デリダのパレルゴン論2

 前回の続き。

絵画における真理〈上〉 (叢書・ウニベルシタス)

絵画における真理〈上〉 (叢書・ウニベルシタス)

予想以上に難解で手こずっている。デリダの文体は、私はさして気にならない。問題は、主題になっているカントの「判断力批判」である。*1最後までたどり着くかなあー。

 デリダは、「? レンム」に続く「? パレルゴン」で、まず、「判断力批判」(第三『批判』)という著作全体について言及している。カントは第三『批判』において、中間項(Mittelglied)という概念を用いる。芸術は「(カント的な意味で)理論的なものと実践的なものとの連接をつくり出す」(62ページ)「橋」という中間項だという。デリダは、このカントの芸術概念を「場所」(lieu)という言葉で表現する。すなわち、芸術の領域とは「実践的でも理論的でもないような場所〔lieu〕に、あるいは実践的であると同時に理論的であるような場所〔lieu〕」(62ページ)である。これは「どっちでもあり、どっちでもない」という、矛盾した「どっちつかず」が居座っている場所である。
 カントはあくまでも、芸術を理論の部門(純粋理性の領域)と切り離し、別物として取り扱う。しかし、同時に、一つの切り離された部門を構成するのではなく、必要な場合には理論の部門に連結する。なぜなら、「判断力もまた認識能力であるかぎり、それ自身だけでそうした諸原理(引用者注:経験に依存しない諸原理、アプリオリな諸原理)を要求するからである」(65ページ)。カントは、判断力批判において、判断力のどこまでが、諸原理に支えられているのかを走査するという。デリダは、以上について、次のように述べる。

 これこそはこの批判の本来の審級である。つまり、理性の建築家は地盤を探掘し、調査し、下調べするのである。その上に形而上学の全体を建設すべき石質の土台、究極のGrund〔土台、根底、根拠〕を求めて。しかし、同時にまた、もろもろの根、共通の根を求めて。そしてこの根は共通でありながら、ついで現象的な光に出会うと分岐し、しかもそれ自体は決して経験におのれを委ねることはないといった、そういう根なのである。批判は、そのようなものとして、はたしてそれが存在するかどうか決して知らぬままに、buthos〔ビュトス(ギ)、土台、深淵〕に、深淵の根底〔fond〕に触れようと欲する。(65〜66ページ)

ここで、デリダは、カントが欲求について論じていることを指摘する。デリダはフランス語のfondmantal(根本、根、土台、基礎にあるもの)という語の言葉遊びをしながら「理性の欲求」を描き出す。それは「底なしの底」へと到達したいという、哲学する術(art)であり、「他のすべての欲求に命令を与え、すべての修辞(レトリック)について釈明する」(67ページ)と述べる。
 ところが、判断力はこの「認識をしたい」という「理性の欲求」を満たさない。先に述べた「経験に依存しない諸原理」は悟性によってしか見出されない。そして判断力はその原理を適用する。だが、判断力は、それ自身はそういう概念を生み出すことはない。
 では、判断力は何をするのか。判断力は、役立たずであるが、認識能力を持っている。その能力とは「美感的判断」における認識能力である。それは、「アプリオリな原理にしたがって、快もしくは不快と関連付ける」(69ページ)能力である。しかし、その快に対する認識は、純粋性において現出するので、実際には認識されるべきものはいかなるものも存在しない。能力はあるが、その能力を発揮させる対象は存在しない。デリダは、この判断力が生み出す概念を、先の悟性が生み出す諸原理と対比させ、「空虚な概念であり、何ものをも認識させない」(68ページ)と解説する。
 以上を踏まえて、デリダはカントの第三『批判』について、「快」をキーに設定する。デリダは、第三『批判』を作品として扱うと宣言し、二つのフレーズを小見出しに使う。「私はその厳命に従う〔Je la suis〕」と「私はその厳命をそそのかす〔Je la seduis〕」である。

(1)私はその厳命に従う〔Je la suis〕。
 デリダは、カントの美観的判断は、感情への関連だとする。諸現象が、現実存在に関連付けられるときには、論理的な判断をしうる。しかし、判断そのものが、主観的な感情に関連づけられるときには、美感的であり、美感的以外にはありえない。デリダは次のように述べる。

