「恐怖の共依存」

 id:ueyamakzkさんから、前の記事へのレスポンスを頂きました。
 私は、スタンスとしては、当事者と支援者・臨床家をはっきりと分断し、区別します。そのことに対して、上山さんが批判していることは知っています。しかし、私は、現時点ではそういうスタンスです。

 当事者/支援者・臨床家の関係性は、各問題に関わる運動が歩んできた歴史を踏まえなければ、話が混乱するように思います。前の記事で、freehandさんとコメント欄でやり取りしていても、そのことに気づきました。
 私は、性暴力の問題にコミットしてきたので、「代弁不可能性」の問題が念頭にあります。性暴力の被害経験がある人自身が声をあげられないから、代わりに支援者が声をあげようとしてきた、運動の歴史があります。また、「声をあげることを求める発言を、支援者が行ってきたこと」への批判も、書籍化された形で発表されています。
 現在でも日本には、性暴力被害にあうことを「恥」とみなし、被害者を「死んだほうがマシ」「キズモノ」とみなすような視線という、社会的背景があります。ですから、そのような社会的背景の変革こそが、性暴力の問題に関わる人たちに必要な運動である、という主張は(ある程度)共有されます。つまり、問題は被害経験がある人ではなく、社会にあるのだという前提があります。
 その中で、「私は当事者に関わっているから、当事者のことはよく知っている」という支援者が現れ始めます。また、「当事者は混乱している」と表現し、「当事者の言うことよりも、自分たちの言うことのほうが信頼がおける」と言わんばかりの支援者も出てきます。また、「被害者は、傷ついていて、診察室の中でしか、本当の気持ちは語れない」と、社会での当事者の発言がウソであるかのように言い、自分だけが被害者の<本当の>気持ちを知っていると独占的な位置に立ち、被害者にとっての真実を横取りする支援者も出てきます。この状況で、もう一度、性暴力の被害経験がある人が、マイクを取り返し、当事者として語るには「あなたたちは当事者ではない」と支援者に突きつけることが必要でした。
 そして、この問題は現在もなんら解決されておらず、私は常に言及しようと思っています。ですから、私は前の記事のような文章を書きました。

 もちろん、「突きつけて終わり」というのは、私の趣味ではないので、もう少し深く考えたいと思っています。ですので、上山さんの論考も興味深く読んでいます。
 さて、私が上山さんの話を読んでいて思うのは、「恐怖の共依存」問題について、どう考えようか、ということです。<恐怖の>というのは、揶揄的につけたあおり文句です。多くの支援者・臨床家のガイドブックには、共依存を避けることが、第一義に書かれています。また、共依存に陥った場合は、支援を中止するように勧める本もあります。
 共依存を避けるためには、感情的な結びつきを避け、支援者・臨床家との区別をつけることが重要となるでしょう。お互いの役割を固定させ、距離をとって、支援者・臨床家が当事者の抱える問題に巻き込まれないように心がけることになります。
 しかし、上山さんの提案どおり、お互いが自分の生き方を問い直すような関係性は、それまでの自分のスタンスをゆるがせるものとなります。そのとき、支援者・臨床家は、理性を保てず感情的になりやすくなったり、当事者に対して強い愛着や嫌悪を持ちやすくなったりするでしょう。いわゆる「恐怖の共依存」に陥ります。
 私は、この「恐怖の共依存」は、しんどい状況にある人が、回復するには、一番手っ取り早い通過儀礼のようにも思います。ですが、私が疑問を持つのは、こんな「恐怖の共依存」を日常的にこなすような支援者・臨床家なんて、ありえるのだろうか、ということです。私は、「転移は必要である」と言ったラカンは、すごいとは思いますが、みんながラカンにはなれないと思います。
 そこで、私が考えたのは、「恐怖の共依存」自体をサポートする必要あるだろう、ということです。まさか、当事者(患者)がサポートするわけにはいかないので、支援者・臨床家同士でサポート体制を作ってはどうだろうか、と考えました。
 あまりまとまりませんが、とりあえず、ここまでです。