近況

 6月の地獄のようなスケジュールをなんとか乗り越える見込みが出てきました。まだ気を抜いてはならないのですが、学会報告3本と英語論文、日本語論文1本ずつをなんとかクリアできそうです。日本語では、珍しく刑事司法制度に焦点をあてて、英語圏で展開されている新しい潮流を紹介しています。無事に掲載されましたら、ここでもお知らせします。

 英語での研究活動は、最近はアートに焦点を当てています。先日のEuropean Forum for Restorative Justice (EFRJ)のオンラインのシンポジウムを見ていても、修復的正義とアート・アクティビズムの接合に注目が集まっていました。私も、ベルギーでの実践活動の一つである、Maria Lucia Cruz Correiaのプロジェクトの一部に参加しました。

mluciacruzcorreia.com

 また、EFRJのシンポジウムでは新規参加者が活発に議論をしており、イタリアやスペインからの報告も増えました。相変わらず、アジア系の参加者は私だけなのですが、EFRJとしてはヨーロッパに限らず、米国や南米との連携も強めており、開かれた議論の場の運営に努めていますので、ここからどうなっていくのか、興味深く見ています。

 7月、8月は研究者でもバカンスを取る人が多く、私もそれに合わせて、しばらく休もうと思っています。そう言っても、眼前の課題は多いため、インプットの作業はやめられないと思いますが……

はてなの黄昏と「キリンちゃん」という架空の人格

 ここのところ、はてなの衰退の話が出ています。

orangestar.hatenadiary.jp

p-shirokuma.hatenadiary.com

orangestar.hatenadiary.jp

pha.hateblo.jp

 はてなから人がいなくなっているのは間違いないだろうと思います。最近ではたくさんブックマークがついて、ホットエントリーに入っても、アクセス数はたいして上がらなくなりました。私の知人もほとんどがTwitterに移動しています。なにより、こんなふうに思い出話ばかりで盛り上がるところを見ると、いよいよはてなも黄昏時だなあと思います。

 私自身は、はてなのブログはシンプルなデザインで文章を無制限に書けるところが気に入っているので、サービスが終了するまではこのまま使うことでしょう。ただ、もう以前のように頻繁にネット上の議論に参入することはないだろうと思います。

 私がはてなダイアリを毎日のように更新していたのは、本当に精神的につらい時期でした。大学院進学を望んでいたのに、いろいろなことが重なって叶わず、頭の中で渦巻く考えを吐き出す場所が必要でした。ちょうどその頃、はてなダイアリには大学院生や研究者がたくさんいたので、私には格好の議論をふっかける場になりました。何も失うものがない(と本人は思っていた)ので、今考えると「めちゃくちゃやな」と思うようなことをやっていました。他人には勧めません。

 私にとって、一番勉強になったのはたくさんの本や論文の紹介をしたことです。時には執筆者が私のブログを読んでコメントすることもあり、スリリングでした。研究者になった後、私が批判した本や論文の執筆者が講演を聴きにきてくださって、冷や汗をかいたこともあります。若者の無礼をお許しくださった方々には感謝しています。

 はてなでブログを書いているfont-daというアカウントは、ひとつの人格のようでした。たまにブログタイトルをもじって「キリンちゃん」と呼ばれたこともあります。はてなの「キリンちゃん」は好戦的で、論理モードと感情モードを使い分けながら、相手を圧倒していくような文章を綴ります。時には相手を挑発し、議論のなかでひとつずつ主張を潰していくようなやり方をしました。それは、普段のオフラインの生活での私の振る舞い方とは少し違います。

 2010年に大学院に進学して以降は、私のブログの更新頻度は減りました。私は真剣に研究者になりたいと考えていたので、それに集中しようと思ったからです。私は長く論文をうまく書けず七転八倒しました。10年くらい私の葛藤は続き、ようやくここ数年、楽しく論文を書けるようになりました。今の私ははてなの「キリンちゃん」ではなく、研究者の「小松原さん」として文章を書くことがほとんどです*1

 もちろん、私は意図的に「キリンちゃん」という人格を作ったわけでもないですし、意識して使い分けているわけでもないです。インターネットの良さは相互交流が盛んなところにありますから、そのコミュニケーションのなかで生まれてきたのが「キリンちゃん」です。私の中に「キリンちゃん」は今もいますし、大事な一部です。何度かネットで書いていますが、私は大学院の博士論文の公開審査の場で一人の審査者に「周到な論文で、反論を予測して先にそれを封じていくような書き方をしている」ことを褒められました。いうまでもなく、それは私がはてなで何度も炎上して、批判され、誤解され、悔しい思いをするなかで身につけてきたスキルです。研究者としての私の文章には、ブログを書いていた痕跡は間違いなくあります。ただ、私はブログとは別の書き方をすることが多くなりました。

