ヤンデレ――少女の「病み」に託されたもの

 id:amamakoさんが次のエントリを上げている。

相互理解不可能性としての「狂気」を噛み締めて、それでもコミュニケーションをしていく

ひぐらしのなく頃に」という有名なゲームが題材になっている。私はプレイしたことはないが、*1よく話題に上るので、概観は知っている。amamakoさんは、ゲームのキャラクターの特徴を説明した後、次のような問いを立てる。

このようなキャラクター設定が好かれる背景には、当然「ヤンデレ萌え」というオタク界の一つの流行がある。好きすぎて精神を病み、「狂気」の領域に踏み込んでいった女の子に萌えるというこの欲望。改めて考えてみると、本当に最悪最低な欲望だ。

だが、それにしても人は何故ヤンデレに萌えるのか。まぁ、ヤンデレ萌えを語る人間も、その大部分はただ流行りに乗っているだけのにわかバンピーであることは明らかなのであるが*4、しかし一部に本気で「ヤンデレ」という属性に囚われている人間も居る。彼らは、一体何故ヤンデレに惹かれるのか。
http://d.hatena.ne.jp/amamako/20090505/1241495829

amamakoさんの分析はおもしろいのだが、それは置いておく。
 私はヤンデレというのは、「”弱さを女子に託す”という男子の欲望」だと感じている。人は誰しも、醜くて汚い自分を抱えている。そうした闇にたいして、思春期は敏感になるし、狂気にも近づくし、繊細な感受性を持つことができる。どちらかというと、女子はそうした繊細さに対して、肯定的な評価を与えられる文化的基盤がある。「女らしさ」へと直結されていくのだ。一方、男子は、弱さを克服し、闇のない天真爛漫な明るさを求めれる。これはもちろん「男らしさ」へと直結される。
 一昔前の漫画は、両者の対比が明確であった。だからこそ、一部のインテリ男性は、24年組と呼ばれる少女マンガ家たちのポエティックな作品を崇拝した。少年向けマンガは、スポーツや格闘によって強さを求め繊細さを切り捨てる。少女向けマンガは、弱さをあからさまに見せつける少女たちの病的なふるまいに焦点を当てた。
 id:mattuneさんは、こうした少女マンガの例として「おにいさまへ……」の信夫マリ子を挙げる。mttuneさんは、マリ子の狂気は、父親に対する「伝わらなさ」から発症したとし、女性たちはそれに共感したのだという。

ヤンデレの本陣は歴史的に見ても、むしろ少女漫画にあるわけで、
元々は女性の「共感」から生まれたものと考える方が自然でしょう。
では女性は何に共感していたのか?
それは「自分の気持ちが伝わらない」事への共感。
男性だったら、そこで自閉症的解決*2(=deathnoさん言うところの「寛容」、あるいは脳内恋愛)を取れるが、
大半の女性はそれを爆発されるか伝える対象を変える(他の男に乗り換える)かするわけである。
(http://d.hatena.ne.jp/mattune/20090506/1241547893)

おにいさまへ… 1 (フェアベルコミックス)

おにいさまへ… 1 (フェアベルコミックス)

私は「おにいさまへ…」は大好きだが、この論には賛同できない。もし、女性たちの少女マンガのキャラクターへの共感が、ヤンデレへの萌えと同じものだとすれば、彼らは「天人唐草」の響子にも萌えなければならない。
天人唐草―自選作品集 (文春文庫―ビジュアル版)

天人唐草―自選作品集 (文春文庫―ビジュアル版)

この恐ろしい物語は、多くの女性を釘づけにしたし、ぞっとするリアリティを感じさせた。そして、共感する女性もいたのだ。はたして、ヤンデレに萌える人たちは、響子に萌えるだろうか?
 「おにいさまへ…」のマリ子と、「天人唐草」の響子の違いは何か。
マリ子は物語の後半で、家族の葛藤と向き合い、父親の愛を手放し、母親と生きていく決意をする。そして、周囲に支えられながら、自己破壊的なコミュニケーションをやめ、クラスメイトとの関係性の中に溶け込んでいくことが示唆される。一方、響子は、父親が死ぬまで服従し続け、その後、狂気の世界に入っていく。前者には、少女の人間的成長が描かれ、後者は成長できなかった少女の狂気が描かれる。
 よしながふみと、三浦しをんは、インテリ男性の語る24年組に対し、いらだちを語っている。三浦さんは大島弓子を取り上げ「男の人に誤解されて好かれている、とプンスカしてました」(64ページ)と述べる。

