質的心理学はなにをめざすか――『質的心理学講座』(全三巻)の発刊にあたって」

 『UP』3月号に、座談会「質的心理学はなにをめざすか」*1が掲載されている。座談会では、2002年に雑誌『質的心理学研究』をスタートし、2004年に「日本質的心理学会」を設立した中心メンバーが語っている。
 私は『質的心理学研究』に掲載されている論文を何本か読んだ。若い院生の論文も掲載されており、とにかく勢いがある雑誌である。社会学や人類学のエスノグラフィに近いような、調査報告もあがってきている。私もとても興味を持っている。
 座談会の内容を概観すると、量的調査を批判し、近代科学の限界を問うた上で、現在の「ナマの声」至上主義に疑問を呈し、構成主義を超えた「実在に迫る心理学」を提言している、というものだ。*2
 私は、途中までは肯定的に読んだのだが、構成主義批判から違和感を持った。批判は、次のように率直に語られている。

麻生 だけど質的研究を標榜するいろいろな研究を見ていると、非常に混迷している部分もあると思う。複雑すぎる文脈性に対して、素朴観点というのがまた違う意味で復活しているというか、素朴な観点もないと身動きできなくなる。
南 あまりにも複雑なものを全部見わたすわけにはいかない、ということ?
麻生 うん、「その過去は本当にあったか」とか。たとえば浜田寿美男さんの「自白研究」があるけれども、あれは「本当にある時点で言ったやつがいる。/それは本当かウソか」という問いに立たないと、過去も現在も全部が語りで構成されたものになってわけがわからない作業になってしまう。全部相対化の世界になると何も言えなくなりますよね。
やまだ そうそう。
麻生 真実というものがあって、その真実を反映した言説がある、だれの言説が相対的に真実に近いかという、そういう意味で素朴ですよね。けれども過度にインタラクティブ(相互作用)なものとして語りの一群を考えていくと、わけがわからなくなって身動きできなくなる、という感じがするんです。
(9ページ)

私はこれらの語りに共感するところがある。私なりに、「なにがホントかわからない」と身動きがとれなくなった経験がある。おそらく、多くの構成主義に立とうとする研究者が直面する感覚である。これは、大変困る状況である。
 しかし、困っているのは誰なのか?というと、研究者自身である。<世界>が困っているのではなく、<私>が困っている。私たちの現実世界が、「なにがホントかわからない」としても、そこに不都合はないのだ。私はここは混同するべきではないと思う。
 もしも、現実世界が「全部相対化の世界」であって「何も言えなく」なるのが、<世界>にとっての真理だとしたら、私は大変残念である。<私>の言っていることは、全部、真理ではないからだ。しかし、<世界>の真理がそうであったとしても、<私>は別に黙らなくてもいいだろう。なぜなら、私はすでに言葉を持っているからである。真理を語るため<だけ>に、言葉が存在するわけではない。
 私はこういう風に考えているが、座談会は別の方向に行く。語りを聞き取り、調査分析していくと、そこにはある種の発見が生まれ、それは科学である。だから、あるものを「構成する」のではなく、今までなかった(知られていなかった)ことを「生成(ジェネシス)する」といい始める。次のように理由付けされている。

麻生 ジェネシスだと、「わかる」ということを認めているので、社会構成主義的な「わかる」ということ自体も括弧に入れちゃっているみたいな気もして。われわれが目ざしているのは「わかる」ということ、ある種のKnowing――識ると同時に体得すること――だということについては一致していると思うんです。それが社会構成主義の人から言わせると、だから心理学者はダメだ、という話になったりするわけだけど。
サトウ その点は「生成」とか「発生」という言葉でぼくらはやっているという共通認識はあるべきだし、無限に後ろに行くような相対主義にはなりようがないと思います、人間の生活を対象にしている以上。
(11ページ)

 同じことをある社会学*3が、言っているのを聞いたことがある。社会学ではポジショナリティを問い直すことが重視される。なぜなら、社会学者としての視点は常に、その社会学者が置かれた文脈上に存在していることから逃れられないからだ。しかし、ポジショナリティは問い直し、答えた瞬間に、その答えもまた置かれた文脈上に置き換えるだけで、無色透明中立なものにはならない。そこで、無限にポジショナリティ問い直し続けなくてはならず、キリがないと言っていた。私は、その話は確かにもっともだと思う。ポジショナリティの問い直しで、人生が終わるのはイヤだ。
 しかし、「ポジショナリティを問い直さなければならない」ということも、文脈上に存在する。すなわち、当事者から研究者へ、「お前の見方はゆがんでいて公正ではない」という異議申し立てが行われたという文脈である。
 申し立てを受けて、社会学者は自主的にポジショナリティを問い直し始め、ある一部のものは強迫的にそれを繰り貸す。それには、2つの動因があるだろう。
(1)他者言及される前に、自己言及により「私はもうポジショナリティを問い直しましたよ」という<より確かな>アリバイを作っておきたくなるため
(2)ポジショナリティを問い直すという自己言及は、自己解体の痛みを自己にもたらすので、マゾヒスティックな快楽を伴うため
問題は、「ポジショナリティの問い直しは無限に続くものである」ことではなく、単に「一度始めたらやめられない」という中毒性にあると、私は考えている。
 この自家中毒から逃れるには、「ポジショナリティの問い直し」をやめるしかないだろう。しかし、それは「ポジショナリティの問い直し」が無限に続くことを原因とし、(私がそれをしたくないからといって)真理のリストから外すことではない。必要なときに、必要なだけ「ポジショナリティの問い直し」をするために、コントロールすればよい。要するに、ポジショナリティは、当事者に異議申し立てされたときにだけ、答えればよいことだ。年から年中やっている必要はない。
 というわけで、「ポジショナリティは聞かれたときだけ、答えれば問題ないのでは?」と先の社会学者に聞いてみた。すると「いやーそれはそうなんだけどー」…そうならそれでいいじゃないか、と私は思う。「これが答えだ!」*4ということができないような、あやふやさの中で、現実社会の人は暮らしている。そのあやふやさこそが、「人間の生活」であり、それを対象にしているかぎり「何も言えない」という鬱屈した気持ちを捨てることはできないだろう。それはそれで、しんどいが、別に悪いことではないし、学問に従事できなくなる決定的な要因にもならなように思う。
 なんにせよ、質的心理学が面白い領域になっていけばいいな!と思います。

*1:無藤隆、麻生武、やまだようこ、サトウタツヤ、南博文「質的心理学はなにをめざすか――『質的心理学講座』(全三巻)の発刊にあたって」『UP』2008年3月号、1〜12ページ

*2:むちゃくちゃ大雑把なので、興味がある人は実物を読んで下さい。タダで手に入るし。

*3:北田暁大さんです

*4:そんな本ありましたね(笑)