なんで「これは性暴力だ」と思うのか

以下、これもメモです。

 私が、ずっと疑問に思っていることのうちの一つは、「性暴力で傷つく度合いは、個人差が異様に大きい」ということだ。

 一般的には、顔見知りよりも見ず知らずの他人から受けたレイプのほうが、タッチやオーラルセックスよりも挿入されるレイプのほうが、被害者を深く傷つけると思われやすい。実際、裁判でも、前者よりも後者のほうが、重い刑罰を科されることが多い。ところが、ちょっとした性暴力だと思われやすい、満員電車での痴漢を受けることで、深く傷つく被害者がいる。大変な性暴力だと思われやすい、ストリートレイプを受けても、人生にたいした影響を受けない被害者がいる。
 また、被害を受ける年齢が低いほど、深刻に傷つくと考えられることが多い。しかし、幼少時の被害がその後の被害者の人生与える影響が大きい、とは限らない。成人してからの被害であっても、その後の被害者の人生に与える影響が大きいことはよくある。ましてや、成人後の被害者の年齢が高いほど、被害が与える影響が小さいということはない。
 さまざまな被害があり、さまざまな被害者がいる。その被害内容や、被害者の年齢に、被害による傷つきの深さはある程度連関するかもしれない。だが、このような性暴力を分類するカテゴリーだけが傷つきの深さを決めるわけではない。

 ほかに考えられるのは、被害者の置かれた環境である。もともと経済的に苦しい状況にあった被害者が、被害にあうと、より困難な状況におかれやすい。また、男性やセクシュアルマイノリティなど、典型的な女性以外の被害者は、支援の資源が少なく、より困難な状況におかれやすい。また、差別や偏見もより一層強いため、二次被害にあいやすい。こうした、社会的な不平等が原因で、傷つきの深さは深まることはあるだろう。
 こうして、ある程度の性暴力に対する傷つきやすさは、社会的に構築されている。しかし、すべてを社会的な要素に還元することはできるのだろうか。

 私が考えたいのは、性暴力に対する「感性」の問題である。私はここで、「敏感さ(sensitivity)」や「傷つきやすさ(vulnerability)」という言葉ではなくて、「感性」という言葉を使う。私は「性暴力被害の感じ方は人それぞれ」と言いたいわけではない。むしろ、性暴力に対する感受性は人それぞれにも関わらず、「これは性暴力である」という感性がある、と考えたからだ。
 私たちは、どうしてその行為を「普通の性行為」ではなく「性暴力」であるとみなすのだろうか。たとえば、被害者にとっての「性暴力」が、加害者にとっては「普通の性行為」であることがある。この間の感性はどこで違い、どちらが正しいと判断されるのか。
 絶対的な「性暴力」の概念があり、それに類似するものを「性暴力」と認識するのだろうか。それでは、絶対的な「性暴力」とはいったいなにか。逆に、絶対に性暴力ではありえない、という「普通の性行為」はありえるのか。それは、もはや普通ではないのではないか。つまり、「普通の性行為」とは、常に「性暴力」である可能性を残した性行為ではないか。*1
 私たちは、それが「性暴力」であるかどうかは、感性的直観によって判断しているのではないか。つまり、「性暴力」の問題とは、実は感性学(美学)の問題ではないだろうか。というわけで、私は美学の話をしているのだろうか。*2

 ここまで。

*1:この議論は大澤真幸『自由の条件』の中で触れられている

*2:私は学部時代、美学を専攻していました。しかし、先生の言ってることは、ほとんど理解できず、惨憺たる成績で、「わっかんね〜」と言いながら卒業しました。だから、美学とか、避けたい。そして、私の知る限り、美学を専攻しても、性暴力の話が出てくる予感はしません。