ジョン・キャメロン・ミッチェル「ショートバス」

 友人に強く勧められて観にいってきた。最初に言っておくけど、映画としてはまったく面白くない。演技は下手だし、カメラワークがのっそりしているし、せりふも展開も陳腐。センスもださめ。政治的メッセージにいたっては、聞き流しておいていいと思う。(特に、9.11やNYという街についての語りは。)
 では、この映画が何かというと、壮大なセルフヘルプグループの物語である。とにかくAAの箇条書きが思い浮かぶくらい、セルフヘルプ精神に満ちている。さまざまなセックスの悩みを抱えた人々が「ショートバス」(クィア系サロン)に集まり、傷をさらけ出す、というだけ。知り合った人々と交流とかはあるのだけれど、最終的には「なんとか、やってくしかないよね」という結論。で、たまには、憂さ晴らしにパレードとかフェスティバルをやって、祝祭の中で自己を解放しようじゃないか、みたいな。

 けれど、この映画は性教育のビデオとしてすばらしいと思った。私たちは、ヘテロだとかゲイだとか○○だとか、性的指向を主張してセックスするものではない、という描かれ方だった。あなたの隣の人とセックスしたくなれば、もうあなたは指向している、というセクシュアリティのありかた。セックスするときに、その人が男か女か、それとも自分は男か女か、なんて重要じゃない。しかし、一方で、そんな解放されたように見えるクィアになっても、セックスの問題が解決するわけではない、という問題が語られる。
 たとえば、メインに出てくるソフィアは中国系カナダ人女性(しかも、若くない)。彼女の悩みは、オーガズムを経験したことがないこと。いきなり、セックスしまくるサロンでドン引きしているソフィアだが、だんだんとあらゆる人とセックスできる、という可能性を発見していく。それでも、彼女はオーガズムに達しなければ、という気持ちから逃れられない。物語後半では、藪の中を這いずり回り、抜け出しあとは、夕焼けの海辺である、という幻想の中で、彼女はオナニーする。*1
 ゲイのジェイムズは、恋人に愛され、自分も恋人を深く愛しているのに、欲情することができない。売春や暴力によるセックスと、恋人とのセックスの違いがわからず、セックスができなくなりうつ状態に陥る。自分のペニスをしゃぶり射精するというオナニーシーンを映像に撮り、遺書としてのフィルムを作って自殺しようとする。ジェイムズは、彼をストーキングしていたカレブとセックスし、涙を流す。
 そのほかにもラブリーな恋人がほしいのに、女王様の仕事がやめられないセヴェリンや、男性としてのアイデンティティに揺らぐソフィアの恋人ロブ、ジェイムズを愛しすぎて自分を見失うジェイミーなど、「あ、ありそう!」と思うようなわかりやすいセックスについての悩みを持った登場人物が出てくる。みんな過去や、社会状況に傷を抱えているのだが、セルフヘルプ映画なので、それが何かは明確にされない。ただ、現状のつらさが吐露され、それを「ショートバス」のメンバーに、うけいれらることによって、生きる力を得ていくのだ。
 「あなたが何に欲情しようと、どんな傷を持っていようと、あなたの人生は間違いではない」というメッセージが明確に示される。最後にジャスティンが歌う、「あなたが息を引き取る直前によい人生だったと思えるように」などは、こっちが照れてしまうくらい直球だ。そして、悩んでいるのはあなただけではないし、セクシュアリティの探求はみんな続けている。そのために、集まる場所がありえるのだ、という明るい理想郷が描かれる。もちろん、こんなサロンはありえないだろうし、セルフヘルプグループは万能ではない。それでも、監督が「私たちはこんな場を作ることが可能なんだ」という希望を示そうとしていることはわかる。