 通常、主観的満足〔stisfaction subjective〕と訳されているWohlgefallen〔適意〕、すなわち美観的判断を規定する<気に入る>〔plaire〕は、周知の通り没関心的〔desinteresse〕でなけらばならない。関心〔Interesse〕はつねにわれわれを対象の現実存在に関連させる。対象の現実存在(existenz)がなんらかの仕方で私にとって重きをなすとき、私はその対象によって関心を抱かせられているのである。ところで、私がある物(ショーズ)について、それは美しい、と言いうるかどうかという問題は、私がその物の現実存在寄せる、もしくは寄せない関心と、内的・本質的に〔intrinsequement〕、なんのかかわりもない。それゆえ、私の快(Lust)は、すなわち、快〔plaisir〕と名づけられるところの、そして美しいと判断するものを前にして私が体験するような、そういう種類の<気に入る>〔plaire〕は、その物(ショーズ)の現実存在に対する或る種の無頓着〔indifference〕、もっと厳密に言えば関心の絶対的欠如を要求するのである。(72ページ)

ここで述べられているのは「エポケー」(判断停止)である。「対象を現実的な文脈に沿って判断すること」すなわち「現実存在の措定」の中断である。*2
 デリダは、<私>に対して、「それが美しいかどうか」を問うとは、「その対象の表象が私のうちになんらかの快を生み出すかどうかということ」(74ページ)だという。それは「私が私自身のうちにおいてその表象をどうするかということであって、私がその対象の現実存在にどんな点で依存しているかということではない」(74ページ)と述べている。<私>は対象に関心を持たない。対象が引き起こす、<私>の情動(affenction)を楽しむのである。
 それでは、美感的判断とは、自己内完結する、自己満足的なものだろうか。デリダはここで「自己―触発」(auto-affection)と「異他―触発」(hetero-affection)の概念を導入する。私に「それは美しい」と言わせるのは、自己自身でしかありえない。これが「自己―触発」である。純粋に主観的である。ところが、「それは美しい」と言ってしまったあとには、「『それは美しくある』と言うべき」規範が、常にすでに生成されている。つまり、言ったことを支えるような、純粋な客観性(言表の普遍的価値)が生まれる。これが「異他―触発」である。すなわち、美感的判断は、作動するまでは自己内に閉じこもっていながら、実際に作動すると、他者に開かれる。美感的判断を下すとは、自己内価値(特殊性)を、他者に開かれたもの(普遍性)に反転させるということである。
*3
 
(2)私はその厳命をそそのかす〔Je la seduis〕。
 (1)で述べたように、第三『批判』を作品として扱うということは、第三『批判』に対する現実存在としての関心をはらいのけなければならない。そうであれば、現実存在とは何か、すなわち「書物が現実存在する」とは何かを問わねばならない。デリダは「書物は、それの現実存在する部〔exemplaires(写し、見本、範例、原案)〕の感性的多様とは混同されはしない」(81ページ)と述べる。
 各メディアによって、イデアは独自であり異なっている。芸術であれば、書物(小説、詩、など)のイデア性と、書籍的でない芸術(絵画、彫刻、音楽、演劇など)のイデア性とは区別しなければならない。メディアごとに、内的・本質的イデア性として、何を保留するのかを問題にする。
 そこで、デリダは、書物のイデア性を検討する。デリダは、その一事例として、順序の問題を取り上げる。デリダは「純粋哲学の書物であれば、人は権利上どこからなりとそれに接近することができる」(82ページ)とする。純粋哲学は建築物のように、見取り図を引かれ、土台から始めて棟に至る。しかし、読む段にあたっては、その製作の順序に従う必要はない。しかし同時にデリダは「純粋哲学の書物の場合、もしも人がその土台から始めるのでなかったら、そしてそれが書かれた権利上の順序に従っていくのでなかったら、人はその書物を読むことになるだろうか」と問う。
 しかし、「事実の順序」と「権利の順序」は必ずしも一致しない。カントは、第三『批判』において、序論をこの書物のあとに書いた。そして、この「序論」により、批判を哲学に結びつける努力を行い、全体を総括する原理を打ち立てた。つまり、土台は、あらゆる探求の後、到来したのである。カントの思考をたどるのならば、最後に序論が来てしまう。だとすれば、私たちは「事実の順序」と「権利の順序」のどちらから読むべきなのか、という問いが出てくる、とデリダは指摘する。
 こういった諸問題が次々と出てくることに関して、デリダは「これらすべての問題の連繫の再考をわれわれに余儀なくさせる」(84ページ)と述べている。デリダによれば、第三『批判』は他のさまあまな批判と同列には並ばない。第三『批判』はつねに事例に基づいて、特殊な部分としてその端緒を見せている。そのとき「反省的判断力」の形式が用いられる。その判断力を、デリダは次のように解説する。

