あけましておめでとうございます。

 昨年は、初めての単著『性暴力と修復的司法』を出版できました。メールやTwitterなどで反響をいただいて、ありがたい限りです。

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

 「性暴力と修復的司法」のテーマは、私が10年以上取り組んできた課題でした。日本語の資料がほとんどない中、苦手な英語を勉強し、暗中模索しながら独学で研究を続けてきました。また、2015年には、海外調査を行うことができ、欧州で性暴力における修復的司法を実践している人たちと交流ができ、大きく自分の研究が進むことになりました。
 このテーマについては、最初から最後まで、自分の気持ちに正直に研究を続けてきて、賛否両論が飛び交うフィールドをまっすぐに歩いてきたという思いがあります。愚直にやってきたことが形になって本当に嬉しいです。出版にあたってお力添えいただいた方々、そして読んでくださった方々に感謝の気持ちでいっぱいです。

 今後の研究ですが、「性暴力と修復的司法」の研究は続けながら、同時に「環境問題と修復的正義」のテーマへも視野を広げていきたいと思っています。「修復的司法」と「修復的正義」は英語のrestorative justiceの訳語で、同じ意味です。しかし、これまで私は「修復的司法」の実践例を元に研究をしてましたが、これからは「修復的正義」の正義の概念の研究にも取り組みたいと思っていることから、訳語の選択を変えています。
 私が痛感しているのは、「法の枠組み」による紛争解決は極めて限定的で、当事者の思いを汲み取るにはあまりにも狭い範囲しか扱えないということです。法廷では司法関係者が中心になって裁判が進行し、当事者は専門家のアドバイスのもと、法的に有利な証言をしていくことになります。こうした法廷の役割は、社会に対する秩序維持や、加害者の処罰、被害者への補償金支払いの命令などにおいて、非常に重要な意味を持ちます。法廷における正義は法体系を基づいており、平等で論理的で冷静であることが求められます。他方、当事者が複雑な思いを話したり、被害者が十全に苦しみを表現したり、「謝って欲しい」と訴えたりする場には、法廷はならないのが現状です。当事者の「あふれ出るような思い」は法廷では行き場がありません。
 私は法的な正義とはパラレルに、オルタナティブな正義があり、それが「修復的正義」として概念化できるのではないかと考えています。そのことによって、これまで、法廷外で行われてきた草の根の「正義を求める活動」や「対話の試み」を再検討していくことで「当事者が求めている正しさ」の輪郭を浮かび上がらせることができるのではないかという仮説を立てています。ただし、これはあくまでも私の直感的なアイデアであって、まだ確固とした枠組みがあるわけではありません。私は決して器用なタイプではないので、少しずつ自分の中の考えをまとめ上げていきたいと思っています。
 その中で、私が新しいフィールドとして足を踏み入れたのは環境問題です。きっかけは、水俣に通い始めたことで、問題とは偶然的に出会いました。最初は細々と資料を読んでいたのですが、研究として取り組むうちに、環境問題の持つ複雑さに引き込まれていきました。環境問題は特定の「集団」が被害を受けます。このとき、ステークホルダーはコミュニティの中に入り組んだ形で相互依存的に存在しています。これは一対一の被害加害関係が固定されやすい犯罪の問題とは様相が異なります。環境問題の場合は、それぞれが置かれている文脈によって、問題後の行動の意味が変わってくることがとても重要になってきます。こうした状況の中で「正しさとは何か」という問いが私の中で浮上してきました。
 これまで、すでに環境問題では、「環境正義」「エコロジカル正義」などが提起されていますし、それらと「ケアと正義」の議論の連関も指摘されています。私は、「修復的正義」の研究で、それらと競合したり、優劣を論じたりするつもりはありません。むしろ、そこから汲み出せる問題の系を整理していきたいと思っています。もちろん、環境問題のステークホルダーの関係の中であらわになる「ジェンダー構造」にも注目していくつもりです。
 そういうわけで、今年も研究を頑張っていきたいと思います。よろしくお願いいたします。

性暴力被害者の告発をどう受け止めるのか?