 ただ、これは映画の欠点というより、セルフヘルプグループの欠点であるのだが、社会改革にはつながらない。「私は、私であってよい」という立脚点は大事だし、それなしにスタートするのは難しい。だから、「ショートバス」という場所は、現実にも必要だろうと思う。*2それでも、セルフヘルプが救うのは、あくまでも自分と、自分が同一化できる一握りの人々でしかない。
 なぜ、ソフィアがオーガズムにこだわらなけれいけないのか*3、なぜ、ジェイムズが「12歳の頃に僕が探し求めいたものを僕は未だに探してるんだ」という言葉をクローゼットの中で言わなくてはならないのか*4、という問いはすべて棚上げされる。セックスもまた、社会的抑圧と無縁でないはずだが、あくまでも「私の問題」にとどまってしまう。
 もちろん、理想としては、「私の問題」を「社会の問題」とつないでいくことが望ましい。たとえば、フェミニズムは同じようにCR(consiousness rasing)という試みで、最終的に「個人的なことは政治的である」というスローガンに結びつくようなシステムを考案している。(なかなか実現するのは難しいのだけれど)しかし、この作品では、連結は最後まで試みられることはない。
 「この点をどう評価するのか」という問題には、私はまだ結論は出せていない。ひとつ思うのは、安易に社会と結び付けないという態度もまた潔いといえる、ということだ。無理やり、「私の問題」の解決案を、他人に押し付け、「これが<唯一の>方法である」とすることは、危険だろう。セルフヘルプでみつけた「私の答え」はあくまでも「私の答え」だ。それを私の物語として語ることはできても、他人と共有できるとは限らない。だから、この短絡的なやり方を避けたことは、悪くなかったと思う。
 だが、私が救われれば、それでいいのか。救われた私はどこにいくのか。祝祭の中で、われを忘れるのでよいのか、という疑問は残る。こっから先をどうするのか、を描く作品は、これとは別に必要だろう。それでも、私はこの映画をもっと早く観たかったし、10代のころに観たかったと思う。そして、若い人は観たほうがいいと思った。そして、そのような性教育的映画として成功していると思う。

 それから、この映画の解説は本当に意味不明なものが多い。名越康文なんかは、ほっといていいとしても、やたらセックスシーンを強調するものが多い。ぼかしが入っているから、そこを期待しても、もひとつだろう。松尾スズキが「オープニング10数分間のセックスシーンは、『プライベート・ライアン』に匹敵するほど目が離せなかった」と書いているから、ちょっと期待したけど、別の意味で泣きそうに終わった。セックスやオナニーにおける、孤独がひしひしと伝わってきて、つらすぎだった。*5チラシやホームページの紹介は、当てにしないほうがよい、と思った。
 サロンの女主人ジャスティンが、ものすごく素敵で「ああ、ソフィアでなくても、キスしちゃうわ〜」と見ほれていると、ほんまもんのパフォーマーでした。それから、セヴェリンに萌える人は結構いるのではないかなあ?金髪、ゴス、小柄で、本当は「女の子だもん」的な性格。私も萌えました。

 しかし、先日観た「ヱヴァンゲリヲン」と客層も内容も違いすぎて面白かった。おしゃれ系の美大生っぽいカップルが多かった。だいぶ空席が目立ったけど。どーっと年配の男女が流れ込んだと思ったら、お隣はマイケル・ムーア「シッコ」だった。こっちはぎっちり満席。

追記:
買ったパンフレットを読んでいたら、引用した歌詞が出ていた。正確には以下。

And as your last breath begins
contently take it in

(翻訳版:
命の終わる時、満足して息が引き取れるように)

"IN THE END"

*1:これが、この作品でもっとも美しいシーン。いや、ベタだけどさ。素直に「ああ気持ちよさそう」と思いました。

*2:特に日本では、もっとコミュニティが必要だ、という声は、私自身さまざまな領域で聞いている。

*3:それは「東洋人=ヨガの秘密=激しいセックス」というラベリングによるものではないか

*4:このレトリックはベタだけど、よかった。バスで手をつないで、路上でキスしていても、ジェイムズが涙を流すのはクローゼットの中である

*5:ちなみに、私が一番、うろたえたセックスシーンは、大野監督作品「G8<カリ>」です。これはすごかった。映画祭だからぼかしが一切なかったし。ラバーをかぶって、オナニーする男の人は未だに頭から消えません。とにかく、性のファンタジーの奇天烈さ生々しさが、めくるめく映像で出ます。