【震災】災害時に起きる暴力について

 共生ネットが出した要望者が議論になっている。これは、セクシュアルマイノリティに対する、災害時の対応への配慮を求めたものだ。id:odanakanaokiさんが、時期尚早な要望であり、逆に切迫した現地では贅沢として受け取られ、セクシュアルマイノリティへの苛立ち・嫌悪につながるとしている。そして戦略として失敗だったという。それに対し、「被災地のLGBTが望むこと」*1を共生ネットとは別に作ってきたマサキさんは、odanakanaokiさんと同じ懸念を示しつつ、セクシュアルマイノリティの要望を「贅沢」であり余裕がない時に切り捨てるというのは、まさにヘテロセクシズムによるマイノリティの周縁化であることを指摘している。

odanakanaoki「【3/21】タイミングの大切さについて。」
http://d.hatena.ne.jp/odanakanaoki/20110322#p1

odanakanaoki「【3/25】『疑似インテリゲンチャ』またはハンパな全能感の哀しみ。」
http://d.hatena.ne.jp/odanakanaoki/20110327#p1

マサキ「共生ネットによる『セクシュアル・マイノリティへの対応に関する要望書』およびそれにまつわる議論について」
http://kleinb3.wordpress.com/2011/03/26/kyosei-net-yobosho/

今回、多くの団体が要望書を出している。障害者団体、女性団体も出した。私も、性暴力被害者支援団体の、性暴力を防ぐための要望書にサインしている。

「(緊急アピール)災害時性暴力被害への対策を求めます」
http://blog.goo.ne.jp/rc-net/e/642eb94c8a0f6b3b9a81f3a218ea6b6a

これらの要望書が、タイミングによっては現地の状況を知らない外部からの「贅沢」な要求だとみなされることはあるだろう。それに対する議論の余地はあると思う。
 それよりも私が引っかかっているのはodanakanaokiさんの次の書き方だ。

 某某ネットワーク(引用者註:共生ネットのこと)の提言が戦時・戦後にはマイナスであるというぼくの判断を批判するのであれば、
・べつのところでは、同ネットワークが懸念している事態が生じている。
・理論的・統計的・あるいは歴史的なツールをもちいて分析検討すると、この手の提言は、一刻も早くなされるべきことがわかる。
の、どちらかを示す必要がある。このうち前者は、別の現場の事例を示すわけだから、いわば「虫の目」スタンスといってよいだろう。これに対して後者は、個々の現場の事例を一段高いところから俯瞰し、さまざまな手法を利用し、根拠を明示して秩序立てるわけだから、いわば「鳥の目」スタンスといってよいだろう。
(略)
もしも(引用者註:批判者のとるスタンスが)「虫の目」であれば、福島or別の被災地で震災後に性的少数者迫害が生じていなければならないが、ぼくは、そんな事態は寡聞にして知らない。もちろん、これは、ぼくの無知のなせるわざかもしれないが、いちおう新聞は読み、ラジオは聞いてるので、そんなことはなかったと考えても許されるだろう。
http://d.hatena.ne.jp/odanakanaoki/20110327#p1