 そうは言っても、私の研究者としての身分は不安定でいつまでこれが続けられるのかわかりません。それでも、今は資料を積み上げて、分析をしながら自分の理論を提示していく論文を書くことが、一番の楽しみです。金銭的、精神的に研究できる状況が確保できる限りは、続けたいと思っています。また、私の研究者になるまでの話は別の形でお出しする予定にはなっていて、それはそれでありがたい話だと思っています。

 同じような話はあちこちでしていますが、つらかった時期に、書くことをやめずにすんだのは、はてなでブログを読んでくださった方がいらっしゃったからです。私は愛着があるので、はてなから人が去っていくのはさびしい気持ちにもなりますが、同じところで留まることが良いことでもないでしょうし、時代とともに人が新しい場所に移りながら新しいものを書いていくことは、とても自然なことのように思います。

*1:私は今年の春、突発的にTwitterをやめてしまったのですが、いま思うと、あのアカウントは「キリンちゃん」と「小松原さん」が入り混じった状態になっており、自分にとって使いづらくなったのかもしれません。ネットで論争になると、私はたちまち「キリンちゃん」になってしまうので。注記しますが、もちろん研究者の「小松原さん」が本体というわけではなく、それはそれで架空の人格です、私にとっては。

オンライン・ワークショップ「自然とはなにか?」へのお誘い

 このたび、環境哲学の研究者 Laÿna Drozさんと、オンライン・ワークショップを開催することになりました。テーマは、東アジアまたは南アジアにおける「自然とはなにか?」です。

 私たちは2019年に「Network of Asian Environmental Philosophy」を立ち上げました。この団体は、アジアの環境哲学者の交流を深めることを目的としています*1。これまでは不定期のニュースレターの配信をしていたのですが、今回は新しい試みとしてメンバーが参加する企画を立ち上げました。

asiaenviphilo.com

 アジアの環境哲学者の交流の最大の難しさは「言語」にあります。それぞれの母語が異なっているため、英語を共通語にせざるを得ません。他方、それはそれぞれが自然を表現する言葉をもち、とても多様で豊かな言語世界があるということでもあります。そこで、私たちは各地域でどんな言葉で「自然」が表現されているのかについての一覧表を作り、ともに議論するための共通の基盤を形成するために、概念のマッピングを試みることにしました。その試行錯誤の一環として、オンライン・ワークショップを開催します。詳しい内容については、以下をご覧ください。

asiaenviphilo.com

 この企画は、私たちがアジアの環境哲学を議論する、はじめの一歩です。これだけでは、自然についての深い議論には至らないかもしれないですが、とにかく私たちはスタートを切ろうと思っています。もし、ご関心がある方があれば、以下のニュースレターをご覧ください。詳しい募集のプロセスが書いてあります。

asiaenviphilo.com

 私たちは英語を使ってコミュニケーションを進めていますが、私も含めて、参加者の多くはノンネイティブで、英語に自信がありません。ですから、フランクな英語で正誤にこだわらず、お互いに敬意と配慮を忘れずに、コミュニケーションしたいと思っています。もし、質問や疑問があればニュースレターの中にあるアドレスへメールをください。私もスタッフとしていますので、もちろん、日本語での問い合わせも可能です。今回は参加が難しくても、私たちのメンバーになってくださる方も募集しています。以下からお申し込みください。

asiaenviphilo.com

 そして、この情報を拡散していただけますとありがたいです。よろしくお願いします。

*1:ちなみにこの団体はガチで私とLaÿnaさんが立ち上げており、なんの後援組織も資金もありません。人手も金もないので、運営協力者は常に募集中です。

近況

 気がつくと6月に入ってしまいました。ベルギーでの在外研究はようやく軌道に乗ってきたところです。今月はオンラインでのプレゼンテーションが3本と、論文の締め切りが2本あるという地獄のようなスケジュールで、ここ数週間は毎日、原稿と向かい合っています*1