 この記事は三部構成になっています。関心に即してお読みください。

(1)はあちゅうさんの性暴力の告発
(2)はあちゅうさんに対する批判
(3)告発した被害者と支援者はどのような状況に置かれるか

(1) はあちゅうさんの性暴力の告発

 いま、インターネット上で性暴力の告発が次々と行われている。きっかけは英語圏で始まった「#metoo」というタグである。過去に性暴力被害を受けていた人たちが、自分の経験を語り出した。日本でもTwitterを中心にして、性暴力の告発が続いている。
 その中で、作家のはあちゅう(伊藤春香)さんが、電通に勤務しているときに上司から苛烈なセクハラ・パワハラをされていたことを告発した。加害者は、はあちゅうさんを深夜に自宅に呼び出して「指導」の名目で繰り返し罵倒し、人格否定を行なった。また、はあちゅうさんの女性の友人を紹介させて性行為を行い、その友人を貶める発言をはあちゅうさんに聞かせた。この件については、友人を紹介したはあちゅうさんの責任を問う声もある。だが、加害者は「被害者が最も傷つく方法」を嗅ぎつけ、それを繰り返すものだ。はあちゅうさんにとって、「自分の友人を性的に傷つける」行為が、はあちゅうさん自身を深く傷つける方法であるとわかっているから、加害者はそうさせたのだろう。(はあちゅうさんはこの件について友人に報告し、謝罪している*1)告発は以下で詳細な記事となっている。(詳しい被害経験も書いてあるため、閲覧には注意が必要です)

はあちゅうが著名クリエイターのセクハラとパワハラを証言 岸氏「謝罪します」
https://www.buzzfeed.com/jp/takumiharimaya/hachu-metoo?utm_term=.awPmYPQGQ#.wklKj6dgd

