他人と暮らす、ということ

 京都のギークハウス立ち上げプロジェクトの見通しがたったとのことです。

ギークハウス京都の見通しについて」
http://ghp.g.hatena.ne.jp/technac/20100124/1264321008

ギークとは何か」ということは、私にもあまりよくわかっていませんが「コンピューターに詳しい人々」というような意味らしいです。東京でid:phaさんが一年半前くらい立ち上げた「ギークハウス」が始まりです。

ギークハウスとはウェブ系のエンジニアとかクリエイターとかそういう人がルームシェアとかして集まって住んだら面白いんじゃないかなーという企画です。普通に暮らしながらいろいろ喋ったり技術書の共有をしたり、ときどき開発会などのイベントをやったりしています。
ギークハウスプロジェクト」
http://ghp.g.hatena.ne.jp/

私は、phaさんのギークハウスを作るにいたった考え方が、とても面白いと思っています。

ギークハウスを作った理由」
http://d.hatena.ne.jp/pha/20091230/1262169629

phaさんは、「定職」や「保証人」がなければ、家を借りられない日本の不動産システムに不満があったといいます。また、入居にまとまった資金が必要なことの問題も指摘しています。phaさん自身も無職です。さらに一年に一度は転居しながら暮らしたい、と考えていたので、一ヶ月のデポジットのみで借りられるゲストハウスを転々としていたそうです。そして、「ただのゲストハウスじゃなくて、ある程度趣味や興味が重なる人が集まっていて一緒に遊べるようなシェアハウスに住みたい」と思い至りました。
 よく指摘されることですが、日本の不動産システムは、典型的”家族”像を前提として作られています。それは、「夫―妻―子」を核とした家族制度です。このシステムは、人々に「一人暮らし」か「家族で暮らす」か、という二択を迫ります。仮に異性が同居している場合は、恋愛関係であるとみなされ、同性が同居している場合は友人関係であるとみなされます。そして、社会的信頼を一番よく得られるのは「法的婚姻カップルとその子」です。つまり、不動産システム自体が、「異性愛者で典型的”家族”を作る人」以外を排除するようなシステムになっているのです。
 一方で、日本でも「シェアハウジング」をする若者たちが取り上げられるようになりました。次のような本も刊行されています。

他人と暮らす若者たち (集英社新書)

他人と暮らす若者たち (集英社新書)

久保田さんは、この本の冒頭でこう述べています。

 最近では日本でも「ルームシェア」「シェアハウジング」などという言葉を耳にするようになってきた。家族でも恋人でもない他人との共同生活のことである。それも、実家から離れて暮らす兄弟姉妹が文句を言いつつ一緒に暮らすイメージでもなければ、学生寮の一室の二段ベッド二台で貧乏学生四人が汚れた洗濯物に埋もれて生活するイメージでもない。それぞれが仕事を持った男女が、都市部の広々としたデザイナーズマンションで、気楽に程よい距離で、プライバシーを保ちながら、しかし助け合いながら共に生活するイメージだ。
 もちろんこれは一九九〇年代以降に日本で放送され好評を博した「ビバリーヒルズ高校白書/青春白書」(FOX:一九九〇―二〇〇〇)や「アリー・myラブ」(FOX:一九九四―二〇〇四)といった海外ドラマの影響と、それに合わせて日本の新聞や雑誌が取り上げてきた一握りのシェアハウジングのイメージであり、現実がこのとおりだとは考えにくい。実際の数はまだ少ないことは想像がつくし、私生活に関わることだけに、統計などからハッキリとしたことがいえるまでには当分時間がかかるだろう。
 それでもなお、「シェアハウジング」という言葉さえ知らない人が多かった時代から比べれば、また「他人と住むなんてとんでもない!」という時代に比べれば、他人と住居を共にすることは、ずっとハードルの低いものになり、ポジティブな意味を持つようになってきた。たとえば、独立行政法人都市再生機構(UR都市機構)では、二〇〇四年一〇月から、友人同士など、家族ではない単身者たちによる「ハウスシェアリング」を一部の住宅で導入した。民間でも、都市部を中心に、賃貸住宅情報のなかに「友人同士可能」「シェア可能」という物件がみられるようになってきている。もちろん、この背景には借り手がいないマンションを遊ばせておくよりはという不動産業界の思惑もあるだろうが、シェアハウジングのイメージの転換と広がりなくてしては難しかっただろう。
(12〜13ページ)

久保田さんは、上の本で、インタビュー調査を行い、シェアハウジングの実態を明らかにし、「家族」か「一人暮らしか」かの選択を超えた、第三の道としてシェアハウジングを描こうとしていています。そこで協調されるのは、「家族と暮らす」ことと、「他人と暮らす」こととに、明確な差はないということです。「他人と暮らす」ことに付随する共同生活の厄介さは、「家族と暮らす」ことにも付随するものです。「家族なら安心、他人なら危険」という幻想を崩すことに、この本の狙いがあります。
 結論部で久保田さんは、「他人と暮らすことは他人と生きること」なのだと言います。

 どれほど一人の世界に引きこもっても、家族のなかに閉じこもっても、生きていくうえでは、結局のところ異質な他者といつかどこかで接しなければならない。だとすれば、衝突しない他人を探し求めるのではなく、なるべく他人を避けて生きるのでもなく、どうやって他人とうまく衝突するか、いかに円滑に衝突するかを考える必要がある。
 こんなふうに考えてみると、一人の人間が、家族のなかで生まれ育ち、家を出て自分の家族を形作るまでの間に、身近な生活をめぐって対等な他人とぶつかり、共に考え、話し合う機会があまりにも少ないことに気付かされる。家庭・学校・企業などにおけるような役割関係から離れて、対等な市民として他人と衝突しながら、自分の価値観を相対化し、そのうえで協力し合うという訓練の機会を、日本社会は制度的に欠いているのではないかと思えてならない。
 それゆえ、家族中心の福祉が立ちゆかなくなってきた現在、私たちは家族の価値や役割へと回帰するか、社会的に孤立するかの選択を余儀なくされているのではないだろうか。
 もちろん、本書でみてきたのは、シェアという、ささやかな生活上の工夫の一つにすぎない。しかし、一つ屋根の下でいかにして共に暮らすかということは、一つの地域で、一つの都市で、一つの国でいかに共生できるかという大きな問いへとつながっていくのである。
(187〜188ページ)

