あなたは、なぜ笑っているのか?

 「世界のナベアツ」という芸があって、それに障害者差別の要素が含まれている、という指摘があった。

世界のナベアツの悲しみと楽しみ

対して、芸には、身体に特徴がある被差別者(ここでは、おもに障害者)を「見世物」にしてきた歴史があると、指摘する人もいる。そして、その人は次のように述べている。

自ら心性の愚劣さを自覚せず、障害者やフリークスを嘲り、人格を貶めるような人間はいるだろう。そんな輩の視線を基準に考えなければならないというなら、もう何もいうべきことはない。本当によくできた隠蔽社会が必ずしも不幸だという確信はぼくにはない。けれども、ナベアツのアホ芸を見て障害者を持つ親も一緒に笑えるような世界は、絶対にあり得ないのだろうか。不具を笑うことがちょっとした後ろめたさも込みにして受け入られる世界。たとえば、障害者が障害をウリにした芸人をやる。ぼくはそれを不健全だとは思わない。そうなればいいとさえ思う。

lylyc「不具を笑えないという不健全がありはしないか?」『Weep for me』

近代以降の日本で、もっと激烈に「見世物小屋」をやった人がいる。寺山修司である。寺山は1967年に劇団「天井桟敷」を旗揚げした。その活動について、ジャーナリストの扇田明彦は次のように述べる。

 第二回公演は早くも六月、新宿の寄席「末広亭」で寺山作、東演出、和田誠音楽『大山デブコの犯罪』が上演された。「大山デブコ」に扮した肥満女性たち、筋肉日を誇るボディビルダーらが、ピンク映画の女優から転身した新高恵子、浪曲師の桃中軒花月らと共演した。この公演について、寺山はのちに「私にとって、この作品の台本はどうでもいいのであり、要するにステージの上に一〇〇キロ前後のデブコが数人並び、他にヌード、セミ・ヌードの男女が見世物小屋の絵看板のように立ち並びさえすればよかったのである」(「作品ノート――大山デブコの犯罪」)と書いた。

扇田明彦「日本の現代演劇」139ページ

日本の現代演劇 (岩波新書 新赤版 (372))

日本の現代演劇 (岩波新書 新赤版 (372))

なぜ、寺山がデブコとヌードを舞台に並べようとしたのか。それは、人々が、彼らが社会に存在していると知っているのに、決して表舞台にはのせようとしないからだ。人々は彼らを、好奇のまなざしで、目の端でチラチラと見ているのに、いざ彼らがこちらを見ると、目を伏せる。そこで、彼らに正面からライトをあて、舞台にあげてしまった。(もちろん、寺山は「そうれば面白い」と思っただけで、差別を撤廃する意図はない)
 そのパフォーマンスが、被差別者の側からの政治的戦略として使われる/使いうることを指摘したのは、ジュディス・バトラーである。清水晶子は、このバトラーの、クィア・ポリティクスにおける、パフォーマンスによる政治戦略論を次のように説明する。

 ここでは、クィア・ポリティクスにおける「劇場的な」引用の戦略についてのバトラーの考察が参考になる。主体がホモフォビック呼びかけの言葉を引用して、それが抵抗の言説的拠点としようとする時、その引用は「言説上の慣習を逆向きに覆すと同時に、その同じ慣習を模倣しおおげさな(ハイパポリック)のものにするという点で、劇場的なもの」であり、そのような誇張(ハイパポリック)の身ぶりは現代クィア・ポリティクスにおいて非常に重要な役割を果たしている、とバトラーは主張する。引用/模倣のパフォーマンスにおける誇張の身ぶり、規範の追認をおこなうパフォーマティブな力に対抗し、ホモフォビックな呼びかけを支える言説を「逆向きに覆す」効果を持ちうるものとして要請されているこの身ぶりは何なのだろうか。クィア・ポリティクスにおけるこのような誇張の身ぶりの例として、バトラーは「ダイ・イン」「キス・イン」やドラァグのような劇場的パフォーマンスを挙げる。クィアを恥ずべきもの、スティグマを負い、根絶されるべきものとみなす、「恥じの呼びかけ」に負わされた傷をこれみよがしに見せびらかすことで、これらのパフォーマンスはまさにそのような呼びかけに抗おうとしているのだ、と。そうであるならば、ここで誇張の身ぶりとバトラーが呼ぶものは、むしろ、ホモフォビアによって傷つけられたクィアな身体を引用/模倣しつつ、まさしく出現するはずの、傷つき、恥じに身を隠し、消えていく身体であることを拒絶する、二重の身ぶり。あるいは両義的な(equivocal)身ぶりとはいえないだろうか。そして、この二重の、意図的に両義的な(エキヴォカル)身ぶりこそが、逸脱的な引用/模倣のパフォーマンスをそれと理解させ、それを通じて「わたし」が生き延びることを可能にする、一つの鍵だとは考えられないだろうか。