 先週は、環境問題における修復的正義(Environmental restorative justice, ERJ)についての2日間のオンラインワークショップに参加しました。朝9時から夜7時まで、ぶっ通しで議論するという、強化合宿のような企画でしたが、どの報告者もモチベーションが高く、大変勉強になりました。法学者や環境活動家、アーティスト、先住民など、それぞれの立場が違い、主張も異なります。時にはどうやっても折り合いのつかない議論もありましたが、お互いが敬意を持ち、率直に話し合うことで、ずっと和やかな雰囲気で意見交換が行われました。私は、まだまだ英語の心配があるのですが、自分のプレゼンテーションは大変評判が良かったですし、他の人のセッションでも積極的に議論に参加しました。最後のクロージングでは、みんな疲れ果てていたのもあって感傷的になり、また会おうと手を振り当って終わるという、ちょっぴり感動的なフィナーレでした。

www.iisj.net

 本来ならば、このワークショップはスペイン北部のOnatiという街で開催されるはずでしたが、パンデミックのため、オンライン開催となりました。私は主催者の一人と懇意にしているのですが、どうしてもオンラインミーティングは情報交換が優勢になる傾向があり、そうすると踏み込んだ議論は回避されるか、過剰に対立的になりやすいという話をしたりしていました。結果的にそれは杞憂に終わり、本当によかったです。ファシリテーターがうまく話を引き出す仕切り方をしたことと、議論時間を長くとったことで、最初は硬く形式的な質問が多かったのですが、だんだんとオープンで自分の状況や心情を織り交ぜた、自由な発言が増えてきました。私にとってはオンラインミーティングのイメージを変える、いいきかっけになりました。

 それでも、「やっぱり会いたかった!」「バスクに行きたかった!」という声があがり、このプロジェクトが終わった後に、フォローアップのワークショップを再びOnatiでやりたいというコメントもありました。オンラインだからこそ、ヨーロッパだけではなく、ラテンアメリカやアフリカ、オーストラリアからの参加が可能になったこともあり、それはそれで素晴らしいのですが、そのあと「会って話したい人たち」が増えるのはもっと良いことだなあと思いました。

 今月、ほかに予定しているのはアジア犯罪学会(ACS2020)とヨーロッパ修復的正義フォーラム(EFRJ)のヴァーチャルシンポジウムです。ACS2020は、昨年の大会延期のあと、オンライン開催になりました。

acs2020.org

 私はグリーン文化犯罪学(Green-cultural criminology)の視点から、ポップカルチャーを用いた環境教育の可能性について論じます。具体的には、コミック版の宮崎駿風の谷のナウシカ」を取り上げます。

 EFRJでは、私はERJのワーキンググループのメンバーなので、パネルセッションで報告者の一人として参加します。こちらは水俣について報告する予定です。

www.euforumrj.org

 オンラインといえども、参加料は安くはないものが多く、なかなか気軽に参加をお誘いできるイベントではありません。報告内容はのちのち、論文やエッセイなどとして形にしていきたいと思っています。

 

 

*1:と言いつつ、ラーケン王立植物園の温室公開にはバッチリ行きました。美しかったです。

近況

 4月の初頭から、ベルギーに滞在しています。かねてより計画していたルーヴェンカソリック大学での研究をスタートさせました。現在、ベルギーはロックダウンを段階的に解除している状態です。カフェ・レストランは閉まっており、自宅待機を要請されています。大学の建物にはほとんどスタッフがおらず、私も自宅で研究をしています。

 私の研究スタイルは、もともと自宅で資料を読んで、論文を書くことを基本としていますので、こちらに来てもあまり生活に変わりはありません。ただし、ヨーロッパに来たことで、関連団体のオンライン・セミナー等に時差の問題なく参加できるようになりました。また、少数の研究者とは野外で会い、交流をしています。5月以降、研究環境がどう変化していくのかはわからないのですが、まだ英語に不安のある私としては、在宅で研究をしながら新しい場所に慣れていくのはありがたいと、今は思っています。

 そして、私の英語論文(査読付き)'Imagining a community that includes non-human beings: The 1990s Moyainaoshi Movement in Minamata, Japan'がThe International Journal of Restorative Justice, 2021 (1)で公刊されました。1990年代の水俣では、コミュニティ再生の事業である「もやい直し」が推進されます。「もやい直し」に積極的に関与した患者たちは、いわゆる「人間のコミュニティ」だけではなく魚や鳥たち、死者たちも共にある「非ー人間を含むコミュニティ」を構想していたことを論じています。そして、そのとき、非ー人間はコミュニティを再生させるためのシンボルとして機能していると、論文内で主張しています。思い切った提起になっているので、ご批判・異論もあると思うので、今後、フィードバックをもらいながら研究を続けていきたいと考えています。

www.elevenjournals.com

 現在は、英語論文・報告が主な研究発表になっていきそうです。論文は現在、2本用意しており、1本は近々、公開されそうです。私は英語での研究発表を始めると、スムーズに査読でのコミュニケーションが進み、「受け入れられている」という感覚も持てるようになりました。英語で苦労し続けている私が、日本語圏ではなく英語圏のほうが、論文を採用されやすいというのも変な話ですが。おそらく、修復的正義研究やグリーン犯罪学のように、学際的で開かれた分野とマッチしたのがよかったのだろうと思います。

