「殺すな!」の空虚さについて
パレスチナの問題について、id:mojimojiさんとid:hokusyuさんが議論している。
hokusyu「「決断」の暴力に抗する」
mojimoji「「決断」の暴力に抗するからこそ、こう述べている」
そこで、hokusyuさんが普遍的理念の空虚さについて次のように指摘している。
あるいは、小田実の「殺すな!」はなぜ普遍的な理念たりえたかというと、そのスローガンは彼のベトナム戦争反対運動に対する徹底的なコミットと日本国憲法のラディカルな読解による「政治的」産物に他ならないからであって、たとえば、文脈背景は分からないがとにかく殺し合いをやめよというような*2空虚な「殺すな!」ではない。ぼくには、mojimojiさんが行っている「シオニストと交渉せよ」という主張は、この空虚な「殺すな!」に接続しかねない危うさを持っていると思います。
(http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20090309/p1)
ご存じの方も多いだろううが、1967年にべ平連がワシントンポストに広告を出した。「殺すな」とは、そこに書かれていたメッセージである。
この文字を書いたのは、岡本太郎だ。hokusyuさんは「小田実の「殺すな!」」と上記に書き、そのメッセージは「「政治的」産物に他ならない」としている。しかし、グループで出されたメッセージであるため、発案者ははっきりとはわからない。web上には「この短くて強いインパクトを持つメッセージは「おそらく鶴見俊輔だったように思う(吉川勇一氏)」とのこと」との記述も見られる。*1また、岡本太郎のパートナーであった岡本敏子は、このメッセージについて、以下のように回想している。
――戦争自体について、岡本太郎さんは直接にはどういう姿勢だったのでしょう。
岡本敏子 それはもう、はっきりしてましたよ、「殺すな」ですから。でも、政治的立場からというのではなくて、人間として怒っていたのですね。例えば、『眼 美しく怒れ』という本(チクマ秀版社、98年刊)では、六五年八月の佐藤栄作首相の沖縄訪問について、佐藤氏が県民のデモに囲まれて米軍基地に逃げ込んだことをとても強く批判しています。「たかが一夜の安眠ぐらい、どうでもいいではないか。本当の人間的な肉体と精神のぶつかりあいを、さけてしまうのが官僚政治のきたなさなのだ。……その程度の勇気と情熱さえもたない者に、一国のリーダーの資格はない」って書いてます。しかも「翌日、ワトソン高等弁務官に『……おかげで静かな環境で安眠(沖縄全島が安眠できなかったこの夜に!)の時間を与えられたことを感謝している。この旨を米本国政府に伝えて下さい』とのべた、なんて、まことに珍無類。悲しいことがらだが、抱腹絶倒してしまうのだ」と怒ってます。
(http://www1.jca.apc.org/iken30/News2/N86/OkamotoToshiko.htm)
「殺すな!」とは、単なる政治的主張ではない。視覚に訴えるその文字は、芸術作品である。確かに、べ平連の中心的人物である小田実は、hokusyuさんのように「「政治的」産物」として「殺すな!」と訴えていたかもしれない。しかし、実際に人々の耳目を集めた広告は、その政治的主張の内容ではなく、ただただ「殺すな!」とだけを訴えてくる。それが伝えたのは、普遍的理念であり、空虚な「殺すな!」であった。にも関わらず、「殺すな!」は人々に強烈な印象を残し、いまだに語り継がれる。
椹木野衣はイラク派兵後、この「殺すな!」を引用し反戦運動を開始した。椹木さんは次のように述べている。
(前略)普通に考えれば、「殺せ」の反対は「生きよ」です。しかし、対極主義的にいえば、「殺せ」の反対は「殺す・な」であって、それは絶対に「生きよ」には結びつきません。なぜなら、「生きよ」は、「殺せ」と「殺すな」とのあいだの絶対的な矛盾を解消し、調和させた時にあらわれる、偽の弁証法がもたらす概念だからです。
(略)
「殺せ」がまがまがしいように、「殺す・な」もまた、まがまがしい。それがなかったら、「殺し」を止めようとする行為は、ただのきれいごとになってしまう。「うまくて、きれいで、ここちよい」ものになってしまう。しかし、「今日の反戦運動」は、そこに「殺し」がつきまとうかぎり、「うまくあってはらならない」し、「きれいであってはならない」し、「ここちよくあってはならない」と思うのです。少し前からわたしたちの元に何通となく舞い込みはじめたチェーン・メールによる反戦署名が、どこまでも「殺し」のまがまがしさと関わらない、その「ここちよさ」において、どこか空虚であるようには。10・わたしたちは「殺す」ということなく「殺す・な」と口に出すことはできません。それは、「バグダッドから遠くはなれた」ここに、彼方で行なわれれかもしれない「殺し」を生々しく再現し、直後にそれを、たった一語の「な」によってきっぱりと否定するということです。「殺すな」と一言いうたびに、わたしたちは、殺しと隣り合わせの「否」をギリギリ体験します。「殺すな」は、この対極主義的な矛盾のせめぎ合いを圧縮したことばなのです。
(http://www.geocities.co.jp/Athlete-Sparta/8012/korosuna_today.html)
この柏木さんの呼びかけに対し、300人以上が集まりデモが行われた。このことについて、先に引用した岡本敏子は次のように述べている。
岡本 (略)あの意見広告の字はよかったですね。それが、今、まだ生きてるというか、イラク戦争の中で生き返っているんです。小田マサノリさんや椹木野衣さんたちの「殺すな・デモ」もそれですね。ホームページに載せただけで、三百何十人も集まった。