*引用者注:ルビはカッコ書きにした
(清水晶子「キリンのサバイバルのために――ジュディス・バトラーアイデンティティ・ポリティクス再考」『現代思想』2006年10月臨時増刊、177ページ)

 性暴力被害受けた経験のある友人が、クィアが集まるパレードに「わたしはキズモノ」って書いたゼッケンをして出たい、と言い出したことがある。私は、彼女のパフォーマンスのアイデアに爆笑した。私が笑えたのは、彼女と私が、この社会で性暴力被害を受けた経験を持つ人たちが置かれている、笑えない現実を、何度も真剣に議論してきた、という経緯があるからだ。本来は「傷ついた者」であるにすぎない、性暴力被害を受けた経験を持つ人たちが、「キズモノ」と呼ばれるとき、不当なスティグマを負わされ、差別される。彼女は、その社会的状況への徹底的な怒りと行動を表明してきた。その上で、「わたしはキズモノ」と言ってみせようとする、彼女のすっとぼけた芸風に笑ったのだ。(結局、諸事情でそれは実現しなかった。残念だ)
 しかし、もしも、テレビで彼女が同じことをしたら、視聴者は彼女を笑うだろうか。自らが不特定多数の群衆の中に隠れ、その他大勢として、見ず知らずの被害者を「あいつはどうせキズモノだから」と笑うことはできるかもしれない。しかし、一人の個人として現前した彼女を、どうやって笑うのか。もっと言えば、何がおかしくて、笑うのか。――笑えないだろう、それは。
 なぜなら、性暴力被害にあうことも、身体に特徴があることも、それ自体は別に面白くともなんともないからだ。彼らが異質なものとして他者化され、普段目に入らないように排除されているから、奇妙でおかしなものに見えるのだ。身体に特徴があることは、身体に特徴があるあることにすぎず、笑うことではない。身体に特徴があるである、それだけでパフォーマンスになってしまうような、社会構造こそが、笑うに値することだろう。
 身体に特徴を持つ人がいて、その存在を笑う。それは、そこに差別があることをあらわにするだけだ。そのことを、最初に紹介した「世界のナベアツの悲しみと楽しみ」を書いた山崎元は簡潔に書いている。

 ただし、たとえば障害児や障害児の親が不快な思いをするから、ナベアツはこのネタを封印すべきだとは思わない。
 言葉や表現を狩っても不毛であり、一人一人が持っている差別意識を忘れさせているに過ぎない。問題は意識自体の方にある。不格好だとする対象を笑いたい意識は心の中にあるのだから、せめて、それを忘れないことだ。表現を封じて、意識を忘れようとすることの方が醜悪な場合がある。程度の問題でもあるし、社会の受け止め方の問題でもあるが、対象(たとえば笑われる対象)それ自体に向けられた侮辱的表現でなければ、つまり、「ナベアツのアホ」くらいのものであれば、それは許容される方が風通しがいいと思う。不愉快な人は彼を見なければいい(でも、辛いだろうなあ)。
 何れにせよ、あの笑いには、一片の毒が含まれていることを、我々も、ナベアツ本人も意識しておく方がいいと思う。

世界のナベアツの悲しみと楽しみ

問われているのは、ナベアツだけではなく、視聴者でもある。つまり、笑われる側ではなく、笑う側である。そして、誰にも笑う側は規制できない。だからこそ、自ら問い直すしかない。なぜ、私は笑っているのか。

追記

 id:tummygirlさんから、身体の差異をとりまく視線の錯綜について、ご指摘をいただいています。私が取りこぼしているものがあらわになって、「しまったあああ」と思っています。特に

 とりわけ、見世物において「展示されていた」身体が、ただ単に「展示される」ことをやめてそれ自身を「見せ」はじめる時、見る者と見られる者の間に想定されていた関係は大きく変容せざるを得ない。自らを見せる身体は、それ自身を見る者を見ているのであり、見る者の視線を予期してそれを操作しようとするのだから。
tummygirl「私が私を見せるようにあなたが私を見せることはできない」『FemTumYum』

という部分は、改めて何かの形で言及したいです。私もこの点は大事にしたいと思っています。