当事者が幸せになること

 最新の「ビッグイシュー日本版」95号を読んだ。上山和樹斉藤環の往復書簡の形をとる「ひきこもり社会論」が、48回を迎えているが、いよいよ危ない感じ。
 前の47回では、上山さんが、斉藤さんの「精神科医として20年以上、考察・検討してきた」という一文を批判している。上山さんは、25年以上前に不登校に苦しみ始めたが、公的な場で「ひきこもりの経験者」として当事者活動を始めたのは7年前である。上山さんは「ここで私のキャリア計算は、どうすればよいと思われますか?」と問う。ひきこもり当事者は長いほうが(重症とみなされて)珍重されやすい。だが、実際の社会生活していくとなれば、その長さはネガティブなものとみなされる。当事者としてのポジティブな評価と、生活者としてのネガティブな評価が反比例する。この状況において、自己評価をあげるためにキャリアを持ち出す専門家(斉藤さん)と、キャリアとスティグマが表裏一体となる当事者(上山さん)の間には、断絶があると指摘する。

 この点について、内田樹がブログで触れている。内田さんは、聖火リレーをめぐる騒動について感じた、「厭な感じ」について、次のように述べる。

 私が「厭な感じ」を覚えたのは、たぶんこの政治的イベントに登場してきた人たちが全員「自分の当然の権利を踏みにじられた被害者」の顔をしていたせいである。
 チベット人の人権を守ろうとする人々も、中国の穢された威信を守ろうとする人々も、聖火リレーを「大過なく」実施したい日本側の人々も、みな「被害者」の顔で登場していた。ここには「悪者」を告発し、排除しようとする人々だけがいて、「私が悪者です」と名乗る「加害者」がどこにもいない。[http://blog.tatsuru.com/2008/05/13_1156.php
内田樹「被害者の呪い」『内田樹の研究室』]

内田さんの「厭な感じ」に共感する人はいるだろう。このあと、内田さんは「被害者と名乗ること」について言及していく。後でも述べるが、「被害者っぽく振舞うこと」と「被害者と名乗ること」は、全然違う。内田さんが、これを混同するのは、わざとなのか、うっかりなのか、よくわからない。とにかく、後半には次のように述べられている。

「被害者意識を持つ」というのは、「弱者である私」に居着くことである。
「強大な何か」によって私は自由を失い、可能性の開花を阻まれ、「自分らしくあること」を許されていない、という文型で自分の現状を一度説明してしまった人間は、その説明に「居着く」ことになる。
もし「私」がこの説明を足がかりにして、何らかの行動を起こし、自由を回復し、可能性を開花させ、「自分らしさ」を実現した場合、その「強大なる何か」は別にそれほど強大ではなかったということになる。
これは前件に背馳する。
それゆえ、一度この説明を採用した人間は、自分の「自己回復」のすべての努力がことごとく水泡に帰すほどに「強大なる何か」が強大であり、遍在的であり、全能であることを無意識のうちに願うようになる。
自分の不幸を説明する仮説の正しさを証明することに熱中しているうちに、その人は「自分がどのような手段によっても救済されることがないほどに不幸である」ことを願うようになる。
自分の不幸を代償にして、自分の仮説の正しさを購うというのは、私の眼にはあまり有利なバーゲンのようには思われないが、現実にはきわめて多くの人々がこの「悪魔の取り引き」に応じてしまう。
[http://blog.tatsuru.com/2008/05/13_1156.php
内田樹「被害者の呪い」『内田樹の研究室』]

(↑どうでもいいが、この文章は「居着く」を「とどまる」にすれば、全然文章の雰囲気は違って見える気がする。)
私も、当事者を名乗って生きていくことは、「悪魔の取り引き」だという主張に賛同する。実際に、これまで、悪魔に魂を持っていかれた犠牲者もいる。急いで付け加えるが、これは当事者を名乗った人に対する価値判断ではない。「当事者を名乗ること」はそういう構造を持つ、ということだ。*1
 内田さんは、こうやって当事者を名乗ってしまい、当事者から降りられなくなる作用を、「自分自身にかけた呪い」と呼ぶ。当事者は「自分の身に起きた不幸」を晒す。その不幸は、本当に不幸である。だからこそ、不幸がパワーになる。逆に、幸福になることは、パワーを手放すことになる。つまり不幸を手放すことは、せっかく当事者として生きていく道を掴んだのに、それを捨てることである。
 上山さんの指摘する、ひきこもり当事者の長いキャリアが持つインパクトの、相反する2側面と重なる問題である。上山さんの長いひきこもりは不幸である。しかし、その不幸ゆえに上山さんはパワーを持つ。だが、上記の構造により、上山さんは引き裂かれる。すなわち、上山さんを上山さんたらしめているのは引きこもりキャリアであるが、そのキャリアこそが上山さんを苦しめているのだ。楽になるためには、生活を捨てることしかない。
 ところが、48回で、斉藤さんは上山さんについて、こう述べる。

