命の重さは同じではない

 「G8サミット外相会合」が昨日、今日と行われている。京都は、ものものしい雰囲気で、大きな道の四辻には、警察官が配備されている。隊をなして、移動もしている。大変な威圧感だ。
 それで、さっき、重要人物らしき人たちが乗った車が通り過ぎるところに立ち会った。私が渡ろうとしていた、横断歩道の脇の信号は、10分くらい赤のままに止められていた。何事かと、近隣に住む人たちも出てきて、道端に並んで見物している。自動車の通行は制限され、自転車が軽く車道にはみ出るのも、警察官によって注意された。警察車両が一台通り過ぎる。助手席の警察官が、窓から身を乗り出して、状況確認をしながら、口に無線マイクをやって何かを指示していた。少し間があいて、数台の汚いバンや四駆がすごいスピードで通り過ぎる。中には、黒いサングラスをかけたSPが乗り込み、歩道に立つ私たちの側に顔を向けている。後部座席に乗っている人たちも、ちゃんと車の中についている手すりを握っていた。それらの車の最後尾にやはりパトカーがついて走っていった。街道に出ていた、近隣の和菓子職人のお兄ちゃんが「撃たれへんように、奥のほうにエライ人が乗っとったなあ」と同じ和菓子屋のおばちゃんたちに解説していた。
 
 私は、すごくイヤな気持ちになった。警察官が監視しているとか、反G8とか、そういう部分から発せられる以外*1のイヤな気持ちである。私は、信号を止め、警察官に守られるあの人たちの命は、そんなに重いのか?と思ったのだ。
 たとえば、私がストーキングされて、警察に届け出たらどうなるのか。最近の警察の対応は、とても親切になっているので、できる限りPCに気をつけて、警察官は私から事情を聴取するだろう。そして、「パトロールを念入りにします」と言われる。もしかすると、数週間後に「特に変わりはないですか?」とフォローの電話が入るかもしれない。これは、反性暴力の運動家やフェミニストの功績であり、被害者たちの訴えによって実現された、昔では考えられないほど「ちゃんとした対応」なのだ。
 だが、「殺されるかもしれない」状況に置かれたとき、警察官がとる対応は、相手によってずいぶん変わるものだ、と思う。おそらく、命の重さが違う。そう、要人と私(そして、あなたたちのうちのほとんど)の命の重さは違う。

 たとえば、どうして自己責任論を掲げる人たちは、G8の要人を批判しないのだろうか。彼らは勝手に日本に来て、勝手に会議をしている。そのために、日本は大変な予算を使って、警備している。私の知る限り、このサミットに割かれた予算は、警察庁警備等だけで155億円である。彼らに、警備代を請求しないのか。
 イラクの子どもを支援しに行くのと、G8で会議を開くのと、どっちが世界にとってより善い行いなのかは、わからない。比較できない。私はG8で世界の貧困が過酷になった話は聞いたことがあるが、G8で世界の貧困が解消された話は聞いたことがない。もっと利己的に考えても、私の生活が、生き方が、G8によってより良くなるのか、ということには、はなはだ疑問がある。それに、私たちの税金が使われている。
 なぜ、彼らは155億円も使って守られるのか。それは、権力があるからだ。そしてG8とは、その権力構造が、もっともわかりやすい形で現れる事象である。人の命の重さは同じではない。知ってたけど。

*1:もちろん、そういう部分から発せられるイヤな気持ちも十分持ち合わせてますが。