細谷実「美醜としての身体――美醜評価のまなざしの中で生きる」

 これは、金井淑子編「身体とアイデンティティ・トラブル―ジェンダー/セックスの二元論を超えて」に収録された短い文章である。

身体とアイデンティティ・トラブル

身体とアイデンティティ・トラブル

 細谷さんは、美醜という基準は、常に「美/醜」を序列化する作用が伴うことを指摘する。「Aは美しい」と言明することは、常に同時に、「Aでないものは醜い」とする作用を伴うのだ。そして、醜い人は、美しい人より下位に位置づけられる。この序列化により、醜いとされた人は、他者に攻撃されるだけでなく、自分自身を卑下し、嫌悪して苦しむことがある。これが、美醜によるハラスメントである。
 さて、細谷さんは、このハラスメントの被害にどう対処するのかを考察する。細谷さんは藤野美奈子「不美人論」とデイ多佳子「大きい女の存在証明」を比較して、検討する。
不美人論

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大きい女の存在証明―もしシンデレラの足が大きかったら (心をケアするBOOKS)

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藤野さんは、美のイデオロギーに振り回され、醜いとされる自己を嫌悪する自分を、戯画化して描く。そうして、ハラスメントに巻き込まれた自分を笑うことにより、問題から距離をとろうとする。デイさんは、醜いとされることに怒り、醜さを隠すようにアドバイスする言説を批判する。ハラスメントの痛みが、全面的にそこであらわされる。
 細谷さんは、デイさんの直球でハラスメントと闘うさまに敬意を表しながら、「誰にでもできるわけではない」という。むしろ、藤野さんのように、笑いごとにして、問題を無化する方策を、処世術として評価する。そして、最後に中村うさぎ「美人とは何か?」を引き合いに出し、ハラスメント受ける被害者自身が、社会の容姿美の基準が恣意的なものかを、自己内で解体することを勧めようとする。要するに、「ブスって言われても、傷つかない私」を構築することが目指される。
美人とは何か?―美意識過剰スパイラル

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 おそらく、これはかつて、吉澤夏子「美という評価基準」で述べられた、美醜問題を私的領域に封じ込める戦略と同様のものだろう。すなわち、公的領域に美醜という基準が持ち込まれている社会状況を問題化し、批判するのだ。
クィア・ジャパン (Vol.3) 魅惑のブス

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 それはそれで、有効な戦略であろう。しかし、読みながら、私はどうも違和感を持った。一番、強く感じたのは以下の部分である。

 例えば、次のようなケースはどうであろうか?デイ氏がメールをもらった身長一七三センチの未知の女子学生からの訴えである。大学での就職模擬面接で、面接後に面接官から以下のようにアドヴァイスされたという。「あなたは背が高いから、相手にどうしても威圧感を与えてしまい、不利になるから、他の女の子よりももっと柔らかい印象を与えるように努力したほうがいい。」女子学生は帰り道に泣いた。メールの最後に「たぶん、身長一八〇センチ以上の男子学生には決して言っていない。私が女だから吐かれた言葉なのです」とあり、デイ氏は、「その通りである。面接官は男だ」と述べる。
 しかし、模擬面接間がそうした処世術をアドヴァイスするのは、一概に否定できないのではないだろうか?むろん、当の学生がアドヴァイスを受け入れずにかえって傷ついてしまったら、無意味で罪な事をしたことになる。それ自体、ハラスメントと見なされるかもしれない。しかし、相手がアドヴァイスを受け入れて実行した結果、就職できる可能性が高まることも考えられる。(84ページ)

これは、なんか変じゃないか?だって、現に、当の学生は傷ついているのである。傷ついた上で受け入れて実行すれば就職はできるかもしれないが、傷つきは癒えない。たとえば、美醜ハラスメントによる傷つきなんて、就職したいんだったら我慢しろ、という話ならば、まあ、筋は通る。あと、美醜ハラスメントの傷つきは、目標達成とともに帳消しになる、という話でも、筋は通るだろう。しかし、細谷さんの問題設定は、そういものではないように思う。なんか、変だ。
 変になったのは、細谷さんが、なんとか「女子学生にアドヴァイスできないか」つまり「美醜ハラスメントの被害者の生き難さをやわらげられないか」と心を尽くした結果のように思う。だけど、その心尽くしは、もう一つ相手には届かない予感がする。はっきり言って、余計なお世話だろう。
 私は、そんなに誠実な人ではないので、日常生活では、他人の同情を引いたり、道化たりしながら処世術を活用して暮らしている。特に、自分の身に起きた不幸を、笑いのネタにするのは得意だし、大好きだ。たいていのことは、茶化して笑いごとにして生きていきたいと思っている。できる、できないは別にして。処世術肯定派である。
 しかし、他人に「この処世術を使いなさい」と言われたら、相手の胸倉を掴んで、怒り狂うだろう。処世術とは、私の人生の中で、困難をやり過ごすために、能動的に作り上げてきた芸である。その芸風を否定されることは、それまでの自分の生き延び方を否定されることである。胸倉をつかまれてでも、言いたいのならば、それはそれでよいと思う。それは、その人の生き方に関わることであり、ズブズブの関係性を築くことである。
 もし、その覚悟があって細谷さんが、処世術のススメを書くのであれば、上記の引用部は、あまり適切でないように思う。すなわち、未知の女子大生の生き方にケチをつけるのと、目の前の人の生き方にケチをつけるのは全然違うからだ。
 では、何も言うべきではないのか?そうでもないように思う。細谷さんは、自分がベストだと思う処世術を、それを選んで欲しい相手の前で披露すればよいのだ。何が言いたいのかというと、細谷さんは散々、デイさんの真面目さよりも、藤野さんのお笑いをほめるにも関わらず、ご自分の文章はいたって真面目だ、ということだ。笑われることによる処世が本当にすばらしいと思っているのであれば、自らもその処世術をとればよいと思う。
 なぜ、細谷さんは、自分は真面目な顔をしていても良いと思うのか。その立ち位置を、やはり私は問う。笑われろ、と誰かに言うものは、まず誰かに笑われて見せるしかない、と思う。*1

*1:もしかして、細谷さんは、めちゃくちゃ面白い人で、実際に会うと私も抱腹絶倒なのかもしれない。そうやって、普段、パフォーマンスしまくっているので、たまには真面目な文章を、というスタンスだったんだろうか。だったら、笑うけど。