承認を待ちながら

 秋葉原の事件についての識者座談会が、毎日新聞に掲載されたようだ。
http://mainichi.jp/select/wadai/news/20080821dde018040068000c.html

 東さんは、次のように、このような事件が起きる時代精神を分析する。

東 (前略)結局、彼に代表される人たちに欠けているのは、自分の人生を自分で引き受けることだと思います。

 自分が選択できないものを選択して、人間は主体を構成する。選択できないものとは、普通は地縁や血縁ですね。本当は、この場所でこの時代にこの親の子に生まれたくなかった。でもそれを仕方がないと、いわばあきらめて主体は安定する。あきらめずには大人になれないのに、現代社会ではそのあきらめの回路がうまく働いていない。

これは、一部の識者が繰り返して述べていることだ。だが、「不利な選択」の引き換えに、大人になることによって得られる利益が、この社会ではあまりにも少ない。
 もう少し前の社会では、「職を得ること」で、「賃金労働者」として認められた。「結婚すること」で、「一人前の男」として認められた。「子どもを産むこと」で、「母親」として認められた。これらは、「社会を支える存在」として、<社会>から承認されるものである。親でも、恋人でも、友人でもなく、抽象的な「世間」から与えられる承認である。そのことにより、「具体的な他者に承認を求める」という子どもから、「誰に認められなくても生きていける」と感じられる、大人へと成長する。
 しかし、今の社会では、どうすれば社会的に承認されたとみなされるのかが、わかりにくい。派遣労働では、一昔前の単純労働に従事する労働者よりも、もっとはっきりとした形で、「取り換えのきく存在である」ことを労働者に思い知らせる。結婚することも、子どもを産むことも、個人の自由であり、自己責任で「私がしたいからする」ことだとみなされる。社会に求められることではなく、自分が求めているから、自分の責任ですることとなった。
 何をすれば、この社会から「必要とされる存在」になれるのか、わからない。そういった不安は、私自身も共有するし、同世代の人間の多くが持つだろう。過剰ともいえる、若者からの「承認欲求」への希望は、承認なされていないから起こるのではないだろう。どうすれば承認されるのかがわからないから、承認に対する幻想がどんどん膨らむ。「承認されれば、どんなに生きやすくなるだろうか」という期待に満ちていく。その結果、まるで自分が承認さえされれば、すべての問題が解決するかのように感じられるのだ。
 逆にいえば、承認されなければ、問題は解決されないように感じられる。加藤さんが本当にモテないことや、友達がいないことが理由で、絶望したのだと仮定する。そうであれば、その絶望は、自分が、永久に承認されない存在だとみなしたことにあるだろう。そして、いまある問題のすべてが解決できないとみなしたことにあるだろう。
 しかし、承認だけが、問題を解決する方法ではない。多くは、制度改革により、労働条件を改善したり、富の再分配したりすることにより解決されるだろう。また、多くは、個々人を抑圧する価値観を変革することにより解決されるだろう。雨宮処凛に象徴されるような、新しい社会運動には、その可能性がある。そこに希望を見出せるのかどうか、が問題となる。見いだせない場合は、赤木智弘のように「希望は戦争」という主張になるのかもしれない。
 だが、何度かこのブログでも書いてきたことだけれど、私や加藤さんと、雨宮さんや赤木さんの間には、約10歳の差がある。同世代とはとても言えない。私は、約一年前に、次のような文章を書いている。

 しかし、それでも、と思う。

 それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても、彼らが戦争に苦しむさまを見たくはない。だからこうして訴えている。私を戦争に向かわせないでほしいと。

 しかし、それでも社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は、「国民全員が苦しみつづける平等」を望み、それを選択することに躊躇しないだろう。

赤木智弘「『丸山真男』をひっぱたきたい」『論座 2007年1月号』朝日新聞社

私は、この部分を読んでこけそうになってしまった。甘ったるいやさしさ。なんだかんだ言って、他者を尊重してしまう。そして、この甘ったるいやさしさこそが、私も共有する世代感覚かもしれないと思った。*1

*1私は赤木さんと10才近く離れているので、コーホートとまではいえない部分もありますが。

http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070827/1188181987

このとき感じた、10歳近く離れている、という感覚をもっと大切にすればよかったと思っている。私が「こけそうになってしまった」ことが、すでにズレている。本当に「戦争をやってしまった」のは、赤木さんではなく、私の世代である。
 赤木さんは、同時に、「モテない」ことに対して、女性を敵視するような発言をしている。しかし、加藤さんは、誰を敵視するのかわからないような形で、凶行におよんだ。赤木さんは、ぎりぎりのところで、「女性が自分を承認さえしてくれれば」と言葉にできた。私は赤木さんの女性に対する発言は、容認しがたい*1と思っているが、言葉にできただけ、救いがあるのかもしれない。加藤さんが、なぜ、誰に向って、刃を向けたのか、現段階ではわからないし、いつか加藤さん自身が語る日がくるのかどうかも、わからない。
 もし、承認すべき誰かが、承認することを拒んでいるのなら、その「誰か」を敵視すればいい。しかし、どうすれば承認されるのかわからないなら、誰を敵視すればよいのかも、わからない。逆の言い方をすれば、親に愛され、友人に囲まれ、恋人と語らっても、「社会から必要とされていない」と思ってしまえば、それは飽くことのない承認欲求を和らげることはないだろう。
 私自身、強い承認欲求を持っている。もっと大変だったころ、私は、ドラスティックな承認が起きるのを待っていた。それは、神様が来るのを待っているのと同じだ。奇跡が訪れるのを待っていた。戦争はおこすことができる。でも、奇跡は人間に起こすことはできない。だから、ただ、待ち続けていた。
 ベケットの「ゴドーを待ちながら」では、ゴドーを待ち続けるウラジミルとエストラゴンの元に、天使がやってきて、「ゴドーさんは今日は来ません。明日は来ます。」と告げる。待ち続ける二人の元に、再び天使がきて「ゴドーさんは今日は来ません」とまた告げる。二人はやっぱりゴドーを待ち続けるのだ。不条理劇で、難解と言われる作品だが、本当に難しいのは、二人を立ち去らせる方法を考えることである。

*1:正面から批判する気にすらなれない。