判断力一般は、特殊なものを、普遍的なもの(規則、原理、法則)のもとに含まれているものとして、思考することを可能にする。まずはじめに普遍的なものが与えられているときには、判断力の操作は特殊なものを包摂し、これを規定するのである。その場合、判断力は規定的(bestimmend)であり、特定し、外延を狭め、包括し、狭く閉じ込める。逆の仮定の場合、反省的(reflectirend)判断力は特殊なものしか随意にせず、普遍性の方へ向かってさかのぼり、立ち戻らなければならない。つまりそこでは事例〔l' exxemple〕(これが、ここで、われわれにとって重要なのである)が法則よりも先に与えられており、そしてその事例がその法則を、それの範例的〔d' exenple〕な唯一性そのものにおいて、発見させることを可能にさせるのである。
(84ページ)

デリダによれば、通常の学問的ないし論理的言説は、先に規定的に判断を下し、事例はその例証のために後からやってくる。しかし、芸術とか生とかを扱う場合には、先に事例がやってきて、あとから反省的に規定がやってくる。いつでも事例が先行している、という特異な歴史性が、理論的なものを、後付された「こしらえもの的性格(85ページ)」という結果を生み出す。
 この前提の上で、この先にデリダは実際に第三『批判』の読解に入っていく。*4

*1:っつーか、「判断力批判」の中身をほとんど覚えてない上、本棚探したけどどっか行ってた。無意識のうちに捨てたのかも。私は、思想本の中で、カント先生の著作が一番苦手だ。カント先生自身言っていることだが、まさに建築。読みながら、論理を一つずつ組み立てていく作業が必要なんだけど、私は途中で「もうええーー!爆破じゃあっ!」となってしまうのでした。哲学向いてねぇーっ、私。でも、カント先生のことは尊敬してます。

*2:デリダは、この没関心的な態度について、「どうでもよい〔indefferent〕というのではない。このような<存在するがままにさせておく>〔laisser-etre〕の有するどうでもよいのではない構造を理解しなかったとして、この点に関してハイデッガーニーチェを非難している」(72ページ)と付け加えている。

*3:デリダは、文学的表現で、謡うようにこれを語る「 ほとんど何物も(私において)残っていない。物も、物の現実存在も、私の現実存在も、純粋な対象も、純粋な主観も。存在する何ものに対する、存在する何もののいかなる関心も。しかもなお、私は愛好するのである。〔J' aime〕。いや、それでもまだ言い過ぎである。そう言ったら、まだ現実存在に関心を寄せることになる。間違いなく。私は愛好するのではない。そうではなくて、私の関心を呼ばないものにおいて、私が愛好しようとしまいとどちらでもかまわなといった、少なくともそうしたものにおいて、私は快を取る〔prends plaisir(楽しむ)〕のである。私は私の取るものを返す。私は私の返すものを受け取る。私は私の受け取るものを取らない。にもかかわらず、私は私にそれを与える。私は私にそれを与える、と私は言ってよいのだろうか。その快は――私の判断力と共通感覚の抱負においては――きわめて普遍的に客観的であるから、或る純粋な外からしか到来することができない。それは同化不可能な外である。私が私に与えるこの快、あるいはそれ〔=快〕にむしろ私が私を与えるところのこの快、この快を極限において、私は体験〔eprouve〕さえもしない。もしも体験するということが、鮮やかに感じる〔ressentir〕ことを意味するとすれば。つまり、私の関心づけられた、そして関心づける現実存在の空間と時間において、現象的に、経験的に、鮮やかに感じることを意味すれば。経験することの不可能な快。私は決してそれを取らず、受け取らず、返さず、与えず、私にそれを与えない。なぜなら、私(現実存在する主観であるこの私)は、美しいものとしてのかぎりで、美しいものに決して近づかないのだから。私は、私が現実存在するかぎりで、純粋な快を決してもたない。 しかも、なおそれはある。快はそれはまだ残っている〔Et pourtant il y en a, du plaisir, il en reste encore〕。il y a, es gibt ca dnne. 快はそれが与える〔ca donne〕ところのものである。誰にとってでもないが、それは残っている。そしてこれが最もすぐれた快、最も純粋な快である。そしてほかならぬこの残りが、話させるのである。なぜなら、重ねて言っておくが、まず第一に問題にされているのは、美に関する言説なのだから。つまり美の構造の中の〔dans〕言説性がまず問題にされているのであって、単にあとから美に付帯するような〔qui surviendrait au beau〕言説が、問題にされているのではないのだから。(79〜80ページ)」

*4:な、長い…これでまた3分の1くらい?最後まで読みきれるかなあ…