新しい哲学のために

 昨日、応用哲学会(http://wwwsoc.nii.ac.jp/jacap/index.html)に行ってきた。参加したのはワークショップ「生命の哲学の可能性」(品川哲彦、森岡正博)とシンポジウム「これが応用哲学だ!」(伊勢田哲治茂木健一郎森岡正博戸田山和久)である。森岡さんの話が聞きたいと思っていたし、有名人の茂木さんの話をミーハー心で聞きたいとも思っていたし、真面目に「応用哲学という分野について知りたい」と思っていたので行ってきた。内容は、後日、youtubeにアップロードされるらしいので、詳しくは書かない。
 雰囲気は、スーツの人も少なく、自由な発言が促される雰囲気だった。社会的な現実問題に直面し、そこから思考を始めようとする哲学を目指す人が多いようだ。社会学と哲学の間で揺れる(私のような)若者が集う場所になるのかなあ、などと思っていた。特に、シンポジウムの伊勢田さんや森岡さんの実体験を交えた話はとても勉強になった。
 実践の場に出てみると、最初に問われることは「おまえの学問は、どう役に立つのか?」ということである。結論からいえば、哲学が現場で役に立つはずがない。あえて役に立つことがあるとすれば、現場に出ている人が、実践を終えて家に帰って本を広げて思索にふけるときだろう。参与観察であろうと、アクションリサーチであろうと、実践スキルの低い研究者はたいてい現場のお荷物で肩身が狭い。そこで挫けずに「いやいや、こういう風に哲学は利用できますよ」とアピールするのは(現場の片隅に置いてもらうためにも)大切なことである。
 また、研究した結果、たどりつく真実は必ずしも当事者にポジティブなものではない。発表すれば、「しんどい人が、よりしんどくなる」というような研究結果もある。そこで真実を曲げるわけにもいかず、発表するのかしないのか、という葛藤が生まれる。また、「おまえが当事者をしんどくさせている」と迫られるときのきつさもある。
 こうした研究者の直面する問題は、人類学や社会学では議論されてきた。しかし、哲学分野の人の多くは、まだまだ現場に出ることが少ない。そのため、指導者や先輩からアドバイスをもらう機会も少なくなってしまう。また横のつながりも広げにくい。その意味で、応用哲学会が旗印となって、新しい哲学をやりたい人たちの出会いの場になるかもしれない、と期待する。

 けれど、なかなか難しいな、とも思う。ジェンダー比率は、ぱっと見ただけで圧倒的に男性が高い。そして、シンポジウムで、またもや私ははらわたが煮えくりかえる思いをすることになった。
 シンポジウムで、茂木さんは、カネボウと協力して、化粧をする女性の脳を調べたという。その結果を「オンナは化粧をしているとき、自分の顔を他人の顔として見ているってことですよ」という風に冗談めかして言い、会場はドッとウケた。そして、そのあとの討議の中で、自分のクオリアの研究は本質的な問題を追及しているが本が売れない、しかし化粧の研究のように非本質的な問題を扱えば本が売れると述べた。
 まず、フェミニズムは、女性が化粧をすることで、自分の顔を物のように扱い、他者の視線で構築していくことは何度も指摘しきた。男に愛されるために化粧をし、自らの固有性の象徴であるはずの顔を、他者(男)に売り渡してしまう。だからこそ、化粧が女性を抑圧していると告発してきたのだ。もちろん、この指摘には多くの反論が(女性の側からも)寄せられてきた。私自身、化粧をするときに、単純に男性に自分の顔を売り渡したとは思えない。ただ、化粧がジェンダーについて考える上で、重要なテーマになることは間違いないと思う。これまで多くの議論が重ねられてきた問題である。さらに、多くの聴衆の前で女性を「オンナ」と呼ぶことや、女性の顔の問題すなわちジェンダーに関わる問題を非本質的だとすることにも、フェミニズムから多くの批判があった。
 茂木さんは、シンポジウムで、繰り返し「大衆はリテラシーがない」と述べた。また、先行研究を踏まえる重要性も指摘している。だが、彼の頭の中にあるリテラシーとは、フッサールハイデガーのような「テツガク」のリテラシーであり、先行研究とはアカデミズムに権威づけられたテツガクショのだけを指すのだろう。フェミニズムについてのリテラシーもなければ、先行研究への敬意もない。
 もちろん、茂木さん自身の問題もあるのだろう。だが、私がよりきつかったのは、「この会場は茂木さんのミソジニーを許容する場である」と認識してしまったことだ。哲学の分野では、女性の研究者は本当に少ない。また、フェミニズムは第三波どころか第二波も到達しておらず、「クィアってなんですか?」みたいな状況だ。当然、セクハラ発言が横行する。アカデミズムでセクハラのない分野がない、という気もするが、やはり物理的に女性の比率があがれば、雰囲気は変わってくる。そして哲学が「男が本質的な問題に取り組む学問」というファンタジーにとどまる限り、女性研究者の数は増えないだろう。

