「SHOAH(ショアー)」

 数年前に、記憶と証言の問題に取り組みかけて、絶対に避けることのできない作品だとわかっていながら、入手できなかった。書き起こした本は読んだものの、やはり何がこの作品で起きているのかは絶対知るべきだと思った。同時に、なんとか観ないですませるならば、という気持ちもはっきりあった。
 この作品は、ナチスによるユダヤ人虐殺の証言を編集した映像である。撮影したのは、フランスの映画監督クローズド・ランズマン。フランス文化庁も出資したようだ。ポーランドのトレブリンカ収容所を中心に、生き延びたユダヤ人、元SS、ポーランド農民、ドイツ人入植者らが、ランズマンによるインタビューの中で証言している。映像は音楽もなく、ほんの少しの字幕による解説のほか、ナレーションもない。映し出されるのは、証言者の顔、現在の風景、雪に覆われて廃墟になった収容所の映像だ。
 日本では、ビデオもDVDも販売されていない。私の調べた限りでは、英語版はアメリカのアマゾンで買うことができるが、DVDプレイヤーとの対応が難しく、日本で観ることはできないことが多い。過去にNHKが放映した日本語版を、このたび、個人的に借りることができたので、私もやっと観ることができた。

 この作品を題材に、何本もの論文が出ているので、ある程度は知っているつもりだった。しかし、やはり予想を超えた作品だった。
 たとえば、高橋哲哉『証言のポリティクス』に収録されている論文では、床屋のボンバにまつわる議論が言及されている。これはボンバが、あまりにも辛い記憶を話そうとするのを、ランズマンが「話すべきだ」と促している場面が問題になった。無理矢理、トラウマに触れさせるのは、倫理的に問題がある、という批判が巻き起こった。それに対し、高橋は、ランズマンのインタビューを受けた時点で、ボンバはこのトラウマに触れる覚悟をしており、乗り越えるためには語る必要があり、ランズマンはそれを手助けした、という結論を出した。
 非常に難しい問題を孕んでいる。よく、トラウマを抱えた人への対人援助の技法では、「話したくない」という意志は最大限に尊重されるべきだとされている。*1しかし、ある一部の精神科医は「話させる」ことを面接場面の主目的に置こうとする*2。どちらにしろ、トラウマになっている出来事を言語化するというのは、大変な労力が必要だから、対人援助の中では、かなり配慮が必要となる。
 私自身は、援助者に対して、「話すこと」のカタルシスが、癒しにつながるという考えにはかなり懐疑的である。ランズマンは、フロイトの用語をもちいて、「話すこと」のカタルシス効果を肯定的に捉える発言をしていたので、このシーンを観るには勇気がいった。もしかすると、無理矢理に過去を暴き立てようとするランズマンの姿が映し出されるかもしれないと思ったからだ。
 しかし、実際に一本を通してみると、それは杞憂に過ぎなかった。この作品で、はっきりと打ち出されているのは、「真実の追究」である。ボンバは、癒しのために証言したのではない。「真実の追究」に貢献するため、もっと言えば、この世界にそのようなことがあることを、他者に知らしめるために証言したのだ。自分のために話したのではなく、他人のために話したのだ。その結果に、ボンバが癒えたのかどうかは、誰にもわからないが、ボンバの癒しは、この作品の証言には関係がないことだ。
 司法の場で裁ききれなかったもの、漏れ出てしまうもの、つまり正義を求める闘いで秘められてきたものが、「真実の探求」の中で存在が明らかにされる。
 ポーランド農民のユダヤ人差別、ポーランド人が搾取されてきた歴史、ユダヤ人の中の貧富の差、アウシュビッツ収容所の政治犯ユダヤ人の間の断絶、自国国家へのユダヤ人の渇望。剥き出しの悪意と差別が映し出される。誰もたいして悪くないけれど、それが巨悪になったとき、殺人工場が産まれる。まさに「ちっぽけな悪」がタペストリーのように織り上げられた。
 ランズマンは、自らのイデオロギーも隠さない。元SSへの追求は、老人の心を容赦なく傷つけただろう。ランズマンが歌を歌わせるシーンは悲惨だった。当時の軍歌を歌う元SSの振り絞った声と「もっと大きな声で」と追いつめるランズマン。「いい気味だ」とはとても思えない。私は、ランズマンの側にいるのか、元SSの側にいるのか、そして「やりすぎではないか?」とランズマンに対して思う私は、ショアーの何をしっているのか?

 およそ8時間半の作品を、4本の家庭用ビデオに録画したものを借りた。1本終わるたびにため息をつき、逃げ出したくなった。パートナーと共にみていたが、3本目に入るところで、些細なきっかけで言い争いをしてしまった。あまりにも、観るのが辛くて、お互いに気がたかぶっていたのだろう。 
 観るべき作品だ。日本語版のDVDが簡単に手にはいるようにすべきである。*3現在の、パレスチナ情勢を考えるにあたっても、なぜユダヤ人がイスラエル入植をしているのか、という問題に取り組むのに最適だ。ユダヤ人の排斥、ユダヤ人の絶望的状況が断片としてでも伝わってくる。
 蛇足だけれど、映像の編集も素晴らしかった。構成も計算され続けていた。始めに挿入される歌声は、最後まで耳に残った。どうしても、資料としてのみ扱われがちだけれど、この編集が8時間半という作品の長さを支える屋台骨になっていることは見落とさないでいたい。

*1:たぶん、今は主流になっている、はず。

*2:わりと多いかも知れない。「現場の知」として語られやすい。

*3:大学図書館には収蔵されていることもあるようです。