 はあちゅうさんはこの告発に際して「良き被害者」の像を拒むことを明言している。告発後の個人ブログで、はあちゅうさんは以下のように述べている。

被害者であるなら品行方正を貫き、常に被害者としてだけ生きろ、
という認識のある方がいるとしたら残念に思います。

こういった証言をしたからといって、
今後、公の場で被害者としてしか
振舞えないのもおかしな話です。

私自身もセクハラ被害を訴える活動には協力したいと
思っていますが、それを仕事としたいわけではありません。

今後の活動の方向性についても質問を受けましたが
これまで通りに日常を発信していきます。

セクハラ被害を告発するかどうか迷っている人が一番恐れるのは
平穏な日常が奪われてしまうことのように思います。

私は自分に起きたことを語りましたが、
人生を奪われたわけではありません。

逆に言うと、被害者として振舞うことを
世の中に強要されるのなら、
人生を奪われたと感じるかもしれません。

普段通り元気に活動している姿を見せることが
私の今後の役割だと思っています。

今後ともよろしくお願いします。

はあちゅうBuzzFeedの記事について」
https://lineblog.me/ha_chu/archives/67293039.html

 以上のように、はあちゅうさんは、性暴力の告発後に「被害者としてだけ生きることを望まない」ことを強調している。これは、とても大事な点だ。
 性暴力の告発は「被害を語ること」だけでは終わらない。告発後に、当事者は周囲からの「被害者への視線」を浴び続ける。ときには、当事者のあらゆる発言が、性暴力と結び付けられる。たとえばそれは、「あの人は被害者だからあんなことを言うんだ」「あの人は傷ついているからそんなことを言うんだ」という邪推の言葉として現れるし、「あの人は被害者のくせに」「あの人だって加害者になってるじゃないか」という言葉に現れる。実際には、当事者にとって、性暴力は人生の一部ではあるが全てではない。当事者のすべての振る舞いや価値観が性暴力によって形作られたわけでもない。ところが、周囲の視線や言葉によって、当事者は「性暴力の経験」に縛り付けられることがある。これは性暴力を告発する際に、当事者に圧しかかる重荷である。
 はあちゅうさんはその重荷について、はっきりと「NO」の言葉を発している。この言葉を、私たち第三者は重く受け止めるべきだろう。そして、私はこの言葉は、次に告発する当事者へのメッセージにもなっていると思う。被害を告発した後も、いつも通り、明るく楽しく性的なジョークを飛ばし、微笑んでいる写真を出して、ポジティブシンキングな文章を書く作家として発信すること。至らない部分があることを隠さず、時にははしゃいで、羽目をはずすこと。ネットで炎上してしまうこと。いいことも悪いことも含めて、はあちゅうさんは「被害者」でありながら、「いつもの私」として生きていくのだろう。被害を経験したあと、当事者はどんなふうに生きることもできる。何かを諦める必要はない。そのことを、はあちゅうさんは身をもって実現することは、きっと同じ被害を受けた人たちへの希望になるだろう。
 誰もが性暴力の被害を受けることがある。特別な存在だから被害を受けるわけではない。被害を受けたから特別な存在になるわけでもない。性暴力のトラウマがある人も、性的なジョークを楽しむことがある。私は性暴力被害者の支援に関わっていて、どぎついジョークを言う当事者になんども出会った。自分の経験をジョークにする被害者もいる。性的に傷ついているからと言って、いつもみんなが泣いているわけではない。自分の苦しい経験を笑い飛ばすことで前を向こうとする当事者もいれば、単純にジョークが好きな当事者もいる。もちろん、ジョークを言う余裕もなく、笑えなくてじっと耐えている当事者もいる。その違いはトラウマの深さではない。いろんな人が被害にあうので、反応も人それぞれだというだけのことだ。そんなことはあまり知られていない。なぜなら、メディアに出てくる被害者は、いつも泣いていて痛ましい姿だけだからだ。もしくは毅然として告発する姿だけだから。その被害者の姿は「同情」や「賞賛」によって消費される。私はその「良き被害者」の像に抵抗することを支持する。

(2)はあちゅうさんへの批判

 告発に対してははあちゅうさんを支持する声が高まったが、一筋縄ではいかなかった。一つ目の理由は、はあちゅうさんがネット上ではよく知られた作家であり、もともと彼女に批判的な人が多かったことである。その人たちは「はあちゅうは嫌いだが、今回は支持する」という言及を、はあちゅうさんの告発に対して行なっている。二つ目の理由は、はあちゅうさんが、告発直後に「童貞」をネタにした性的なジョークを繰り返し発言したためだ。これは、童貞である男性へのセクハラであるという批判が起きた。
 はあちゅうさんは、後者の批判に対しては謝罪を出している。

はあちゅう「過去の「童貞」に関する発言についてのお詫び」
https://note.mu/ha_chu/n/n9f000c7bb226

 性的なジョークが難しいのは、それが期せずして相手を傷つけてしまうことがあることだ。そのとき「悪気はなかった」という言葉は免罪にならない。これは性暴力の被害者であってもなくても、同じことだろう。そのため、はあちゅうさんが謝罪したことは私も支持する。自分が「童貞である」ことに深い傷つきを抱えた人がいることは、私も知っている。だから、性的ジョークとして童貞をネタにしたことに反発する人が出るのもわかる。
 ただし、その性的ジョークへの批判が、「はあちゅうさんの性暴力の告発」をなかったことにする方向に進まないよう、気をつけなければならない。先に述べたように、性暴力の告発の重荷は、告発の後にのしかかってくる。その状況で、何をどう批判するのかという判断が、周囲の第三者には問われる。この点については、以下のブログ記事で丁寧に論じられている。

「セクハラの構造問題が議論されるべきなのに、被害者同士の殴り合いで発散していく地獄」
https://note.mu/fladdict/n/n666b0d9aaa4f