 私は二つのことを考えた。
 一つは、やはり応用哲学会のような場が開かれたことを私はうれしいと思う。20年前に、孤独に荒野を拓いてきた伊勢田さんや森岡さんのような人たちから、こうして話を聞けるチャンスがもらえるのは、昔に比べれば格段に恵まれたことだろう。また、発表の機会も与えられるし、これまで踏みつぶされてきた先人の轍を踏まずに、研究者としてやっていく可能性も出てくるかもしれない。だから感謝するし、これからも積極的にこうした場に参加したいと思う。そしてこういう風に会を運営してくださる先生方に敬意を持ちたいと思う。
 もう一つは、だからと言って、ここで新しい哲学が始まるという期待はしないでおこうということだ。私たちは横に横につながっていくしかない。こうしたジェンダーに対するセンシティビティの低い哲学の分野に対し、憤りを持つ若い研究者はジェンダーを問わず少なくない。だから、私たちは縦の関係から与えられるものをありがたくいただきながら、肩書のない名刺を持って、志を同じくする研究者とつながっていこう。新しいものは、何もないところからしか生まれない。新しい哲学を語る場がない、ということこそが、希望なのだ。
 茂木さんは、繰り返し「僕はもう日本のアカデミズムに絶望しているんですよ」と言う。だが、こうした言葉には耳を貸さず、もうそろそろ希望の話をしようと思う。

(略)女はいつも、己れの可能性を求めて求められずに帰ってくる男を、待っているだけの役割をふりあてられる。そもそも男の可能性は女の可能性と共にあるのであって、男が<男らしさ>でいくらがんばったって、女を取り残して旅立つ限りにおいては、絶望と挫折は男の必然なのだ。それをもって男の苦渋と称されても、ちゃんちゃらおかしいあたしたちがいるだけだ。闇にいる女は、イヤでも男がよく視える。男の空転ざまがよく視える。そしてともすれば、その男の空転ざまを抱きかかえたがるという誤りを犯す。良妻賢母とは、夫に対しても母親、子に対しても母親の、二通りの、母親ぶりを装う者の総称に他ならない。男の、子宮回帰願望は、女の寛容さの中でそのイメージの切れっぱしを現実化してこれたという訳だが。
 しかし、「痛み」を「痛い」と感じる者が、その痛みを忘れて寛容になろうとすれば、どうしたって自虐的にならざるをえない訳で、男が己れにだけやさしい女を求めれば求める程、女は自虐的に、つまり加虐的にも、なるべくしてなっていくのだ。よく言われる女の残酷さとは、男の子宮回帰願望に応えようとしてれを偽った女の、その無理がうみだす結果に他ならない。光の中に輝く<男らしさ>幻想の、そのウソッパチを闇の側から視てしまった者が、しかし、あくまで己れを女らしさの幻想のウソッパチにだまし切ろうとすれば、その無理は女の中に自虐性をうみだしそしてそこから毒を喰らわば皿までの女の暗い情念がうみだされていくのだ。
 男の背に向ける、自分のまなざしの中に、その女の暗い情念を視た時、あたしは<母親らしくない母親>として切り裂かれ、とり乱しの中に生きてきた女を己れを通じて知ったのであった。男の面子ばかり気にかける夫と、そうである以上、その男の母親になりえても、女としては出会えない己れに、あたしの母のいらだちがあったのだ。
 一人海へ己れを求めていかねばならない<男らしさ>の定めも、そしてこの男を待ち続けねばならない<女らしさ>の定めも、共に生ま身の男と女を抑圧し、切り裂いていくもの以外ではない。
(略)
冬の木立を見つめつつ、これだけは――、これだけは――と想いをこらした、そのあたしの想いとは、汚辱の中にこそ生命の可能性が輝くのだ、という想いであった。その生命の可能性とは、出会いへの希求に他ならない。女の生命の可能性は、男並みに海に己れを求めていくあり方にあるのではなく、己れの中に海を胎み、そこに己れを求めいく中にこそある。男の海が社会であれば、生きようとする女の海は己れ自身だ。海を社会に求めて、そこにおいて己れをば求めようとしても、その社会を支配する者の姿を映してしまうだけの話だ。誰も、どこにも、完全に自立した主体などありえようハズもなく、それぞれが奴隷の歴史性、媚の歴史性をひきずって歩み行くしかない以上、海に社会を求めて、<男らしさ>で船出しようとすれば、赤い夕日に権力者の影を映してしまうのは必然なのだ。己れの中に海を胎むとは、媚の歴史性を体内に血肉化されてしまった、その奴隷の「痛み」を「痛い」と感じる中から、奴隷でも、奴隷頭でもない己れを求め、出会いを求めていくことに他ならない。被抑圧者の、その生命の可能性は、被抑圧者同士が出会いを求めていく中にこそある。つまり被抑圧者同士を敵対させることによって成り立つ社会を、打倒する可能性がそこにあるということだ。
 海へ帰りたいと想う。どんなに餌が豊富に与えられようとも、海に生まれた魚は、海に帰りたい心を抑え切れるものではない。今度こそ本当の海、己れの海へ帰りたいと想う。海へ帰りたい想いは、出会いたい想い。女と、男と、沖縄人と、被爆者と、在日朝鮮人と、娼婦と、被差別部落民と……、そして世界と出会いたい。出会いたい想いの中で、あたしの海が満ちてくる。一人一人の海満つる時を信じる中に、あたしの生命が、未来がある。
(124〜127ページ)

 今でも時々、ひどく自分がクズで、無価値な女だという思いに落ち込むことがある。しょっ中ある。そういう時、あたしは自分の原風景と出会っていく。「これだけは――」の想いに祈りを凝らしてみるのだ。手を伸ばして、伸ばして、掴むのは、闇でもともと、なにか掴めりゃなお結構。あたしの原風景に、吹く風は、春の息吹のいくらかを今、伝えつつあるようだ。
(139ページ)

[rakuten:book:11316313:detail]
(引用ページは文庫版のもの)

追記

動画がアップロードされたようだ。
http://www.youtube.com/watch?v=WWc56WxbWjQ