんなに裸で笑いを引き出そうとしても、見た目のいいオンナが裸になればいくらでも精液が引き出せる。

ここにある「精液を引き出す」という表現は、何を指すのだろうか。フェミニズム的にいえば、女性の身体を見て欲情し、自慰により精液を噴出させるのは、男性自身の主体的行為である。しかし、彼はそれを「精液を引き出す」という女性の能動態で書く。このとき射精は、女性の積極的な働きにより、(なかば無理やりに)導き出されているのだ。男性は、女性に欲情するのではなく、欲情させられる。この被害者としての位置取りが、文章全体のトーンを作っている。
 ココナッツに例えられた女性*1は、AとBの男性に働きかけ、誘惑する。そして、AとBは女性の罠にかかり、仲たがいをするのだ。ここで、AとBは女性の誘惑をなぜ拒否しなかったのか。それともできなかったのか。そもそも、AとBはなぜココナッツを宝物だと思った/思いこんだのか。ここには、いくつもの疑問がある。だが、最終的にこうしたココナッツこそが世界を滅ぼすとして文章は締めくくられる。ここにあらわれる、女性の性とは破壊する悪者として現れる。
 もちろん、一笑に付しておしまいにできるような文章である。しかし、どこか見慣れた論調だ。私がずっと、耳にして、内面化して、まるで真実であるかのように胸にしまいこんできた、そんな調子の文章だ。私がいることで、男性は欲情し、秩序が乱れ、あるべきものが壊れていく。女であることは、男を狂わせ堕落させ、欲望させることで支配することだ。私の「おんな性」にかけられた呪いである。私はいつも、不用意に男性の性的欲望を刺激しないように用心している。それは、直接的な性暴力を恐れているのではない。「欲望させたこと」自体の責任をとらされることを、恐れている。そして、自ら気付かないうちに誘惑しているという、無意識の罪を恐れている。

2

 北アイルランドベルファストという街がある。かつてのアイルランド紛争では、IRAとの大きな衝突が絶えなかった。和平が締結されてから15年近くがたち、もう当時の暴力の影はひそめている。ベルファストは、イギリス領でありながらも、北アイルランドの豊かな自然に隣接し、独自の文化を築いてきた。アイルランド島は、数多くの芸術家も生み出している。オスカー・ワイルドやサミュエル・ベケットを始めとした文学者も輩出してきた。ベルファストも、小さな町ではあるが、立派なオペラ座がある。
 6月末に、私はベルファストオペラ座で「VAGINA MONOLOGUE」を観劇した。これは、米国の劇作家イヴ・エンスラーのテキストの上演である。エンスラーは200人以上に、おまんこについてのインタビューを実施し、その言葉を編纂して脚本を書き上げた。(日本語訳も出版されている)

ヴァギナ・モノローグ

ヴァギナ・モノローグ

私は日本でこのテキストを何度も読んでいた。*2そのときには、このテキストは「啓蒙的で、女性へのエンパワーメントを目的としたもの」だと思っていた。ところが、実際の公演は、ずいぶん様相が違った。
 公演では、三人の女性が椅子に座り、掛け合いのように会話し、時には会場の声も拾いながら、朗読する形で進んだ。私はあまり英語の聞き取り能力が高くないので、セリフはうろ覚えのテキストを思い返しながら聞いていた。とにかく、公演中、観客はよく笑っていた。おまんこのスラングだけで、椅子から転げ落ちるんじゃないかと思うくらい笑う。私も、だいぶ酔いがまわっていたので、何が面白いかわからないが、大笑いした。「私のおまんこは、さぐってもさぐっても襞に覆われているグランドキャニオン!」「さあ、みんなで言ってみて、カント!」「クリトリスはなんのために存在する?そう快楽のためだけに!」あげくに、犬の遠吠えのようなオーガズムのうめき声を実演して、大盛り上がりだった。
 観客の9割以上は女性で、平日の夜8時からの公演にもかかわらず、ほぼ満席。休憩時間には、みんなワインを傾けながら論争していた。どういう層の観客が来ていたのか、私にはわからない。ただ、こうして女性たちがおまんこついて笑って、話をしているのが、夢のように思えて泣きそうになった。西洋のフェミニズムにあこがれるのは愚かだと思う。でも、私は「日本に帰りたくない」と心底思った。人種の差別があり、階級の差別があり、強固な主流フェミニズムがマイノリティを排除している社会。スラヴォイ・ジジェクは、「いまやヨーロッパでは、フェミニズムがモラル・マジョリティ*3だ」と言ったが、ほんとにそうなのかもしれない。私は、そこで自分が女性であることと、マイノリティ性を結びつけなくてよかった。私は「まんこがあってよかった!」とあんなに無邪気に思ったのは初めてだったし、それをその場にいる不特定多数の人たちと共有できたと思ったのも初めてだった。「マンコ イズ ビューティフル!」という素朴な気持ちを持つことが、こんなに自分を楽にするなんて知らなかった。私はもう、マイノリティとして生きたくない。抑圧されたくない。自由でいたい。私は誰を誘惑することもなく、私のためだけのおまんこを持ちたい。
 私は、もう何度もユートピアの夢をみては裏切られてきたので、きっとこのベルファストの思い出も、いつか痛みとともに封印する日がくるんじゃないかと思っている。それでも、こうして「どこかに私が女であることから解放されて生きることのできる場所がある」と夢想できること、それは素直に喜びたいと思っている。
 毎日、私が悶々と性についての考えていることは、猥雑で込み入っていて、一筋縄ではいかなくて、立ちいかないものだ。そういう積み重ねなしに、フェミニズムはありえない。どんなに自己反省を重ねても、気がつけば自分を最底辺に置くことで、民族やセクシュアリティにおける優位性に目をつぶろうとしているし、わけもわからない怒りで男性を攻撃したくもなる。答えが出なかったり、社会を変えるには遠く及ばなかったり、無力を感じさせられる中で、「どうして私だけがこんなことを考えないといけないんだ?」と鬱屈する。それでも、このどうしようもなさを突き抜けていきたいと思うから、性について語ることをやめないのだと思う。そして、そんなことが可能なのか、といつも疑念は湧くけれど、夢を見た経験が私を支えるんだと思う。

*1:これはおまんこの比喩であろう。剥かれる皮とは、クリトリスの皮だ

*2:http://d.hatena.ne.jp/font-da/20070622/1182612058

*3:米国の保守団体の名前。同性愛者差別の政治行動が有名。ジジェクは、この言を、「フェミニストに対してPCに縛られて反論できない状況」に対するポリティカルジョークとして言っている。