私は子を産みたいかのか?
私は、同居人と法的に婚姻している。しかし、私はセックスしない。「しない」ことを選択するまでには葛藤があったし、今も恒久的な選択だとは思っていない。
こう書くと、三行で済む話だが、社会生活を営む中では、めんどうくさいことになる。私を、疾病としての「セックスできない」状態にある、と捉える人もいる。また「正常な夫婦関係」とか、「パートナーがかわいそう」とか、そういう面からアレコレ言われることもある。なんでみんな、私とセックスするわけでもないのに、そんなことを聞きたがるのかわからないが、とにかく気になるらしい。そして、「子どもはどうするの?」と十中八九聞かれる。
セックスしてないから、子が産まれるわけがない。私はまだ若いので、養子縁組や体外受精という提案をしてくる人は少ない。(でも、そのうち、そういう提案を受けるようになるかもしれない)
世の中には「子を産める人」と「子を産めない人」がいることになっている。そして、後者の人のうち、女をやっている人*1は、子産み話を聞くと傷つくので、触れないほうがいいことになっている。実際、「子を産めない人」しんどい思いをすることがは多いだろう。
で、私はそのどちらに入るのか?確かに、私は「セックスしない」ことを選択した。しかし、「子を産まない」という選択をしたわけではない。私は肉体の機能としては孕むことができるが、セックスしないと子を孕むことはないので、結果的に産まれないだけである。セックスにおける選択と、子産みにおける選択は、私にとって別のことである。私は、子を産むかどうかの話をすることに抵抗はないが、セックスするかどうかの話をすることに抵抗がある。
私は、「子どもをどうするの?」と聞かれたとき、動揺する。どうするもこうするも、ここで自分が「私は女をやってますが、子を孕まない体なんです、実は」と告白すべきかどうか迷う。しかし、告白すると、自動的に「なぜ?」と聞かれ、「セックスしないから」というセックスの話をすることになる。すると、しんどくなるので、先に「子どもをどうするの?」という話題の時点で「触れないで欲しい」と話を切ってしまう。その結果は、子産み話をふってきた人の多くは、「子を産めない人」に聞いて申し訳なかった、というようなことを言う。いや、そういう話じゃないんだが…と思う。
逆に、私は子産み話はけっこう好きだ。やっぱり、助産師がいいのか、とか、最近の出産現場の流行なんかはみていて楽しい。友人が孕むと「何が起きるんだろう?」とわくわくする。その上、「いやあ〜私も産んでみたいわあ」などと言う。だから、流れとして「子どもをどうするの?」という話になりやすい。ある意味、自業自得である。
子産み話をしているときに、私は自分の置かれた状況はすっかり棚に上げて忘れてしまっているのだ。「へええ、子ども産むって面白いなあ」と興味津々である。もちろん、私は、自分のこの忘れっぽさを反省したり、「実はこれは抑圧されていて記憶喪失なのだ」と考えることもできる。
でも、そもそも、「子を産める人」も「子を産めない人」も、そんなにわかりやすく分けられないんではないか、と思う。唯一、子を産むことだけが、事後的に「あの人は子を産める人なんだね」と結論付けるだろう。産んでない人間に「産める」も「産めない」もなく、単に「産んでない」のだ。そこに、生じた差異は、文化的なものだ。文化に対する価値判断は、今は置いておくとして。
*1:大雑把だが、ISとかTSとかそういうのを含めて