 また、私は英語が苦手なだけに、言語に距離があるので、対象を突き放して問題を論じやすいのかもしれません。異なる文脈の人たちへ、繊細な被害者の言葉を伝えようとするときには、思い切った単純化をせねばならないことがあり、そのことへの葛藤はあります。それでも、たとえば別に地域の先住民差別や地域紛争の問題をやっている人たちと、水俣の話を繋げて考えていく回路が開け、新しい未来が見えてくるのならば、やる価値はあるのではないかと思っています*1。なので、今のところ、英語で書いていくつもりです。逆に、日本語では複雑で繊細なこと、情緒的なこと、文脈依存的なことを、丁寧に拾っていくようなものを書きたいとも思っています。

 それはそうと、私の日本語で書いた論文*2を、英語の本で参照していただいているのを発見しました。さっき見つけたところで、注文しました。

  私にとって、自分の書いたものが、本に参考文献として挙げられることは、初めてです。とても嬉しいです。どんなふうに言及されているのかドキドキしますが、届くのを楽しみにしています。

*1:私は漫画やBLについては、研究しようと思ったことはこれまでなく、エッセイなどの形で書いていきたいと思っていたのですが、英語であれば研究の中でも取り上げていきたいと考えるようになっています。

*2:http://www.philosophyoflife.org/jp/seimei201904.pdf

萩尾望都「一度きりの大泉の話」

 

一度きりの大泉の話

一度きりの大泉の話

 

  萩尾望都による、新人漫画家時代の回想録ではあるが、一番のハイライトは同居していた漫画家の竹宮惠子増山法恵らとの関係を告白的に述べている部分にある。増山の提起する「少年愛の世界」と、それにのめり込んでいく竹宮。そこから距離をとりながらも、彼女たちの交流に刺激を受け、一足早く独自の世界を描く作品として結晶化した萩尾。しかし、そのことは竹宮の嫉妬を招き、萩尾は一方的に彼女たちのコミュニティから追放される。

 人間関係としては珍しいものではないし、まとめてしまえば「よくあること」になってしまう。しかし、萩尾はそのときあったことを、自分の「見たこと」と「感じたこと」、その後に与えた影響を丁寧に叙述していく。そして、もう二度と彼女たちの関係は修復し得ないことを宣言している。

 客観的に要約すればこういう話だが、私はこの本を読んだ後、芋づる式に自分の中の記憶を引き出され、その晩は悪夢をみた。私は、萩尾の「残酷な神が支配する」が大好きなのだが、読むと具合が悪くなるのであまり読まないようにしている。

残酷な神が支配する(1) (小学館文庫)

残酷な神が支配する(1) (小学館文庫)

 

  上記の作品ほどではないが、萩尾の描き出す世界は、読者を過去の記憶や深い思考へ招き入れるところがあるのだと思う。個人的には、私も自分のトラウマと格闘して四苦八苦していたころに、英国・ブライトンの語学学校に少しだけ滞在したことがあり、萩尾もあの地で過去の記憶と対峙していたのかと思うと、感動した。そして、なぜ、「残酷な神が支配する」の有名な崖のシーンがセブンシスターズであるのかという謎も解けた。セブンシスターズは、日本ではあまり知られていない観光地だが、ブライトンのすぐそばである。私はブライトン滞在中はそのことに気づかなかったが、のちにセブンシスターズにも行ったことがある。

 さまざまな、萩尾や竹宮に対する論評が飛び交い、社会分析と結びつけたものもあるが、私にとってそれらはあまり興味のあるものではなかった。私にとって、萩尾の書いたものは、自分の内面世界に直結するものである。「私と萩尾」の話しか語れない*1

