奥歯の痛みとしての民族主義

 彼は、自己紹介で「朝鮮人です」と名乗った。参加者の半数が在日コリアンであり、後の半数が日本人であるような、学生の研究会の場だった。彼はかつて学生時代に民族団体の活動家であった。「朝鮮人です」という言葉が、事実を述べるものではなく、パフォーマンスであることはすぐにわかった。彼が「朝鮮人です」と言った瞬間、私の脳裏には「日本人です」という一言がよぎる。このとき、私は自分の日本人性を強く意識する。
 私は日本人であることを、普段の生活ではさして意識しない。なぜならば、日本で暮らす限り、日本人であることは自明であるとされているからだ。多くの日本人にとって、自分の民族アイデンティティは、当り前すぎて不可視化されている。「民族にこだわってないんですよ」とすら言えるかもしれない。それがマジョリティの特権である。自らのルーツに立ち返り、何度も自問し、「朝鮮人です」と名乗ることを選びとった彼と、無知でいつづけることのできた私の間には深い断絶がある。
 一方で、私は自己紹介で「フェミニストです」と名乗った。私は、自分の主張を通すために、論理を必要とした。「感情的である」ことと「女であること」は、簡単に結び付けられる。だから、私は自分を押し殺し強くなることでしか、女という属性ではなく、ひとりの人間として認知されるすべはないと思っていた。幾人もの男たちが「あなたは男になりたいの?」「男と同じ権利が欲しいなら、女であることに甘えず、男と同じ義務を果たせよ」と言葉を投げかけてきた。私は歯をくいしばって、家に帰って布団をかぶって泣いた。私の心の支えは、ハイナ・ミュラーの次の一節だった。

メディアマテリアル ギリシア・アルシーヴ (ハイナー・ミュラー・テクスト集)

メディアマテリアル ギリシア・アルシーヴ (ハイナー・ミュラー・テクスト集)

私は人類をまっぷたつに断ち切ってしまい
そのからっぽのまん中に住みたい 私は、
女でもなく男でもない お前たち 何を叫んでいるの
(19〜20頁)

私は男にはならなかった。代わりに「女であること」に留まり、「フェミニストです」と名乗ることを選びとった。
 「朝鮮人です」と名乗った彼の言葉は、私に「日本人です」ということを強く意識させると同時に、あのときの歯を食いしばった奥歯の痛みを思い出させる。彼と私が同じ被抑圧者であるから連帯できる、などとは思わない。私は圧倒的な日本人としての特権を持ち、彼は男としての特権を持っている。私の歯のくいしばり方より、彼はつよく奥歯を痛めてきたのかもしれないし、彼は歯などくいしばっていないのかもしれない。私には、想像力によってもたらされた奥歯の痛みと、想像力の限界の向こうにある深い断絶の暗がりに直面する。私は彼の痛みを理解していない、そのことを知っている。だが、私は奥歯が痛い。そして、彼に歯を食いしばらせたかもしれない、「特権を持つ日本人である自分」であることが痛い。自らの存在のありようが痛い。
 私は彼の前にいる限り、「日本人として」存在する。その日本人性とは加害者性のことであり、「あってはならないもの」である。抑圧者として彼の前に立ち、私はその日本人性の解体を欲する。もうこれ以上彼に暴力をふるうことをないことを祈って。同時に、彼も欲するかもしれない。加害者性としての男性性を解体することを。相手に何かすることがすでに暴力になる抑圧の構造の中で、加害者同士が出会うとき、そこで両者は何もできない。だから、自己の加害者性を映し出す鏡である他者と見つめ合いながら、自己自身を知ることしかできない。私が「日本人であること」を知るために、彼が「男であること」を知るために、お互いを必要とすること。私にはあなたが必要だ、と両者が口に出した時、初めて連帯は可能になる。私とあなたは違っているからこそ、繋がるのだ。