 16年前の阪神淡路大震災のとき、災害時性暴力は多発したのか?それは急性期と呼ばれる災害発生から72時間以内や、その後の避難所生活、それ以降のいつ多かったのだろうか。警察発表では災害時性暴力はゼロである。新聞にもラジオにも出ていない。では、災害時性暴力は発生しなかったのか。支援に当たった人たちの中から、「災害時性暴力は発生していたが、警察に受理されなかった」「避難所生活でレイプや子どもたちに対するわいせつ行為が多発しなかったが、被害が訴えられなかった」そういった声が出てくる。事実なのか?検証はされていない。では、デマなのか?よく考えて欲しい。16年前、性暴力被害者を取り巻く状況はさらに厳しかった。警察に行ってまともな対応など受けられただろうか?支援団体なんてどこにあるか知られていたのだろうか?パープルダイヤルだってなかった。
 私は神戸で育ち、16年前は12歳で何ひとつ助けられないままサンテレビ*2を見続け、18歳までいわゆる「被災者」と呼ばれる大人や同級生と暮らした。語られることは多くなかった。切れ切れに聞こえてくる「被災地」の状況。災害発生後に、同級生の人間観を変えてしまうようなできごとがあったらしいこと。復興していく中、街の雰囲気が荒れていること。はっきりと輪郭を持った被災体験は私にはまったくなく、自分が被災者だと思ったこともないが、自分の隣に「震災」があった。そのなかで、性暴力被害の話は聞いたことがない。あったともなかったとも語られない。沈黙である。
 性暴力被害者のかかわりの中で、その沈黙は慣れ親しんだものである。「あの人実はね・・・」というひそひそ話。明るい場所では語られないから、新聞にもテレビにも出ず、「めったにない究極の悲劇」のように扱われる。いつも語られないものが、災害時に語られるわけもないのだ。
 性的少数者への迫害もそうではないのか?普段の新聞やラジオで、性的少数者への迫害が報道されることがあるだろうか?たとえば、私は性的少数者であることを理由にした不当解雇の裁判の傍聴に行ったことがある。解雇は不当であったし、雇用者は和解に応じ、解決金が支払われた。だが、そのニュースは新聞やラジオに流れなかった。だけど、迫害がなかったわけではない。平時だって、流れないニュースが災害時に流れるだろうか。
 もちろん、被災者とそうでない人の温度差は大きい。だけど、セクシュアルマイノリティとそうでない人の温度差も大きい。被災地のインテリゲンチャと被災地のセクシュアルマイノリティとの温度差も大きいだろう。たぶん、必死で要望書を作り、時宜を誤って送ってしまった(とodanakanaokiさんに見られるような)人たちは、この被災地のインテリゲンチャと被災地のセクシュアルマイノリティとの温度差を懸念していたのだろう。セクシュアルマイノリティ支援をしている人たちは、ニュースで報道されないくらいで、性的少数者迫害がなかったとは思えないような目でこの社会を見ている。それが「鳥の目」だか「虫の目」だかはわからないけど。
 odanakanaokiさんは、人文系インテリゲンチャは「鳥の目」を持てという。ならば、平時の社会情勢を鑑みて、現況で自らが性的少数者迫害の有無を把握できるのかということを、問うべきではないだろうか。そして、こうして緊急時のセクシュアルマイノリティの要望を「贅沢」扱いした人に、これから先、性的少数者迫害にあった人が、ニュースで語られない言として語る人があるだろうか――たぶん、いない。また、本当にいま、自分の要望は贅沢であると耐え忍んでいる人も、災害が落ち着き(かれのいうところの)「復興期」にodanakanaokiさんにそのつらさを語るだろうか――たぶん、語らない。そして、odanakanaokiさんは、「緊急時に性的少数者迫害はなかった」という事実を生きるのだろうな、と私は予測する。一応人文系インテリゲンチャとして私もよき将来への提言として次をいう。
「今、語られないものを、ないものとするな」
私が一番謎なのは、「なぜ歴史学者(しかもそれでご飯食べてる人)に、人文だか社会学だかわかんない混沌の中で修士論文書いてる私が、こんな提言しているのだろうか」ということだが。ちなみに「戦時」という言葉を用いるのをみて、私が最初に想起したのは「戦時性暴力」という言葉である。もちろん、戦後も復興期も性暴力はあった。しかしもっとも不問にされてきたのが、戦時性暴力である。別に人文系の理論やら何やらを紐解かなくても、もと「慰安婦」の人たちの言葉の端々から、語られない過去をないことにする暴力がどういうことかは、伝わってくる。鳥の目でも虫の目でもいいが、性的少数者の迫害について「そんなことはなかったと考え」ることは、私は許されないと思う。

*1:http://w.livedoor.jp/saigai_lgbt/

*2:神戸のローカル放送