 上山さんが「当事者」として25年間苦しんできて、だからこそ上山さんが不登校やひきこもりを語る言葉に重みがある、というのとどこが違うの?そんな上山さんのことを「あいつは本や雑誌に書いていることを自慢してる」とひがんじゃう人(いるよね)のことはどうするの?
 そういう連中のことは、上山さんだって面倒みきれないでしょ?
(「和樹と環の引きこもり社会論」『ビッグイシュー 日本版』95号、22ページ)

たしかに、斉藤さんの指摘する嫉妬の問題もまた、当事者にとって重要である。*2しかし、斉藤さんは上山さんと「対等な関係」を築こうとするがゆえに、当事者の持つ構造を見落としているようにみえる。*3
 さて、内田さんは、この「自分自身でかけた呪い」について、指摘するだけで、そのあとの提言は見当たらない。なので、私はもう少し書き進めようと思う。
 より「自分自身でかけた呪い」が悲惨なのは、当事者こそがこの構造にすばやく気づくことである。上山さんのように。そして、もっと早く気づいた当事者は、「呪いをかけるかどうか」を自己決定する/させられることになる。構造に気づいたとき、多くの当事者は、名乗ることに恐怖を感じるだろう。しかし、その恐怖が消え去るときがある。それが「怒り」や「憎しみ」に押しつぶされたときだ。
 そのとき、もはや、被害者は自分の幸福など求めない。ただ、「力が欲しい」それだけで、魂を悪魔に売り渡す。この自己犠牲への欲求は、自制などできるだろうか?自制する理性の無力さをまさに露にしてしたものこそが、「ナチスの陳腐な悪」ではなかったか。
 内田さんが、この記事でずるいのは、「聖火リレーの騒動」で「被害者っぽく振舞うこと」と、当事者運動で「被害者と名乗ること」を混同していることだ。確かに、「被害者っぽく振舞うこと」は自制できるかもしれない。場合によっては、私もその主張に賛同する。自制を志すことは、悪いことではない。しかし、「被害者と名乗ること」という、一線を越えること――つまり「私はあなたたちと違います」と宣言してしまうこと――をする人たちを突き動かす熱情は、自制を超えうる。
 そして、その自制を超えた行為の結果は、やはり当事者に帰されるだろう。私は、彼らの行為の結果は、免罪されないと考える。しかし、その自制を超えうる熱情は、誰にも裁けない。そして、自制ができないことがありえる、ということも、はっきり書いておく。
 そして最後に、書き添えるのは、それでも当事者を降りて生きていく道を、私は推奨することだ。私は、「美しい死」より「醜い生」を称揚する。自制できずに、とんでもない結果を導いたとしても、私は彼らは生きていて良いと思う。(罰をうけることはあるだろうが)悪魔に魂を売る、というのは表現だけであって、実際には、魂までもとられない、という社会制度を作ることが必要だ、といつもどおり言っておく。
 一度、当事者として生きる道を選らんだ責任を、死をもって負う必要はない。負いながら、生きるべきだ。どうか、当事者が死なない社会を。
 蛇足だが、私が知っている、当事者を降りて、なおかつ自身の生を見出した人の例を紹介しておく。

さらば、原告A子―福岡セクシュアル・ハラスメント裁判手記

さらば、原告A子―福岡セクシュアル・ハラスメント裁判手記

*1:実は、最近まで、私はここのところを、すごく熱心にやってました。むっちゃ難しいけど、面白い問題やと思う。

*2:斉藤さんは、「面倒みきれない」とか言ってるが、多くの当事者は、面倒をみがちである。そしてズブズブと、当事者が抱える底なし沼に落ちていきがちである。甘くみちゃ、だめっす。

*3:そういう意味で、斉藤さんは支援者の立場に「居着いて」いると批判されるかもしれない