よしなが   でてくるのが少女だから、少女は少女に共感するだろうっていうのがまず間違っているんですよ。大島さんのマンガって少女にどっぷりはまっているんじゃなくて、むしろもっとはるか高みから描いていて……。
三浦   非常に残酷な部分がありますよね。
よしなが つきはなして描いてますよね。
三浦   永遠の少女性みたいなものに非常に冷たいですよね。
よしなが 冷たいです。「ないよ」って描いているんですよね。読んでいる人たちに「あなたたちがもし楽園みたいなものを求めているとしたらそれはどこにもないよ」って。『バナナブレッドのプティング』で衣良ちゃんが結局あのままでは生きていけなくて最後に大人になる決心をして終るように、必ず大島さんのマンガって少女が大人になる瞬間を描いていて、いつまでも永遠の少女であることなんて全然描いてないんですよね。
三浦   桃源郷のように思えていた所は、必ず何か変化を迎えて終わってしまったりする訳ですから。
よしなが むしろとても大人っぽいマンガを描いていたから当時の少女たちに好かれた訳ですよね。現実を提示していてくれたから、みんな呼んだんだと思うんです。
三浦   あのかわいい絵柄に騙されてはいかん。
よしなが 私は山岸さんの『天人唐草』と大島さんの『バナナブレッドのプティング』はコインの両面だと思ってます。同じことを怖く描くか怖くなく描くかというただそれだけの違いですよね。
三浦   山岸先生は何を描いても怖いですけれどね(笑)。
(65〜66ページ)

よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり

よしながふみ対談集 あのひととここだけのおしゃべり

池田理代子24年組ではないが、両者がコインの両面だということは同じく言えるだろう。少女マンガの読者(と想定される少女たち)は、この少女期の繊細さを、捨てるか持ち続けて狂うかの2択を迫られることに共感していたのだ。そして、ふるまいは、期間を限定されているからこそ、より増幅され極端になっていく。その葛藤を、「病み」だと呼ぶのならば、それに共感し萌える男子は、思春期の自分を少女マンガのキャラクターに投影しているのだろう。
 しかし、ヤンデレに萌える人たちは、思春期の少女とは違い、その「病み」の期間を限定されていない。「永遠の少女性」が萌えならば確保されるのだ。弱い自分を少女のイコンに託し、そっと自分で自分を愛でることができる。この構造は、どこか中島梓やおい論に似ている。中島は、コミュニケーションすることで傷つくことを恐れる少女たちは、自分たちの妄想の中に閉じこもる、と分析した。
タナトスの子供たち―過剰適応の生態学 (ちくま文庫)

タナトスの子供たち―過剰適応の生態学 (ちくま文庫)

「もう傷つきたくない」という切実さ。「だって私のことを誰もわかってくれないじゃないか」という叫び。家庭内や社会の中で傷つけられた自尊心。それらを癒す装置を、女性たちは男性同士のセックスに託したが、男性たちは少女の「病み」に託すのかもしれない。
 まったく別の回路でヤンデレとコミュニケーションの問題を接続し、id:amamakoさんは、「それでもコミュニケーションすることへ賭けるのだ」と論を結ぶ。同じ結論を、私も述べられるのだろうが、そうはできない。私にとって、もうコミュニケーションすることは、そんなに傷つきを恐れるものではなくなっているからだ。大人になってしまったのだと思う。いまだに「理解されない」ことは、恐ろしい。しかし、その恐怖におびえずに、他人とかかわることが日常化してしまっている。私は、「病み」を捨てて、他者の関係性を求めることを選んだ、元少女だからだ。永遠に「病み」に萌えることができる人たちが、これからどうしていくのか。私はコミュニケーションを勧めたいけれど、それはあくまで、外からの呼びかけにしかならないだろうなあ、と思った。

*1:正確には、プレイし始めて20分でやめてしまった。最初の漫才みたいな掛け合いがちょっと合わなかった。

*2:これはコメント欄でも指摘されているが、間違った語の使い方だろう。