ジェンダー・フリーをマジでやる(スイーツフォビア3)

 「スイーツフォビア」「「続・スイーツフォビア、そしてジェンダーという制度 」を書いてきて、これが三部作最後です。

 一つ目の記事を書いたときに、「パティシエは男性が多い」ということへ言及したブックマークコメントが、いくつか付いていた。確かに、お菓子職人は非常に肉体的に負荷のかかる労働である。「男の世界」になっていることも多い。このことに、鋭い視点を向けているのが、六花チヨ「IS」である。

IS(1) (KC KISS)

IS(1) (KC KISS)

「IS」の主人公ハルは、インターセクシュアルである。物語の始まりは、ハルが誕生し、父と母が取り乱すことから始まる。両親は、医師から精巣と子宮が同時にあることが宣告される。情報もなく、混乱しながらも、両親は、ハルの「男でもなく、女でもなく」という状況を、そのまま受け容れて育てると決意する。精巣が内臓に絡みつき、摘出をせまられたり、幼少期の子供同士の「お前は男なのか?女なのか?」という問いにどう応えるのかに思い悩んだり、親としての葛藤が描かれる。
 そして、ストーリーが本格的に展開し始めるのは、ハルが思春期になってからだ。高校に入学し、男として見られたいと思いつつ、女子の制服を着るしかない。好きになった相手は、男だった。自分の女の体を肯定できないから、恋人とセックスできない。そんな中、ホルモンバランスが崩れ、女性ホルモンの摂取が必要になる。医療者からも「ホルモンを飲んで女性化する選択」を迫られる。
 このような、錯綜する肉体的・精神的・社会的プレッシャーに押しつぶされそうになりながらも、ハルは家族、友人、恋人、さらに自助グループの仲間との関わりの中で、成長していく。そして、周囲もまた、自分の抱える問題を、ときにハルと分かち合い、助け合って解決に向かう。このマンガは、IS当事者に焦点を当てながらも、高校生の友情と成長を描く、青春群像劇になっている。それは、IS当事者を、センセーショナルに煽り立てる小道具として使うのではなく、一人の登場人物として描いているということだ。
 さて、実はこのハルが目指しているのが、パティシエなのだ。ハルはISであることをカミングアウトして、男子の制服を着始める。周囲から孤立しながらも、「ケーキ職人になりたい」と強く思うハルは、「ケーキ部」を立ち上げる。最初は「ケーキなんか」と敬遠していた男子たちも、巻き込まれていき、部員になっていく。そして、男子ばかりの「ケーキ部」としてコミュニティができ、ハルには同じくパティシエを目指す友人もできる。
 つい先日発売された、「KISS 09」(2008年5月10日号)では、ハルの就職活動のエピソードが描かれていた。

Kiss (キス) 2008年 5/10号 [雑誌]

Kiss (キス) 2008年 5/10号 [雑誌]

高校三年生になったハルと友人は、憧れのケーキ店に就職を希望してアルバイトに行く。友人は、製造担当となり、洗物に追われる毎日だ。一方、ハルは販売担当にまわされる。友人は、オーナーから、4月からの正規採用の誘いを受ける。友人は喜びながらも、ハルのことを気遣う。その友人に、オーナーは次のように諭す。

入ってもらえば、1日12時間以上の立ち仕事だ。体力のない星野君(引用者注:ハル)に製造業務が勤まるとは思えない。我々の仕事はね、仕込み担当、焼き菓子担当、生ケーキ担当、一丸とならなければ成り立たない。残念だが同じ歩調で働けない彼を雇うわけにはいかないんだよ。

オーナーの言うことはもっともだと思いながら、友人は葛藤する。そして、自分もまた「同じ歩調」で働けるのか、不安になる。そんな折、販売にまわされながらも、明るく働くハルを見て、本当は製造をしたいのではないか、と聞く。ハルは次のように応える。

そりゃ…作りたい。喜んでいただいているこのケーキが自分のだったらサイコーだろーなーーって。……でも、体力に自信がないのは本当のことだし……一生懸命やればいつかは認めてもらえるかも…って。だから回り道でも、今はできること、精一杯やろうと思うんだ。

ハルは、ホルモンバランスの崩れから、体調を崩しやすい。それが原因で、悔しい思いをしてきたことも、友人は見てきている。友人はこう思う。

俺はすぐに忘れてしまうんだ。一晩眠れば元気になる身体。当たり前に「男」としてすごせること。恋をして、夢をみて、それを自由に追える幸せ。俺は恵まれてる。けど、今まで、何もつかもうとしなかった。いつだってスタートできたのに……もうチャンス見逃してちゃダメだ!!

こうして、友人は、不安を突っ切り、4月からパティシエとして、正規雇用で働くことを決意する。一方で、ハルは、販売職として、熱意を認められるようになる。オーナーは、友人を呼びとめ、ハルの事情を知る。そして、オーナーは、ハルの家にやってきて、ハルの両親の前で、次のように話す。

星野君(引用者注:ハル)に来てもらって、店全体が変わり始めました。インターセクシュアル、校内での中傷、人嫌いになっても仕方ない境遇で、人の気持ちを一つにできる力がある。当面は販売としてですが……喫茶終了後、パティシエの技術は私が直接指導します。ゆくゆくは幹部として新作会議にも参加してもらいたい。私も……彼の成長を見届けたいんです。4月からスタッフとして、ウチに来ていただけませんか?

