ポルノグラフィとイデオロギー
私は長らく、ポルノグラフィにおけるレイプ描写について、頭を悩ませてきた。そして今も悩んでいる。このポルノグラフィを批判できるのか、そしてできるのなら、どの点が批判できるのかを考えてみようと思う。
私は、ポルノグラフィを、比較的よく見るほうだ。男性向けのAVやエロマンガも目にすることがある。私は、そこでは男性が女性をレイプする描写があるものは避けてきた。私にはそのような性向がないからである。*1ところが、インターネットを始めて、それがかなり難しくなってしまった。
性暴力の問題に取り組むようになり、「レイプ」という単語を入力すると、レイプ描写のあるポルノグラフィのサイトが羅列される。(今、Googleで検索してみたが、やはり無料動画サイトなどが、上位に表示された。)短い要約記事であっても、レイプ描写を次々と目にすることになる。一時期、興味を持って読みまわったことがある。
レイプ描写のあるポルノグラフィは、たいてい「被害者は最初は抵抗するが、レイプされるうちに快楽を得る。」というイデオロギーに満ちている。*2このイデオロギーにより、「被害者だっていい思いをしている」というような言説が生み出される。これは、男性が女性をレイプするポルノグラフィだけでなく、やおいにおける男性が男性をレイプするポルノグラフィでも同様である。私は一時期、この手のやおいを愛好していた。だから、男性が女性をレイプする描写のあるポルノグラフィを愛好する人を、人格的に貶める気にはなれない。また、レイプ描写のあるポルノグラフィを見ることが、実際にレイプすることに直結するとも考えない。
私は、法的にレイプ描写があるポルノグラフィを規制することには反対する。また、性暴力事件の加害者が、レイプ描写のポルノグラフィを持っていることを、加害の要因とすることにも反対する。しかし、私はレイプ描写のあるポルノグラフィを批判してはならない、とも思わない。
先に述べたように、レイプ描写のあるポルノグラフィは「被害者は最初は抵抗するが、レイプされるうちに快楽を得る。」というイデオロギーを持っている。これについては二点を指摘しておく。
(1)被害者は、レイプ被害中に快楽を得ることもあれば、得ないこともある
(2)レイプ被害中に快楽を得ることと、レイプ被害中に傷つくことは、両立する
まず一点目について述べる。レイプ被害者の中には、レイプ被害中に快楽を得た経験を持つ人がいる。その経験を否定することはできない。しかし、それは全ての被害者が持つ経験ではない。
次に二点目について述べる。レイプ被害中に、快楽を得ていたとしても、それはレイプによって傷つけられることはなかった、ということにはならない。快楽を加害者から押し付けられ、快楽をコントロールする力を踏みにじられたことによって、傷つけられるレイプ被害者がいる。また、「自分が快楽を得たこと」ことが、加害者を免罪することになるのではないか、と苦しむレイプ被害者がいる。また、今の社会情勢では、「レイプ被害中に快楽を得た」などと言えば、理解されないだろうと認識し*3、「誰にも言えない経験」として秘して生きていくレイプ被害者がいる。レイプ被害中に快楽を得たことに対する恥じや自責の念で苦しむ被害者もいる。
レイプ(に限らず、すべての暴力に言えることであろうが)の残酷さは、被害者の「私が私である」根幹を踏みにじることにある。それは、自分が生きていくことが肯定され、自分であることがゆるされている感覚である。そのとき、私たちは、「私は、私の快楽を得る」ことが可能だと実感できるだろう。それは、性的主体であるということだ。主体的なレイプ被害はない。加害者が、被害者の主体性を剥奪し支配することによって、意のままに性的欲望を満たすことが、レイプである。*4
レイプ中に、被害者は快楽を得るかもしれない。しかしそれは、加害者が、被害者を傷つけなかった、ということにはならない。むしろ、被害者に快楽を得させることは、レイプの中核的な暴力の象徴的なあらわれである。
以上のように、私が批判したいのは、「被害者は最初は抵抗するが、レイプされるうちに快楽を得る。」というイデオロギーである。それは、レイプ描写のあるポルノグラフィを法的に規制するのとは、別の位相の問題である。
かつて、共産主義は「赤狩り」によって取り締まられた。共産主義的とみなされた書物を所持するだけで、逮捕された。このような思想・信条の自由を侵す愚行を繰り返してはならない。しかし、同時に、「共産主義を批判してはならない」というわけでもない。共産主義の不備点や、共産主義によって引き起こされた失敗について、指摘することは重要である。また、指摘された側が、それに応答すること(いわゆる総括)は必要である。
同様に、レイプ描写のあるポルノグラフィの中の問題点を指摘し、レイプ描写のあるポルノグラフィを肯定する言説に応答を迫ることは、必要である。禁止できないことと、無批判であることは、まったく別物である。