久保田さんは、この後、シェアハウジングの運営を通して民主主義的な決定のやり方を訓練することができると述べています。若者の自立が親に任せられている日本の現状では、住宅費が払えない若者を扶養するのも親の役割です。若者は、出て行こうにも、経済的理由から親元を離れられず、自立することができないのだと論じています。そこで、共同生活ができる制度を、国家が整えていく必要があるのだ、と結論付けます。
 私もまた、親に子どもを自立させる経済的責任が負わせられる現状が、若者の自立を阻んでいるという議論にはある程度賛成します。多くの若者が、低賃金で労働しており、一人暮らしができないという理由で、親元で暮らしています。そして、当人も家族も、同居を望んでいない場合があります。高収入でなくても、安定して暮らすことのできる制度は必要ですし、その選択肢に共同生活は含まれると思います。
 その上で、二点の批判があります。一点目は久保田さんの結論が、「過渡的な共同生活のみを認める」という点に落とし込んでいることです。これでは、「自立を終えた若者たちは、最終的に家族で暮らす」ということであれば、”家族”像の固定化が維持されてしまいます。「若者が年をとり、壮年期を迎えてなお持続的に共同生活を営むこと」、もしくは「若者でない者が共同生活を始めること」に対してもまた、制度的な改変・保証が必要ではないかということです。
 二点目は、共同生活の中で起きる感情的ないざこざをどうするのか、という点です。久保田さんは、そうしたいざこざは、家族の中でも起きることであり、他人と暮らすことだけが問題ではない、と強調します。だからこそ、家族でなくても「親密な関係における暴力」は起きる点を見逃してはならないと思います。現在、家族の「親密な関係における暴力」はDV法を始め、問題化され、防止のための法制化や支援が整備され始めています。ですが、「友人同士の暴力」は、いまだに「たかだか喧嘩」として不当に軽んじて扱われています。友人同士での性暴力(同性間含む)に対して、警察や法務家の対応はひどい状態です。もちろん「家族だから安心、他人だから危険」だということではなく、「家族でも危険、他人でも危険」だということです。「誰かと暮らすということ」は、相手が家族だろうが他人だろうが、面白いことでもあり危険なことでもあります。
 もう少し言えば、シェアハウスにおいても、「最低限の自立」は必要になってくると思います。たとえば、ある男性は住むところもなく、マクドナルドで知らない人に声をかけ、その人たちのところを転々とします。ギークハウスのphaさんのところにもくるが、入居を断られます。その顛末がブログ記事になっています。

ネットカフェ難民にもなれなかった男の末路」
http://itkz.blogspot.com/2008/11/blog-post_7944.html
「荻野はコンテンツとしてとても面白かった」
http://d.hatena.ne.jp/pha/20081119/1227040596

この男性は、極度にコミュニケーションに困難を抱えていて、就労は難しいし、他人と親密な関係を作ることにも失敗しています。ここで、糸柳さんやphaさんの対応や、その後の記事の書き口などに関しては、ひとまずおいておきます。なんにせよ、糸柳さんやphaさんも、可能ならばシェアハウスにこの男性を迎えるつもりでした。しかし、共同生活は無理だと判断されています。一言でいえば、「受け入れることができなかった」ということです。そのとき基準になったのは、社会的な就労状況や個人の出自、所属に関するものではありませんでした。受け入れる、受け入れないの条件は、箇条書きできるものではありません。あらかじめ、話し合って決めておくことのできるものでもありません。こうした民主主義的に解決できない、感情的な問題は、「他人と生きる」というのならば生まれます。そこに焦点を当てる必要があるのではないか、と思いました。


 私の個人的な体験ですが、友人の家に転がり込んで7畳一間で三人暮らしをしたことがあります。私は、もう人生の先が真っ暗でどうしようもなくて、三人はそれぞれにバイトに行き*1、思い思いにご飯を作って食べ、床で寝ました。それで、三人でラノベ*2を共同執筆しました。3〜4ヶ月くらいでしょうか。50代の女性にこの暮らし方はおかしいといわれたときに、苦し紛れに「コレクティブな生き方やねん、ほらリブセンみたいな」と言うと、「いくらなんでもそれは古いやろ」と言われました。

リブ新宿センター資料集成

リブ新宿センター資料集成

でも、田中美津もいつかどこかで、「生活苦で始めた共同生活だけど、『コレクティブだ』というと新しい試みとして取り上げられた」と笑い話としていっていたので、そんなもんかもしれないです。また、持続的な共同生活については、栗原奈名子監督の「ルッキング・フォー・フミコ 女たちの自分探し」に、当時も共同生活を続けるリブの女たちの映像がありました。1993年の作品なので、現在彼女たちがどうされているのか、私はわからないのですが……

*1:というのは半分うそで、家主の友人は超ハードなサビ残しまくりの会社の社員で、養ってくれました

*2:タイトルは「少女漫画バカ一代」で、目利きの少女マンガ読みと、その彼氏、熟年コスプレイヤー、バスケット少年の4人がパラレルワールドにスリップして冒険するという、ファンタジー小説です。私の行き詰まり感が漂ってきます。