雑誌「文学界」で、岡田利規(劇団「チェルフィッチュ」主宰)、前田司郎(劇団「五反田団主催)、三浦大輔(劇団「ポツドール」主宰)と、柳美里が座談会をしていた。題名は「新世代の超リアル演劇論」。”しんせだい””ちょうりある”復唱して、かなしくなった。
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- 発売日: 2007/09/07
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私が、どうしてもこの一群の、演劇の人たちに、えらく距離感を持っている。それは、「一緒にいても、私は話すことがないだろう」という興味のもてなさ、とも言っていい。繰り返し、「日常を表現する」ことを主張され、「俺たちのリアル」を語られても、「あたし、そんなことに、興味ないわあ」と心底思ってしまう。
この人たちは、宮台真司の「まったり革命」を本気で遂行してしまった感じがする。「淡々とした日常を繰り返す中にこそ、俺たちのサバイブがある!」みたいな。「退屈を生きろ!」とか、90年代の「ありのまま主義」が生きている。
まあ、そうやってやっていく人たちがいるのは、否定はしない。*1けれど、1973〜1977年生まれの彼らと、その次の世代の私は圧倒的に持っている、切羽詰りかたが違うように感じる。それは、私たちが、社会的経験として、バブルの崩壊や、阪神大震災・オウム真理教事件というカタストロフィーを10代前半に通過してきたことが理由かもしれない。また、自己責任論の洗礼を20歳前後で痛いほど浴び、「死の危機に面しても、誰も助けてはくれない」という切迫感を持って走ってきたせいかもしれない。*2この日常は、薄氷の上に建ち、私たちの基盤が崩れ去った後も、世界は私たちに味方しないだろう、という予感を持っている。
バーチャルの世界は、おそらく、私たちの世代の逃げ場にはならないだろう。なぜなら、バーチャルの側に行こうとしても、現実の側に残された私たちの肉体の生命の維持が、おびやかされるかもしれない恐怖が、ぬぐえないからだ。お金がなければ、現実の肉体が維持できない。そして、現実の肉体を維持するために働くには、バーチャルな世界で遊ぶ余裕すらない。バーチャルに飛び立とうとする私たちを、肉体が繋ぎとめる。どんなにオンラインゲームに熱中しようとも、「働けない私は生きていけるのだろうか」という問いは、忘れられるものではない。
結局、私にとって「超リアルな演劇論」を語る「新世代」の人たちは、能天気な勝ち組にみえてしまう。好きなことを仕事にして、自己表現ができて、こうやって有名になれる。その人たちの語る日常は、ある一定層の日常でしかない。だからこそ、私は前の記事(http://d.hatena.ne.jp/font-da/20070914/1189782829)で書いた、宮城聰の「演劇鑑賞を趣味にできる人間は恵まれている」という感覚こそ、共有しえると感じる。貧乏であっても、「この世界は明日も続くだろう」と信じ、自分の日常を肯定できることは、それだけで幸運な人生だ。
私は、「この世界を変えたい」と真顔で言える。きっと、この人たちは言わないだろう。そんなことは、ダサいからだ。自分でも陳腐だと思う。それでも、言わざるを得ないのは、私はすでに、私の肯定できる日常が、そうでない人たちを踏みつけてできあがっていることを知ってしまったからだ。「なんとなく思ったり」「肩の力を抜いて」生きていけるのは、「今日、いちにち生きていけるのだろうか」という恐怖とともに生きている人たちの上に成り立っていることを知ったからだ。「お前の日常の足元をみろ」と思うからだ。
それがエライだの、なんだのというわけではない。そうすべきだから、そうせざるをえない。私が言っているのは、新しいことでもなんでもなく、むしろ古臭い左翼の論理である。そして、そんな古臭い左翼とも、まともに闘えないであろう「新世代」には、私はほとんど興味をもてない。*3「俺たちのやりかた」を貫くならそれでいいと思う。そして「俺たち」の中で静かに流行って、静かにおさまっていけばいいと思う。