こうして、ハルもまた、パティシエの道へ進むこととなる。
 これは、非常に都合の良い物語である。所詮、夢物語で、現実はもっと厳しいとも言える。しかし、ここで、語られている「夢」こそが重要なのだ。ハルは、ISであるがゆえに、パティシエになる道を絶たれていた。その道を切り拓くのは、「ハルはISだけれど、本当は男だから」で、「オーナーが、ハルを男であると認めた」からではない。つまり、オーナーは「同じ歩調で歩ける」とみなしたのではなく、「同じ歩調では歩けない」が、一緒歩く方法を探した。そして、これは、共に生きる可能性を、オーナーの側が探した、ということだ。
 一見、トラブルを抱えているのは、ISであるハルのほうだ。ハルは、男の格好をして、男並みに働くことをもとめている。しかし、体の障害で、それが適わないという状況に置かれているように見える。ところが、終盤では、トラブルとは「体力がないと働けない」という状況をつくり出しているオーナーほうであることが、明らかになる。トラブルを抱えた当事者とは、ハルではなく、オーナーだ。この当事者役割が逆転することによるトラブルの解決こそが、このエピソードで描かれた夢物語なのだ。そして、たぶん、それは十分に実現可能な。
 そして、この夢物語で、ジェンダーカテゴリーの問題は見えなくなっている。「男であるかどうか」さておき、と棚上げされ、ジェンダーという問題は崩れ去る。そして、「あなたと共に歩む/歩まない」というシンプルな問題だけが残ってしまう。私は、この状況を「ジェンダー・フリー」と呼びたい。
 「ジェンダー・フリー」は和製英語である。これは「ウーマン・リヴ」と同じくらい間抜けな英語だ。そもそもは、「Women's Liberation」の略として「ウーマンリブ」という言葉が出てきた。ところが、言葉の響きから、「Women's Living」の略だという思い込みが続出し、中には「ウーマン・リヴ」と表記する人も出てきた。しかし、日本の「ウーマンリブ」とは自らの生き方を問い直す運動であった。勘違いから生まれたとはいえ、はまりすぎる錯誤である。
 一方、「ジェンダー・フリー」は、「ジェンダーから自由になる」という意味で作られた造語である。英語であれば「gender equality」に当たるようだ。しかし、母語が英語でないものが作った造語である。英語的にそのまま訳すと「ジェンダーがフリーになった」(=ジェンダーがない)という意味になる。山口智美の報告では、次のように述べられている。

 アメリカ人のフェミニスト学者数名に、「ジェンダー・フリー」について聞いてみたところ、「何それ?ジェンダー・ブラインドって意味なの?」という反応が返ってきた。彼女たちは、「ジェンダーを見ようとしない。ジェンダーが見えていない」という意味にとった。つまり、ジェンダー・フリーを、男女平等に対して否定的な意味合いを持つ用語と解釈したのである。この落差は、いったいどこから来たのか?

山口智美「「ジェンダー・フリー」をめぐる混乱の根源(1)& (2)」くらしと教育をつなぐWe 2004年11月号&2005年1月号掲載

意地悪く精神分析もすれば、この錯誤もまた、無意識の象徴のように見える。まさに「ジェンダーをみたくない」のは男女共同参画を採用する行政(とそれに関わるフェミニスト)だったのかもしれない。なぜならば、あくまでも「女性/男性」がいる社会をどう変えるのかが行政にとっての課題だった。その「/」を細かくスケッチすることなど思いもつかず、「/」はみえていなかったのだ。その「男と女を区切る線である」というジェンダー概念そのものには、ブラインドだった。
 では、言葉遊びのように、このブラインドの部分に別の意味づけをしてみよう。つまり、この「/」自体を見えなくすることを目指すことを、「ジェンダー・フリー」だと定義しなおすのだ。私たちにとって自明であるような、「女性/男性」の境目をクローズアップし、その狭間で生きるIS当事者の姿を見る。そして、その境目がブレ、曖昧になり、認識できなくなるくらいまで近づいてみればいい。近視も遠視も、対象が見えないという点では共通している。これまで、典型的でない「女性/男性」の姿を排除し遠くに追いやることでよく見えていかなかった状況から、一転して、近づきすぎて見えなくなればよい。同じくジェンダーはブラインドであるが、次の瞬間、飛び込んでくるのは人の顔である。ジェンダーの枠組みがなくなると、みんな中性的な同じ存在になるのではないか、と心配する人がいる。しかし、大丈夫だ。上記のやり方であれば、それぞれのジェンダーは、それぞれに固有であって、「女性/男性」という大雑把な二分法では、分けられないことがわかる。今度はそれぞれが違いすぎて、人をどう分類してよいのか混乱するだろう。その混乱を、私が定義する新たな「ジェンダー・フリー」は目指すのだ。
 ソフォクレスの「オイディプス王」を思い出せばよい。彼は、「私は何も見えていなかった」と叫び、自らの目をつぶした。「今あるものが見えているから、それ以外のものが見えない」のだ。よく観察して、見えなかったものを見えるようにするのではなく、目をつぶって、これ以外の有り様をイメージするのだ。私たちの前に、ありありと「ジェンダー」は見えている。だが、夢物語の中で、ジェンダーは見えなくなり、新しい世界を描くことができる。
 同じように、私たちはさまざまなジェンダーに基づくフォビアを抱えている。そのパロディとして、私は「スイーツフォビア」の話をしてきた。多くの人が、私の「スイーツフォビア」の中の、私と同居人の関係を肯定的に捉えてくれた。しかし、多くの人が気づいているように、これは私と同居人の関係の一側面にすぎない。私も、同居人も、ジェンダーに基づくフォビアを多く抱え、傷つけあうこともよくある。それでも、一瞬のうたたねのうちにみた、夢のようであっても、ああいう関係性を私は描くことができる。フォビアを野放しにすることも、隠蔽することもしたくない。実際には、そのどちらかしか、できないようにみえても、希望はある。そういう生き方を選んで生きたい、と私は思っている。