 上で書かれているように、童貞であることに深く傷ついてきた人たちが、はあちゅうさんに反発して怒りをぶつけたことに対しては、第三者は言えることはないだろ。その人にとって、大事な問題を第三者が「黙っていろ」と言うことはできない。しかし、この童貞の問題について「当事者以外もはあちゅうさんへ怒りをぶつけている部分があるのではないか」というのが上の記事の要点である。
 このことについては、これまでの性暴力の告発において、「当事者の一緒に怒ることが良いことだ」とされてきたことの功罪思う。私は一貫して第三者が怒りをぶつけることに反対している。はあちゅうさんの被害に対して、加害者に怒りを向ける必要もないと思うし、童貞のジョークに対して、はあちゅうさんに怒りを向ける必要もないと思う。重要なのは第三者の怒りではなく、「セクハラの構造」を明かしていくことである。
 その上で、ヨッピーさんの記事にも言及したい。ヨッピーさんは、インターネット上で活躍しているライターである。そして、Twitter上で、ヨッピーさんがはあちゅうさんの告発を後押しし、現在も連絡をとっていることを自ら明かしている。そして、以下のように書いた。

「〇〇は嫌いだけど、とかイチイチ言わなくていい。」
http://yoppymodel.hatenablog.com/entry/2017/12/19/124547

 この記事でヨッピーさんは、かなり激しい言葉で「今回の件みたいに、業務上の権力者が目下のものに対して日常的かつ執拗に行った逃れづらいハラスメントと、ネット上の発言によって不特定多数を傷つけることが同質のものではないことなんてみんな最初からわかっている癖に、「これもセクハラだ!同じだ!」って結局一緒くたにして叩いてる人いっぱいいるじゃないですか」と書いている。これは、「はあちゅうさんが受けた性暴力の被害」と「はあちゅうさんの童貞のジョーク」を等価だとみなして、相殺することへの批判である。
 ヨッピーさんは、はあちゅうさんから童貞のジョークに対する謝罪が出た後も、あくまでも「僕の1個人の意見です」と断った上で、以下のように書いている。

「あいつも同じ穴のムジナ」みたいな事言う人は本当にそれを今回の件と同質に並べて良い事柄だと思ってるんですかね。もちろん童貞を茶化すような発言で本当に傷ついてる人が居ることは理解するしそういう風潮が是正されるべきものであることは間違いないわけですが、それでも大多数の人が「嫌いだ」って言いたいがためにその件を持ち出してるように見えるんです。本当にそうじゃないって言いきれますか?

 このヨッピーさんの疑念について、インターネット上の多くの人は同意しないが、私は同意している。それは、単純に私がヨッピーさんを、単なる第三者ではなく、より被害者に近い「支援者」だとみなしているからだ。その立場の発言であれば、理解できる。
 ヨッピーさんはこれまで支援者と名乗ったことはないし、そのようなカテゴリにこちらが当てはめることは暴力的なことであり、本人には不本意かもしれない。けれど、もしかするとヨッピーさんの発言を、性暴力の「支援者」としての枠組みで捉えた時、見え方ががらりと変わるかもしれない。そのため、以下では一般論としての性暴力の「被害者」と「支援者」の話を書きたいと思う。
 あくまでも以下は一般論であり、これまで言及してきたはあちゅうさんの性暴力の告発とは、異なる面もあるだろう。私はかれらのことを、以下の論によって解釈するつもりもないし、説明するつもりもない。当人の言ったことや書いたものが全てである。他方、そうした発言や記事を受け止めるために、聞く側が共有した方が良い知識もあるように思う。それを念頭に置いて、読み進めて欲しい。

(3)告発した被害者と支援者はどのような状況に置かれるか

 それでは、性暴力の被害者と支援者がどのような状況に置かれるのかについて、宮地尚子「環状島=トラウマの地政学」を参照して考えてみたい。

環状島=トラウマの地政学

環状島=トラウマの地政学

 宮地さんは、性暴力に限らず、当事者と支援者が置かれた状況について、「環状島」の地形にたとえて説明している。環状島とはこんな島のことだ。(図は【宮地, p.7.】)

