「子どものこと、ちゃんと考えたほうがいいよ」という暴力

 私は31歳になった。男性のパートナーと同居しているので、表向き上、「幸せなヘテロカップル」ということになっている*1。子どもはいない。たぶん、持つことはないだろう。
 このたった三行を書くために、ものすごく緊張する。私にもそれなりに事情があるのである。その詳細を他人に言う気もしない。だからと言って、「産まない」と固く決意しているわけでもなく、ふらっと産むかもしれない。だが、ピルを飲んでいるので偶然の妊娠の可能性も低く、順当にいけば私は子どもを産まないだろう。
 そこに、こんな言葉が降ってくることがある。
「子どものこと、ちゃんと考えたほうがいいよ」
私は黙って、困った顔をして笑う。なぜ「産まない=考えていない」のだろうか。散々、考えた挙句、産んでいないのだ。
 だいたい、「考えろ」「考えろ」って、どうやって考えるのだ。この社会は、妊娠出産に関する費用の負担も大きく、産んだ後の保育も十分に整備されず、育休どころか産休もろくにとれず、職場復帰は嫌がられ、働きながら育てる選択肢はほぼなく、シングルで生きていくことが貧困と隣り合わせの選択になるような状況だ。これでは、肉も野菜もカレールーもない中で、「ちゃんとカレーの作り方を考えなさい」と言われるようなものだ。考えても、わかることは、「材料が足りない」ことだけである。
 むしろ、考えないほうが産めるかもしれない。「玉ねぎしかないけど、水で炊いたらけっこう美味しいスープになった」みたいな話である。そうすると、今度は「考えないで出産すると子どもが迷惑する」「虐待になる」と批判される。「玉ねぎスープはカレーじゃない!」と言われるのだ。材料が足りないのに、若くて「考えないで」産んだという母親は十分よくやってると思う。誰かが、その人にカレールーを渡せばいいだけの話だ。
 そんなこと考えていたら、国まで「女性手帳」を作って、「子どものこと、ちゃんと考えたほうがいいよ」と言ってくるつもりだったらしい。さすがに、反対運動が起きてその案はつぶれた。Twitterも大賑わいだった。
 ただ、その政策はこの社会の空気をうまくよんだ案でもあったはずだ。
「女は何も考えていない」
そうやって、社会の問題の原因を「女の無知」に定めようとする。では、「女が考える」ってどういうことだろう?自分の体を妊娠出産に合わせてカスタマイズすることだろうか。それとも国がにぎわうように子だくさんを目指すというイデオロギーをインストールすることだろうか。
 いや、フェミニストの私にすれば、「女が考える」とは、社会の問題の原因は、一人一人の個人の女性ではなく、社会の構造にあることを知ることだ。そして、それは「私が苦しいのは、私のせいじゃない」と解放されることであり、「私が頑張っても、私は救われない」と絶望することもである。なぜなら、個人の努力ではなく、社会の改革によって、自分が抱えている問題が解決されると知るからだ。それには、時間がかかるし、展望も見えない。
 一人で、社会は変えられない。だから、フェミニズムが生まれてきた。女性同士でつながって、自分の持つ苦しみを、社会構造を変えることでなくそうとする。そんな素朴なことを考えて、フェミニストになって一周回って、もう一度、目の前の若い男に言われる。
「子どものこと、ちゃんと考えたほうがいいよ」
このぐるぐるまわる子産みをめぐる思考の輪から、いったいいつになったら逃れられるんだろうか。そして、こんな使い古された一言に、動揺せずにいられる方法を知りたい。

*1:同居人とは、相変わらず、仲はいいし、楽しくやってますけどね。