 私は萩尾が絶望に満ちた世界を生き延び、漫画家を続けてくれたことが本当にありがたい。これは当事者の手記なので、竹宮とは異なる視点で書かれているし、認識のずれもあるだろう。実際に「何があったのか」は、研究や取材によってのちに明かされるかもしれない。今回の手記を受けて「もう24年組とは言えない」とか「朝ドラにしてはならない」という声もあるが、これから何十年も萩尾や竹宮の漫画は読み継がれていくだろうし、ずっと将来に「新しい事実」がわかるかもしれないし、翻案された朝ドラが生まれるかもしれない*2。それは今ではないだろうが。彼女たちの作品は、時代を超えていっても輝くような高い完成度を持っているので、焦っていまなにかをいう必要はない。

 いま、手元にはないのだが、竹宮の「少年の名はジルベール」を読み返したくなった。事実を照らし合わせるためではない。こういう人たちが私に作品を届けていてくれたことを、改めて振り返りたくなるからだ。 

 

*1:偶然だが、エヴァの映画を観た時にもそう思った

*2:歴史を紐解けば、芸術家の人間関係はだいたい複雑で心痛むものが多い。「XX派」などと呼ばれるコミュニティは大体途中で分裂する。

近況

 ベルギーへ出立する日が近づいていますが、依然として先行きが不透明で気を揉んでいます。もう飛行機のチケットは確定していますし、海外転出届も出しているのですが、出国前のPCR検査で陽性になってしまえば渡航延期になるという、不安な状況です。

 他方、受け入れ先のベルギーのルーヴェンカソリック大学のスタッフとは、緊密に連絡が取れていますし、無事に入国さえできれば、ロックダウン下ではありますが、修復的正義の研究を進めていくことができそうです。朗報としては、英語論文が査読に通り、そろそろ論文誌で公開される予定です。EFRJの環境破壊における修復的正義のワーキンググループの議論も活発で、私としてはアートのアプローチによる実践の可能性を積極的に探求していきたいと思っています。

 一年ほど前からこのブログではポツポツと書いてきましたが、私はもともと若いときには文学やアートに関心を持ち、感性の世界で生きている人たちに強く惹かれていました。しかしながら、いろんな事情のなかで、政策や制度について思考をめぐらし、研究者として提言をするために修練してきました。その揺り戻しのように、今はアートの世界に再び惹きつけられています。それも、美術館や劇場で「芸術」と名指されているものではなく、ひとびとが暮らしの中で細々と積み上げてきた活動に強く惹かれます。

 私をそうした世界に連れ戻してくれたのは、やっぱり水俣であったようにも思います。そういしたことを考えながら、水俣についての新しい論文を書きました。以下のリンク先から無料で読めます。

小松原織香 「〈キツネに騙される力〉を取り戻す ― 水俣病を通した環境教育の可能性」『現代生命哲学研究』 第10号 (2021年3月):96-118

http://www.philosophyoflife.org/jp/seimei202105.pdf

 「私たちの世界にある、見えるものも、見えないものも大切にしていく」というもっとも素朴なところから出発して、もう一度、環境問題について考えていこうとしたときに、出てきたキーワードは「生命」でした。実は、『現代生命哲学研究』には第1号から投稿してきたのですが、10年経ってやっと初めて「生命」をテーマにした論文を書くことになりました。これもご縁なのだろうと思います。

 2021年度の研究ですが、在外研究も行いますし、英語での積極的な学会報告・論文執筆を進めていくつもりです。それに加えて、新しい日本語の本の出版の企画が進んでいます。そのうち、また詳しい情報をお知らせできると思います。

 さて、10年以上、運営していたTwitterのアカウントを先程、削除いたしました。ここ数週間、これまでTwitter上で、特定の研究者が嫌がらせに遭っていたことが明らかになりました。そこから、性差別的で陰湿な人間関係が暴露されています。研究者も人間ですから、嫌な奴もいれば、くだらない人間関係もあります。SNSに限らずとも、学会で陰口ややっかみを聞かされることも少なくありません。また、大学の予算難・人員削減に伴い、ポストをめぐるシビアな競争が激化しており、コミュニティの雰囲気は悪くなる一方です。私自身、先の見えない就職活動をずっと続けており、常に業績評価の競争の中で、精神的には追い詰められています。残念ながら、Twitterはそのような研究環境や人間関係を険悪にしていくツールになるようです。今回の件で、研究者としてTwitterを使い続けることは、心情的にはもうできないと思いました。

 Twitterには、楽しかった思い出もありますし、ツイートをずっと追ってくださった方には感謝しています。ありがとうございました。