 環状島はドーナツ上になっている島のことである。島の中心部に内海を持ち、そこからすり鉢上に斜面になっており、山に囲まれている。その山の尾根を越えると、今度は外海に向けて斜面が続いている。宮地はこの環状島の図を用いて、当事者と支援者の置かれた位置を次のように示す。(図は【宮地, p.10】)

 これは環状島の断面図である。中心の内海の最も深部は「ゼロ地点」だとされている。ここは、言うなれば爆心地である。厳しい衝撃で粉々に吹き飛ばされ、死の証拠すら残らなかった当事者のいる場所である。そして、この内海には亡くなった当事者たちが沈んでいる。当事者は、その内海から這い上がり、島の外に出て行こうと向かうのが、内斜面だ。この斜面を登って当事者は外の世界に出ようとしている。尾根を越えた向こうの斜面にいるのが支援者だ。支援者は外側からこの斜面を登って、尾根の内側にいる当事者を助けようとする。外斜面をおりてしまった場所に広がる外海が非当事者の世界である。
 こうした環状島のモデルを使ってイメージすると、被害者が性暴力を告発するというのは、島の内海から内斜面を登り、尾根から外海に向かって発信することである。また、支援者は外斜面を登り、尾根までたどり着いて被害者を助けることになる。そして、宮地さんは、この尾根にいる当事者と支援者は、内海への〈重力〉に引きずられ、尾根を吹きすさぶ〈風〉に晒されるという。
 宮地さんのいう重力とは、主にトラウマの症状を指している。厳しい経験を語ろうとすればするほど、当時の痛みや苦しみが想起され、内海へ引っ張られる。被害者は必死の思いで内斜面を登ってきたのだが、重力はその被害者を内海へ引き摺り下ろそうとする。その中で、被害者は重力に耐え、踏ん張って尾根にとどまらなければ、性暴力を告発できないのである。
 同時に支援者も尾根にたどり着くと、そのまま内海まで引き摺り込んでくる重力に襲われる。性暴力の被害の詳細を聞き、深く受け止めて共感的になることで、支援者自身がトラウマを負うことがある(これは代理受傷と呼ばれている)。そのまま重力に負けてしまえば、内斜面をずるずると滑り落ちて、支援者も内海に飲み込まれてしまう。だから、尾根で告発する被害者を助ける支援者もまた、危険な状態に陥りやすい。
 次に宮地さんは〈風〉について以下のように説明している。

(前略)〈風〉とは、トラウマを受けた人と周囲の間でまきおこる対人関係の混乱や葛藤などの力動のことである。環状島の上空にはいつも強い〈風〉が吹き荒れている。内向きの〈風〉と外向きの〈風〉が吹き乱れ合い、〈内斜面〉も〈外斜面〉も同じ場所に留まりつづけるのはたやすくない。【宮地, p.28】

