今年の五冊

 今年は少なめです。

卯月妙子人間仮免中

人間仮免中

人間仮免中

 漫画ですが、今年、一番衝撃を受けた本なので、あげておきます。
 作者の卯月妙子さんは、統合失調症を抱えた女性です。漫画を描いたり、強烈なAVやストリッピショーに出演したり、劇団でお芝居をしたりしていました。恋人が投身して看護したものの亡くなったり、閉鎖病棟に入院したりしてきました。そして36歳のときに、25歳年上のボビーに出会います。ボビーも強烈なキャラクターで、酒に酔っては暴れます。この作品は、主に二人の関係が描かれました。
 圧巻なのは、中盤の妄想を漫画にしたくだりです。卯月さんは、病気の悪化で、歩道橋から飛び降りて重傷を負います。その治療のために、一時的に、統合失調症の薬をやめなければなりませんでした。ベッドの上で、襲いかかってくる妄想と格闘する様子が描かれます。
 卯月さんは片目の視力を失っており、漫画を描くのは困難なはずでした。集中して創作する作業は、精神的にも負担で、薬の量も増え、部屋から出て来れなくなったこともあるそうです。もともと、漫画は「もう描けない」とやめたはずでした。その再開したきっかけもまた、強烈です。
 事故で顔を怪我した卯月さんが、初めてその顔を見たときのことです。卯月さんはこんな風に思いました。

「すげえ!!片目 骨ごとずれてる!!!人間の顔ってこんなふうにもなるんだ!!!鼻筋がなくなってる!!!顔面が平面だ!!!あああどうしよう!!すんげー描きたい!!!」
水木しげる大先生は片腕で漫画を描いてた おいら片目でも これ全部漫画にしたい」
「つーかこんな顔 世の中にあんまりいない!!!もうブスとかそういう範疇を超えて奇天烈だ!!!」

そして、一人になって、自分の片目がずれた顔を描いてみて「貰ったあああああ!!!!」と喜び、「おいらこのとき 地獄に落ちてもいいと思いました。」と振り返っています。
 自分の顔が変わってしまったのを見て、まず「漫画描こう」と思ってしまったら、もう描くしかないだろうと思います。病気でも、片目が見えなくても、そのタイミングで「描きたい」と思ったら。
 私がほかに好きな場面は、退院して、初めてボビーとセックスする場面です。顔の骨を元に治す手術をしても、「ブスになった」と感じている卯月さんが、ボビーが勃起したことで、「絶望せずにすんだ」と回想する、ある意味感動的な場面なんですが、「血圧高いからボビーが下」という手書きの注があったりして、今ひとつ感動し損ねます。そこがとてもよかったです。
 しかし、この漫画、私の親しい人は、全員買った勢いだったなあ……

上岡陽江+ダルク女性ハウス「生き延びるための犯罪(みち)」

生きのびるための犯罪 (よりみちパン! セ) (よりみちパン!セ)

生きのびるための犯罪 (よりみちパン! セ) (よりみちパン!セ)

 もう三回も通読したのに、手元になくて、詳しく紹介できない。とても残念である。
 薬物依存者のグループ「ダルク女性ハウス」の当事者による本だ。上岡さんは、女性の薬物依存者の背景には、暴力の被害経験や死に直面するような経験があり、トラウマの苦しみから抜け出そうと薬物を使っていくうちに、依存に陥るのだと示唆している。タイトルは強烈だが、「薬物を使うこと」は否定しても、「薬物を使って生き延びたこと」は否定しないという、自助グループらしいメッセージになっていると思う。
 中盤からは人権の話になる。「私は悪いことをしてきたから、人権なんかないんじゃないか?」と脅えているけれど、「じ・ん・け・ん・く・だ・さ・い」と言ってみたいという切ない話が出てくる。「違法薬物に依存してしまったら、生活保護は渡さない」という政治家の発言があった。もちろん、違法薬物は使わない方がいいだろう。でも、使ってしまった、としたら、とにかく働くのをやめて、治療に専念して生活保護で暮らす選択は、ほかの選択肢より悪いだろうか?本当は、違法薬物に頼らずに生きていけるほうがいい。そうするための、社会保障は、十分にあるとは言えない、と私は思っている。

