性的主体という言葉の難しさ

 子どものセックスを論じるときに、「子どもは性的主体たりうるか」という問いが立てられる。ここで問題になるのは「児童虐待でない、子どもとのセックスはありえるのか」ということである。
 これは、「レイプでない、男女間のセックスはありえるのか」と問うた、かの80年代のポルノ批判の変奏とも言える。男性と女性が対等でない社会状況の中で、男性と女性が対等なセックスができるわけがない。全ての男女間セックスは、男性による女性の性的搾取である。このムーブメントの中で、一部のフェミニストヘテロセクシュアルからレズビアンになった(と主張した)。この人々がレズビアンフェミニストである。*1
 もちろん、このようなムーブメントには批判が繰り返され、本気で「男女間のセックスは不可能だ」という人は、ほとんどいないだろう。男女間でセックスするときには、常にそこに女性差別の構造が孕まれる。それでも男女間で対等なセックスを志向することは可能だとみなされる。
 この前提があれば、「いかに性的搾取に見えようとも、本人が楽しんでいればそれでよい」というセックス観が成り立つ。たとえば、女性が被虐的な役割を演じながら、男性とセックスを楽しんでいるときに、その女性の快楽を否定することはできない。たとえ、それが差別をより強化し、男性に特権を握らせることになったとしても、快楽は快楽である。女性に対して、「あなたは本当は傷ついている」と戒めることはナンセンスである。
 こんな当たり前のことを言わなければいけないのは、いまだに女性が性的主体だということを信じていない人々が、たくさんいるからだ。たとえば、本屋さんに売っているようなDV被害者の支援マニュアルには「被害女性に、3ヶ月間は新しい恋人を作らせてはならない」と書いてあることもがある。*2また、性暴力の被害者がセックスワークを始めたときに、無理やりに「あなたはトラウマにとらわれている」と仕事を取り上げようとする人たちがいる。*3また「あなたにとって必要なのはセックスではなくセラピーである」と決め付けられることもある。*4
 しかし、どんなに差別に抑圧されていようと、心の傷を負っていようと、全ての人間はそこから抜け出そうとする力を持っている。はたから見ていて、どんなに無謀であっても、自分の身の安全と快楽を両立させようとする。それが性的主体である、ということだ。女性にそれができない、ということは、できない。女性は性的主体たりうるのだ。
 というように、私は今まで考えてきた。だから、「子どもは性的主体たりうるのか」という問いに、「ありえない」という判断はできない。

 ただし、ここから先は何度も言ってきたことである。だからといって、野放しにしてよいものではない。*5でも、何度書いても足りないように思うので、また書いた。

*1:このあたりのムーブメントは、アメリカが中心。

*2:いや、マジで。アメリカの支援マニュアルの翻訳本にあったりする。

*3:この問題は、とても根深い。トラウマにとらわれていようがいまいが、厳しい状況におかれている女性が選ぶ/選ばざるを得ないのはセックスワークである。そして、セックスワークは、向き不向きがはっきりと分かれる仕事であり、技術を身につける速さも個人差が大きい。にもかかわらず、セックスワーク以外の選択肢が今の社会では少なすぎる。ほかにもセックスワークを、被害者が選ぶ社会的理由はあると思うが、長くなるので割愛。個人の資質や、「心の傷」云々の前に論じるべき問題が多すぎる。

*4:半分ネタで言うことがあるんだけど、「良いセラピスト探す」のと、「サバイバーと付き合えるセックスパートナーを探す」のとなら、後者の方が断然簡単だ。

*5:「欲望は禁止できない、しかし…」(http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080214/1202980795)あと、私が考えたいと思っているのはTBくださったid:tummygirlさんの「欲望をさばく」(http://d.hatena.ne.jp/tummygirl/20080305/1204727983