――その人たちは、とても若い世代で、岡本太郎の時代をまったく知らない人たちですよね。それが隔世遺伝のように、なんで岡本太郎の「殺すな」と結びつくんでしょう。
岡本 もちろん、知らないんです。ベ平連のことや意見広告の文字だなんてことも知らなかったんです。でも「殺すな」っていう字をみたとたん、ピンと自分でストレートに感じるんですね。それが今、岡本太郎ブームなんて言われてる現象の正体なんです。彼らは、自分でそれを発見し、しかもそれが自分に対して言われているメッセージだと受け止めているんです。
(http://www1.jca.apc.org/iken30/News2/N86/OkamotoToshiko.htm)
このようなことがあった。
その上で、私は自分の話をしたい。私は、以前の記事の脚注で、パレスチナの武装勢力について「殺すな」と小さく書いたことがある。*2私の書いた「殺すな」とは、まさに空虚な「殺すな」である。政治的文脈によらず、どのような理由においても「殺すな」という意味での「殺すな」であった。それは普遍的理念としての「殺すな」であり、「赦し」へと続く道しるべとしての一言である。
パレスチナの人びとが、武装勢力に搾取されている側面があり、それでも武装勢力を支持せざるを得ない政治的状況を想像することはできるかもしれない。しかし、同時にニューヨークの人びとが、崩れ去ったWTCビルを見て呆然とする政治的状況を想像することもできる。両者があまりにも異なる政治的文脈の中にあることは知っている。しかし、私はこうして両者を並べて書く。私の中で両者は惨事――多くの人が殺され、残された人たちが「殺せ」と口に出す場――として想像される。これは、私の想像力の限界であり、普遍化の習性の産物である。それらが想像である限り、私は個別の状況を普遍化し、固有性を捨象する。政治的状況を把握するために想像力を働かせている限り、厳密な意味では、固有性などもちえないのだ。
もし、あるパレスチナ人が、私に向って「お前を殺す」と言ったとき、私の空虚な「殺すな!」という理念は力を失うだろう。私はきっと言葉も出ない。固有の文脈で、固有の存在であるその人と私の間では、理念は無力である。理念は想像の世界だけで力を持つのだ。
でも、いま、私の目の前にパレスチナ人はいない。私は想像することしかできない。想像の世界では、やはり私は空虚な理念を掲げる。現実を踏まえた上で”あえて”空虚な理念を掲げるのではない。想像することしかできないから、空虚な理念を掲げるのだ。
mojimojiさんは次のように書く。
僕はこう述べてきました。ハマスのロケットが問題であるとして、イスラエルにも、イスラエルに加担している私たちにも、ハマスのロケットを非難する資格はない、と。ハマスに「殺すな」とは言っていません*1。むしろ、私たちは殺されても文句をいえませんよ、と言い続けてきました。また、「文脈背景は分からないがとにかく殺し合いをやめよというような空虚な「殺すな!」」というようなことを、僕は一度でも言ったでしょうか。一度もありません。それどころか、そのような発言を名指しで批判してもきたはずです。それは、圧倒的な非対称性があるからです。
(http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20090310/p1#seemore)
mojimojiさんは、ハマスに「殺すな!」とは言わないという。そして「私たちは殺されても文句をいえません」と書く。しかし、その「私たち」とはいったい誰のことか?今、ハマスに殺されんとする人びとは、mojimojiさんなのか?私なのか?違う。私とmojimojiさんは、自分の頭の上にミサイルが落ちてこないと知っている。殺されるのだという恐怖*3にあるイスラエル人と自分を結びつけて「私たち」とmojimojiさんに言わせてしまうのは何か?それはまさに、想像の世界の限界の忘却ではないか。
私はハマスに「殺さないでくれ」とは言わない。なぜならば、彼らの標的が私をも含んでいることは、単なる政治的状況からの想像力による自己批判的レトリックにすぎないからだ。その誠実さを決して失ってはならない。私たちは常に自らの加害者性を想像しなければならない。しかし、それは想像の世界のことであることを忘れてはならない。現実の私は、彼らから身を隠していているから、彼らから憎まれてすらいない。実際に「殺す」と言われるまで、「殺さないでくれ」とは言えず、そして「殺すな」という空虚な理念を掲げるしかない。
私たちは、情報を集め、学び、政治的状況を想像することはできる。だが、それはあくまでも想像の世界にすぎない。私は、「想像に閉じこもらず、パレスチナに行け」と言いたいわけではない。イスラエルの問題は日本の問題であり、イスラエルの暴力は日本の暴力である。だが、イスラエルはイスラエルであり、日本は日本である。ハマスから名指しで「殺す」と言われるまでは、イスラエルと立場は違う。徹底的な断絶がそこにはある。私は、私に対して「お前を殺す」と言う人以外には、「殺すな!」と言う。そうでない「殺す」は私の想像の世界で起きていることだ。実際に殺されるという、現実に敗けるその寸前まで、私は理念を掲げる。
*1:文献等の参照先は明示されていないが、次のURLに書いてある。http://www.kanshin.com/keyword/274184
*2:http://d.hatena.ne.jp/font-da/20090217/1234862574#20090217f2