山口智美・斉藤正美・荻上チキ「社会運動の戸惑い――フェミニズムの『失われた時代』と草の根保守運動」

社会運動の戸惑い: フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動

社会運動の戸惑い: フェミニズムの「失われた時代」と草の根保守運動

 
こちらも私の周りで局地的に流行った本。「1990年代末から男女共同参画にコミットしていたフェミニストたちの功績とは、いったい何であったのか」を問うています。その中で明らかになったのは、全国の地方自治体の男女共同参画の条例が、東京のフェミニスト中心のトップダウンで進められた側面があったことです。「揉める前に通してしまえ」という雰囲気が、フェミニストの中にあったのではないか、という指摘でもあります。
 こうしたフェミニストに反発したのが、草の根の保守運動家たちでした。地元密着型で、宗教の母体を持つ団体の人たちが、効果的な宣伝を打ち、「男性と女性は違う」「家族は大事だ」といった主張を通し、条例を変えたり、成立を阻止したりしました。この本では、筆者たちが保守運動家たちに話を聞き、「実際にはどんな人で、何を考えていたのかを」インタビューを通して明らかにします。中には統一教会の人もおり、危険視されている人たちへの聞き取りも行っていますが、先方が終始協力的だったことが強調されています。また、山口の宗教団体の調査で、信者さんたちとバーベキューをして一緒に食事をする中で、宗教体験の話を聞く場面があったり、喫茶店で保守の論客と話が盛り上がらない中、クロワッサンをつついてホイップクリームを分け合う場面があったりして、「過激なフェミニスト」と「危険な保守」が対面したときの雰囲気が、生き生きと伝わってきます。
 一番いいことは、読んでいて面白いことです。研究書ではあるのですが、これまで「男女共同参画って何?」「フェミニストって何をやってるの?」「保守派は意味がわからない」と思ってきた人たちが、とりあえず手に取って読み進めることができるようになっています。私は、いつもインタビューは資料から読むので、二章から読みました*1。読み物としてもオススメです。
 この本については、私の方からは、読後に疑問があったので、関西で開かれた読書会に参加して質問してみました。まず一つ目は、現在のフェミニズムで明確に功績が認められている分野が、DV被害者支援です。その点について言及がなかったことは違和感が残りました。それに続く二つ目として、この本では男女共同参画の取り組みや資料室の設置に疑問が投げかけられているのですが、個々人の経験としては「男女共同参画の講座を受けて、自分のDV被害に気づくことができた」「資料室に通って本を読むことが、自分の人生を変えるきっかけになった」という語りがポツポツあります。そのことをどう考えるのかということが気になりました。この二点については、もちろん、個々人の体験としてはそういうことがあることはわかっているし、DV被害者支援については言及できていないという趣旨の著者からのレスポンスをもらいました。その上で、現在行われている行政主導のDV被害者支援は、ほかの企画よりは予算がつくものの現場の支援者にお金が充分に給与として支払われていないことや、こちらもトップダウン方式で支援制度が作られていくことへの懸念があるという話になりました。
 こうした行政と社会運動の問題は、フェミニズムだけで起きているわけではありません。「社会を変えたい」と思うときに、行政に入っていき、条例を作っていくのは一つの重要な戦略です。ほかの社会運動に関わった人とも、意見を交換したいと思うような、本でした。

松本俊彦「アディクションとしての自傷――『故意に自分の健康を害する』行動の精神病理」

アディクションとしての自傷‐「故意に自分の健康を害する」行動の精神病理‐

アディクションとしての自傷‐「故意に自分の健康を害する」行動の精神病理‐

 松本さんは、精神科医として自傷する若者に数多く出会ってきた。支援者の中で、自傷する人たちは評判が悪い。「リストカットするなら、診察しません」という治療者もいるという。「他人の気を引きたがっているだから、無視すれば良い」という言説も根強くある。
 松本さんが、この本で述べているのは、「自傷と加害はコインの両面だ」ということだ。少年鑑別所に入所している女性の60パーセントあまりが自傷しているという(8ページ)。松本さんは、ある女性のエピソードを引いている。

