シスジェンダー特権チェックリスト
id:Ry0TAさんが、シスジェンダー(非トランスジェンダー)が持つ特権をチェックするためのリストを翻訳している。*1
シスジェンダー(非トランスジェンダー)特権チェックリスト(に し へ ゆ く 〜Orientation to Occident)
チェックすると、私はほとんどの特権を手にしていることがわかる。つまり、男女が区別された社会であっても、その特権に自覚せずに、生きていける。
非トランスジェンダー特権チェックリストThe Cisgender Privilege Checklist
「広範囲にわたるシスジェンダー(非トランスジェンダー)の特権リストとしては、ささやかかもしれない。このリストは、特権を有することについて、だいたい1 人称で書かれている。No.1は、異性愛者とシスジェンダーの特権の両方について語っている。残りのリストは、シスジェンダーの特権に焦点を当てている。」
このリストを読み、転送して、トランスジェンダーの人びとがしばしばぶつかる、シスジェンダーの人びとが日常を基準にして当然だと思っている困難を、人びとに気づかせてください。
1.自分のアイデンティティを公言したり、相応しくないと見なされるジェンダー的行動や特徴を持っているせいで、家族や友人から追い出されたり、仕事をクビにされたり、自分の家から立ち退きさせられたり、病院で不十分な手当しかうけられなかったり、暴力や性的虐待に苦しめられたり、メディアに愚弄されたり、宗教団体から説教で批判されたりすることは、ないと思う。
2.自分が自分とは違う名前で呼ばれたり、妥当じゃない呼称を使われたりすることはないと確信できる。
3.トイレがちゃんと使えて、使用中でもないのに、「我慢する」という憤りに苦しんだことはない。実のところ、公共施設が性別で区別されていることを、気にしなくてもいい。
4.もし入院したり収容されたりしても、性別で区別された施設で間違った場所に入れられないか、心配しなくてもいい。
5.性別で区別されたサービスを受けようとしたり催しに参加しようとしても、拒絶されることはない。
6.無邪気な子ども時代が、目覚めたら違う性別になっていますようにという絶望的な祈りで乱されるということはなかった。
7.異なる性に生まれたために子ども時代や思春期を失ったことを悲しんだことはない。
8.思春期は一度しか経験しないだろう。
9.恋人になるかもしれない人の態度が、私の性器のために、ほれ込んだ態度からいきなり軽蔑、暴力にさえ変わるかもしれないと心配したことはない。
10.自分の性器について人に訊かれることはないと思う。ましてや勝手に触られたり、見せろと言われたりするなんて、ありえない。
11.ばれることが怖くてきちんと医者に罹らず、自分の健康を危険にさらすことはないだろう。
12.体の一部を締めつけたり挟み込んだりして隠そうと考えたことはない。
13.声を変えようと考えることはないと思う。
14.専門医に病気の診断を受けたとき、医療保険の適用から除外されることはありえない。
15.男として、ほぼ年齢相応に見えるし、体も他の男と同じようなサイズ、型をしている。
16.男として、性器の機能にほぼ満足している。
17.男として、ほぼ間違いなく子供の父親になることが可能だ。
18.女として、ほぼ他の女性と同じようなサイズ、型の体を持っていそうだ。
19.女だから、中年まえに髪がなくなることはないだろう。
20.女だから、ほぼ間違いなく妊娠して子どもを持つことが可能だ。
21.女として、今後の人生ずっとダイレーション(膣拡張作業)*4し続ける必要はない。
22.オーガズムを得ることはほぼ可能だ。
23.退職には5万ドルを費やすか貯めるかしなければならないだろう。
24.1000ドル費やして何ヶ月もセラピストにかかり、すでに分かっていることばかり聴かされている、という自分を想像できない。
25.肉体的に健康だったら、子宮摘出、乳房切除、永久脱毛、抗ホルモン療法、変声手術、顔や性器の適合手術を受けようとは考えない。
26.自殺せずに老年まで生きる道はある。
27.葬儀のとき、家族は私が生前望んでいたのと違う異性装をした写真を飾ったりはしないだろう。
28.見たままのジェンダーで受け入れられるかどうか心配しない。受け入れられなかったらどうなるか、その結果自分の非トランスジェンダーの特権を失うということには気づかない。実のところ、私には自分のシスジェンダー的特権に完全に無自覚でいる特権がある。
私がこの特権に属していることを確認したうえで、考えていることを書いておく。
私自身、自分が「女である」と扱われたときに、不愉快な思いをすることはある。しかし、それは女性差別に起因した、不正に対する不愉快さである。もし、適正に扱われれば、「女である」ことに対して、不愉快さはないだろう。
だが、問題は、この「適正に扱われれば」という仮定が実現したような状況を、私自身が実感を持って想像できない部分もある。もし、、差別なしに、男性であろうと女性であろうと、適正に扱われたとき、それでも私たちは、この二つの性別への執着を持つだろうか。それすら、想像できない。
私は、自分の「女である」という性への執着を持っている。しかし、その執着が、不変なものだとも思わない。「性のどちらかを選べ」と強いられる社会でなくなったとき、私はこのままの私でいるのだろうか。
私は、性別の二項対立を強いる社会を変えるべきだと考える。それは、トランスジェンダーの人たちのために、ではない。私は、「女である」という強迫観念から解放され、相手を「男/女」であることによって価値判断をする自分を、変えていきたい。*2それは、私が自分自身の持つ観念に対して挑戦していくと同時に、社会の規範を変えていくことによって、実現されていくと考えている。
そして、同時に、もちろん、私は、私の身近にいるトランスの友人たちと、共に生きていくために、それを実現したい。「共に」という言葉が、これまでどれだけ、マジョリティがマイノリティを抑圧する言い訳に使われてきたとしても、それでも「共に」という言葉を使いたい。あまりうまくいった試しがないから、自分に対して「ずうずうしいな」とは思うけれど。
追記
ブクマ欄より。
またべき論か〜。うーん自分もそう言いたい気持ちもわかるんだけど、わかるからこそ「べき」論に落とさないようにする労力こそが必要な気がしているんだけど。過去の運動の失敗を見て学んだ自分の見解だけどね。
「べき論をすべきじゃない」という「べき」論に落とさないのも、大事だと思う。上の記事では「トランス差別をやめるべき」くらいのことしか書いてない。「差別をやめるべき」という言葉に、「べき論はよくない」というのはナンセンス。各論に踏み入れれば相違は出るだろうが、「差別をやめるべき」という前提は共有できるだろう。できないとすれば、その根拠の妥当性を検討すればいいように思う。(たとえば、「男女は二つの性別にわけるべき」とか?)