保育の現場の状況をどう考えるのか

 前回の記事*1で、週刊ダイヤモンド鈴木亘さんがコメントしている件を取り上げた。鈴木さん自らが、ブログで雑誌記事の補足を書いているので、紹介する。

週刊ダイヤモンドの保育記事を考える(上) 」
http://blogs.yahoo.co.jp/kqsmr859/30365150.html
週刊ダイヤモンドの保育記事を考える(下) 」
http://blogs.yahoo.co.jp/kqsmr859/30365160.html

 鈴木さんは、「限られた保育のための予算を、いかに分配するのか」という問いをたてる。現行制度では、認可保育所にあまりにも多くの予算がつぎ込まれているため、無認可保育所が干上がってしまう状態にあると、鈴木さんは言う。そこで、認可保育所に割いている予算を減らし、無認可保育所へまわすのだ。認可保育所の言い分は、「そうすれば無認可保育所は増えるかもしれないが、保育の質が低下してしまう」というものである。だが、鈴木さんは、「認可保育所はこれまで利権を独り占めしていたため、過剰な賃金を得ていた。その既得権益を守ろうとしているだけだ」という。
 鈴木さんは、付け加えて三つの論点をフォローしている。
(1)認可保育所には、公立保育所と私立保育所がある。私立保育所の場合は、年功序列に伴う賃金支払いが不可能になるため、保育士は二十代前半で退職のプレッシャーをかけられる。そのことにより、公立保育所のような高賃金化が起きず、経営状態は健全に保たれている。
(2)地方の保育所の都市の保育所では、状況が異なる。東京都23区を筆頭に、都市部の認可保育所に対する補助金が異常に高い。地方では、補助金に頼らず苦しい中で経営している保育所が多い。
(3)正規雇用・非正規雇用の間の格差が大きい。とりわけ、公立保育所の非正規雇用者については、低賃金が問題となる。また、賃金制度が変更され、若年層の保育士の賃金は抑えられ、適正である。


 まず、鈴木さんの指摘する(1)の点について述べる。日本における女性の働き方の特徴は、M字型曲線と呼ばれている。二十代後半から女性は退職し始め、三十代前半で大きく落ち込む。そして、四十代からパートタイム労働など非正規雇用者として復職し、また女性労働者数は増えるのだ。だから、女性が若年層で退職することは、保育の現場の特質ではない。鈴木さんが紹介している内閣府調査でも、保育士総数のうち、男性は1・5パーセントである。保育士は圧倒的に女性が多い。私立保育所における女性の若年者の退職は、補助金の問題よりも、M字型曲線の影響のほうが大きいのではないか。また、公立保育所で若年者の退職が少ないのは、産休・育休、時短労働制度などの福利厚生が充実しているという理由が考えられないか。要するに、この問題は、補助金の増減ではなく、女性労働者への保障として、認可・無認可にかかわらず一元的に考えるべきだということだ。
 次に(2)について述べる。この問題は、地方と都市部の行政方針ではなく、経済格差として考えるべきではないか。地方は、保育に補助金を出さないのではない。どの部門にも十分に出すお金がなく、保育の補助金も同じく予算不足の影響を被っているにすぎない。仮に、東京都23区が余るほどの予算を持っているというのならば、無認可保育所ではなく、地方の保育の補助金にまわすべきではないのか。これは、地方分権が保育と言う部門に関して、うまくまわっていない、という問題ではないのか。
 最後に(3)について述べる。鈴木さんは、非正規雇用や若年の保育士の賃金は、適正もしくは不当に低いと考えている。では、適正な賃金とはどうやって算出すべきなのだろうか。たとえば、鈴木さんは「東京都各区の0歳児1人当たりにかかっている保育運営費平均が月50万円程度である」と言う。「高すぎる例」として出されている。しかし、0歳児の子どもを育てるコストとしては、高いのだろうか、安いのだろうか。過去、女性たちは無賃金でこの育児労働を担ってきた。だが、生まれて1年にも満たない子どもたちをケアする労働強度は、低くないだろう。

 鈴木さんの大前提にあるのは「限られた予算」である。しかし、なぜ「限る」のかが、私にはわからない。たとえば、鈴木さんは以下のように言う。

認可保育所の利権保持は、苦しい財政状況の中では、待機児問題の解決を、これまで同様、延々と放置・先送りさせることになる。これは、彼等に悪意があるかないかという問題ではない。例えば、限られた予算の中で運営されている生活保護制度では、母子加算の復活や医療扶助費への寛大すぎる支出をすると、予算不足の中、「水際作戦」と呼ばれる厳しい審査が起きて、本来、生活保護を受けるべきワーキングプアやホームレスが生活保護を受けられなくなるという事態となっている。母子加算の復活や医療扶助の潤沢な支出は、決して当人達に悪意あることではないが、結果として、かわいそうな人をさらにかわいそうな状況に追い込むのである。保育制度では、「質を保て」と署名活動にいそしむ認可保育所の親たちに決して悪意があるわけではないが、質に伴う莫大な補助金認可保育所の利権を守ることにより、結果として、かわいそうな待機児童の母親達に犠牲を迫ることになっているのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/kqsmr859/30365150.html

鈴木さんはこのような記述を露悪的に書いているのだろうか。福祉制度は「かわいそうな人」を救うためにあるのではない。必要なお金がない人に、行政が分配するだけの話だ。予算が足りないのは、予算の限り方が間違っているからだ。人が人を育てるコストを節約すること自体、本来は不可能である。その不可能を現場に押し付け、「この予算でやってくれ」と迫るから、歪みが起きる。そもそも「限られた予算」という概念そのものが、こうした各保育所の格差を生んでいる。しかし、やはり実際上は、予算を限るしかない。発想を逆にすべきだと思う。「限られた予算をいかに分配するか」ではない。「分配に必要な予算をいかに限るのか」である。先にニーズがあり、それを満たすために、必要なコストを算出するのである。
 先に、貧困に陥る母子家庭や、医療のサービスが受けられない生活保護者がいる。そこで、必要なコストが算出される。足りないのであれば、用意すべき予算を増やすしかない。その負担を誰がどのように負うのかについて、考える。私たち一人一人が迫られべき問題である。なぜなら、彼らをかわいそうな目にあわせているのは、不十分な社会保障しか用意しなかった私たちだからである。
 同じく、保育についても考えるべきだろう。これまで、認可保育所にしか補助金がおりてこなかった。さらには、女性若年労働者の退職、地方都市の格差、非正規雇用者の貧困の問題もある。保育の現場にはお金が足りないのだ。もし、新たに予算を投入しなければ、「保育の質」は低下する。もしかすると、「かわいそうな待機児童の母親達」は救われるかもしれない。だが、今度犠牲になるのは、子どもたち自身である。これからの子どもたちが育つための環境を犠牲にし、私たちは何にコストをかけようとしているのか。ここで節約されたお金を、何に使うつもりなのか。よく考えたほうがいい問題だと思う。