見田宗介「まなざしの地獄」

まなざしの地獄

まなざしの地獄

河出書房新社から出た本が、平積みにされているのを久しぶりに見た気がする。「解説 大澤真幸*1の効果だろうか。
 かねてから、大澤さんが少年犯罪を分析する際に参照しているので、見田さんのこの文章の概要は知っていた。しかし、改めて読み、初出が1973年でありながら、多くの発見があることに驚いた。
 「まなざしの地獄」では、1968年から1969年にかけて無差別殺人を犯した19歳の青年N・Nが主な分析対象とされている。N・Nは高度成長期に、地方から東京へと上京した典型的な若者であったはずだ。N・Nらの若者は、「素朴でよく働く田舎の青年」として社会的期待かけられ、集団就職の口が用意される。彼らもまた、都会へ出て田舎から飛び立ちたいという解放への希望を持ち、東京へ上京してくる。ところが、彼らは、単純作業の労働者としてしか求められておらず、階級上昇が難しいことを、都会にきて思い知らされる。さらには、都会の人々のまなざしにさらされる生活の中で、自己を肩書や小道具によって飾り立てていくことを覚えていく。自らの基盤である故郷を捨て、都会にきた若者たちは、不確かな自己を不確かなまま、他者にさらす技術だけを得ていくのだ。
 これらの若者像を、いかに見田さんが描き出していくのか、というのがこの本の読みどころである。そして、見田さんは、N・Nが自己を突き放して捉えることができず、怒りに翻弄され、犯行に及ぶさまを明らかにしようとする。後に、N・Nは獄中で、むさぼるように書物を読み、自らの孤立と孤独が貧困層という階級に起因することを知る。しかし、それはすでに人を殺し、死刑判決が下った後のことである。見田さんは、次のように書く。

「知は力なり」というベーコンの言葉をN・Nは書き写すとき。それは通常の学生などが教科書を引き写すのとは異なる。しかもなお、「知ったとき 確実な運命が眼前にあり……ということの無残。
「わが行動の終わりし後に/数多く事おこれば悲しく痛くなり……」
「見るまえに跳べ」というアジテーションは、跳ぶまえに見ることもできる人間の言い方だ。
「見るまえに跳ぶ」ことだけを強いられていることの無念。
 しかも見るまえに跳んでしまったN・Nの投企の挫折を、われわれのついにだれも哂うことはできない。およそ<怒りの陥弄>の裏に他ならず、当の起こらない人びとの無関心さこそがたくさんのN・Nたちを、絶望的な孤独のうちにそこに追いこんでしまうものだから。
「これからあなた達は傷のある人間の苦患を味わうことでしょう。そして、あなた達が私に一切タッチしなかったように、世間は、必然の救助をして欲しいとあなた達が思う時、誰も助けてはくれないでしょう。」
 これは直接には、N・Nの肉親たちへの呪詛だ。しかしどうしてこの呪詛を、われわれすべてへの呪詛として聞かずにおれようか。
「世間」はそお無関心によって、家族の無関心を罰する。<見捨てる者>の因果の地獄。だがわれわれの「世間」にとっての「世間」とは何か?それはもちろん、世間の外なる世間、亜・世間である。それはわれわれ自身でもあるが、とりわけ差別され、「亜人」として、物として存在することを強いられたものすべての怨恨である。
 N・Nが面会にきた母親を追い返した次の言葉は、彼の近しい人々をさしつらぬいて、また否応なくわれわれに向けられている。――<子どもを捨てだ親のくせに!>
(69〜70ページ)

*強調点は省いた
*「弄」の字は簡易字体に置き換えてある

見田さんは、社会で暮らす「われわれ」が見捨てててきた子どもたち(若者)こそが、N・Nであるという。
 それから20年以上がたち、1997年にN・Nは死刑を執行された。そして、この年には神戸で少年Aが無差別殺人を犯した。N・NからAへの少年の変化の分析は、これまでも繰り返しなされてきた。その論の代表的な書き手である大澤さんは、解説でももう一度時局を追っている。そして、今年に起きたKによる秋葉原の無差別殺人の犯行について、分析を加えている。
 大澤さんは、以下の本でもKについて論じている。

アキハバラ発―〈00年代〉への問い

アキハバラ発―〈00年代〉への問い

この本の論よりも、こちらの解説で述べられている考察のほうが、よくまとまっているように思う。
 N・Nは貧困層に属し、幼少期の家庭生活から生理的に飢えてきた。しかしKは「存在の飢え」があったとはいえ、家庭では生理的に飢えることなく、むしろ家庭を飛び出してから、生理的に飢えるかもしれないという不安にさらされている。この違いは、N・NとKの怒りや恨みの質の違いをうんでいる。
 N・Nの怒りは、直接的な反応になり、情況に対して距離を置き反省する契機を欠いている。対照的に、Kの場合には、過剰なまでに自己を反省的に語ろうとしている。自分の置かれた立場や、ライフヒストリー、学力や容姿などの自分の欠点等々についてシニカルに分析することを通して、Kは情況から大きく遠ざかっている。ところが、突如として情況に対する距離がゼロになり犯罪が行われる。大澤さんはこの極大値からゼロへの反転が、Kの犯罪に至るまでの心理状態の特徴だとしている。
 この後に、N・Nら高度成長期の若者が求めた家郷と、現在の若者が求める家郷の分析がなされている。社会のまなざいの地獄から逃れ、ひとときの個としての存在の基盤となる家郷を、われわれはどう描くのだろうか。

*1:全然関係ないけど、大澤さんの解説の前半の「見田先生萌え」はもう一つの読みどころです。そして122ページのこの本の13ページを大澤さんの解説が占めていることが、大澤さんの気合いの入りっぷりを物語っています。