(前略)少年鑑別所で出会った自傷経験を持つ少女の一人は、私にこんな話をした。
「その昔、年の離れた兄から、暴力で脅されて性行為を強要されていた時期があった。両親は気づいてくれなかった。というか、本当は見て見ぬふりだった。学校ではみんなにいじめられていたけど、今度は先生が見て見ぬふりをした。とにかく生きているのがつだくて、それを誰かに気づいて欲しくて教室のみんなの前で、カッターで自分の腕を切った。そしたら大騒ぎになって、先生たちから怒られた。親も呼び出されて、父から思いっきり殴られた。そのとき、もう絶対に誰も信じないと誓った」。
 この挿話に、自傷行為が意味するものが隠されている。喫煙、飲酒、薬物乱用、拒食、過食……。自傷行為は危険な性交渉とも関係がある。自傷する若者たちは、自分を大事に思えず、自分には価値がない、消えてしまいたいと感じながら、自己破壊的行動をくりかえしている。誰も助けてはくれないし、誰も信じられない。自分の心の痛みは、自分で何とかしなければならない。そう信じている。
(中略)
 そもそも解離状態自傷する者は、有形無形の暴力・支配・束縛を生き残るために自分の心の痛みに鈍感にならざるをえなかった人たちである。それを圧倒的なパワーで抑え込み、自傷の持つ感情表現を無視すれば、どうであろうか?おそらく心を堅く閉ざすだけだ。後は、他社との交通が遮断された内閉的生活の中で、次第に他人の心の痛みにも鈍感になっていくであろう。その弊害はまちがいなく社会にはね返ってくる。
 先ほど触れた少年鑑別所の少女は、大人たちに失望してから、腕を切るのをぴたりと止めたという。その後まもなく、彼女は不良少年たちと謀って援助交際を装った恐喝をくりかえすようになり、結局、少年鑑別所に来ることになった。彼女が街で男性を誘ってホテルへ行くと、仲間の男性数名がホテルの部屋に登場し、男性を脅して金を巻き上げるという手口である。彼女は語った。「恐怖に脅えた男たちが土下座して、涙を流しながら有り金を全部くれる姿をみるのが快感だった」。めずらしい話ではない。
(8〜11ページ)

こうして、松本さんは自傷を「感情表現」だとみなし、それができくなると、自分を守るために、自分の痛みだけではなく、他人の痛みまで感じないようにして、結果的に他害行動をするようになることを示唆している。そのため、自傷行為があるならば、無視するのではなく、注目して問題化したほうがよいと、精神医療の立場から提起している。
 また、松本さんは少年施設男子入所者に、相当数の性的被害の経験者がいることを明らかにしようとしている。被害経験のある少年が、加害者に転じて、収容されているケースへの対応は、今の少年施設では現場の担当者の頑張りに一任されている。これから、重要な問題となるだろう。

駒村吉重「君は隅田川に消えたのか――藤牧義夫と版画の虚実」

君は隅田川に消えたのか -藤牧義夫と版画の虚実

君は隅田川に消えたのか -藤牧義夫と版画の虚実

 藤牧義夫は、天才的な版画家であったが、1935年に24歳で失踪した。貧困に喘ぎ、創作に行き詰まって絶望し、暗い隅田川に身を投げたのだ、というのが定番の評伝であった。ところが、調べてみると、藤牧の評伝には膨大な嘘があることがわかった。残された作品の多くは贋作であり、そもそも貧困に喘いでいたのかも怪しい。亡くなる寸前に遺した作品は、長大な隅田川の岸壁を描いた絵巻物で、正確な描写がすばらしい。とても絶望していた作家の作品とは思えないのだ。
 この本は、著者の駒村さんが、膨大な資料を探し出し、画家や画廊主をインタビューする中で、藤牧の謎を解いていく、ミステリー仕立てのルポルタージュである。その中では、1930年代の左翼芸術家の苦闘や、画廊経営のエピソードが挟まれる。そして、藤牧を追っていくと、国柱会という「八紘一宇」を標榜した右翼団体に傾倒していたことがわかっていくのである。
 私は版画にはさっぱり興味がなかったのだが、三月に鎌倉を訪れた際、この藤牧の版画展が開催されていた。タイトルに惹かれて買ったのだが、意外と面白かった。

*1:ちなみに一章は、英語が苦手な私には耳の痛い章でもありました。