 登山の経験者であれば、尾根に吹きすさぶ風の激しさはよく知っていることだろう。内向きの風に晒される被害者は、尾根から吹き飛ばされて内斜面から転がり落ちそうになる。この風は、あるときは内海に近いほかの被害者の呻き声であったりする。「助けて」という声を振り切って、被害者は自分だけが尾根を越えようとする。そのことに対する罪悪感が被害者を襲ってくる。あるときは、内斜面の上から内海にいるほかの被害者に対して優越感をえるかもしれない。逆に、自分より尾根に近づいているほかの被害者に羨望の眼差しを向けるかもしれない。もしくは、同じ尾根に立っているのに、ほかの被害者の方が支援が集まり、注目を得ていることに失望するかもしれない。こうした風に耐えながら、被害者は必死に尾根に立ち、自らの性暴力の経験を語る。いつ転がり落ちてもおかしくない場所に立っているのである。
 他方、外斜面にいる支援者は、被害者を助けようと尾根近くまで必死に手を伸ばす。しかし、被害者の側はこれまで繰り返し、裏切られてきた思いがあるため、簡単にその手を取らない。支援者は、危険を冒して尾根の内側まで来ることを被害者から請われ、「どうせここまでは来られないだろう」となじられたりする。被害者は、確実に支援者が信頼できるかどうかを確認するために、尾根で支援者を試すこともある。この風が吹き荒れる尾根の上で、支援者もまた転がり落ちないように踏ん張っている。そのことにより、支援者は疲弊し、下山したくなっていく。また、よりどちらがより内斜面に近づけるのかという、支援者同士の競争もある。さらには外海の非当事者からも風が吹いていくる。「被害者を利用している」「支援者こそが状況を悪化させている」などの批判が、支援者に浴びせられる。ここで繰り返されるのは「偽善者非難」である。こうして支援者もまた、いつ転がり落ちてもおかしくない場所で、被害者の告発を支えることになるのである。
 私が性暴力の告発に際して念頭にあるのは、こうした被害者と支援者の状況である。だから、私は性暴力被害者に向かって、「告発した方が良い」ということはない。尾根では、重力と風に耐えることに疲れてしまった被害者を何人も見た。そのときに、被害者を置いて、自分だけ外斜面を降りていった支援者も見た。その被害者と支援者の間に何があったのかほとんどわからない。私も尾根にいるときは自分が立ち続けるだけで精一杯だった。私が被害者を置いて外斜面を降りていく後ろ姿を見た人もいるかもしれない。
 私は「尾根に立て」とは言えない。自分が尾根に向かったことがあるとしても、やはり言えない。尾根での経験こそが、深いトラウマになることもある。そして、残念なことに「尾根に向かったこと」の責任は、被害者と支援者にあるとされる。自己責任の登山なのだ。「十分な準備をしていたのか」「装備が甘かったのではないか」「天候を読み間違えたんじゃないか」「あの人は無事に登頂できたじゃないか」と外海からいろんな声が聞こえてくる。その状況を見て、尾根に登ろうとする人は足がすくむ。そのことを誰が責められるだろうか。誰も尾根に向かわなくなったとして、それは被害者と支援者が悪いのだろうか。
 それなのに、なぜ尾根に向かう被害者がいるのか。私はそれは、「あの尾根を越えてみせる」ことで、新しい世界を切り拓く力が被害者にはあるからだと思っている。尾根を越えようとする被害者は、内海や内斜面にいる被害者に背を向けなければならない。でも、ほかの被害者たちは、尾根に向かう被害者を見ている。あの向こうの世界に到達できるかどうかを、かたずをのんで見守っている。もしかすると、尾根を越えることによって、次の被害者も尾根を越えようとするかもしれない。また、尾根を越えられなかった被害者を見て、そのあとを引き継いで尾根を越えようとする被害者もいるかもしれない。尾根から内斜面を滑り落ちる被害者を受け止めようとする被害者もいるかもしれない。
 同時に、尾根に向かう支援者の後ろ姿を外海から見ている非当事者もいるだろう。支援者は非当事者の住む世界から遠く離れて尾根に向かう。そして、被害者の手を取ってこちら側の世界に迎え入れようとしている。その後ろ姿をかたずをのんで見守っている非当事者がいる。その非当事者も、また尾根に向かうのかもしれない。または、尾根から戻ってきた支援者や被害者を受け入れようとする非当事者もいるかもしれない。
 こうした尾根に立つ、被害者や支援者を見ている人たちがいることは、わかりやすい「社会を変える」ような行動にはならないかもしれない。なぜなら、黙って見ている人たちは、なかなか可視化されないからだ。それでも、こういう人たちの心を動かすことが、性暴力の告発の意義だと私は思っている。政策や法律を変えたり、裁判に勝ったり、わかりやすい変化を起こすことだけが告発の意義ではない。静かに人の心に、性暴力の問題を考える出発点を与えるような、告発の意義もある。
 以上のように、メタファーを多用して、一般論としての性暴力の被害者と支援者の置かれる状況について書いてきた。これはあくまでもモデルであって、具体的な被害者や支援者の関係に当てはめるようなものではない。その人の経験を、第三者が説明したり解釈したりすることは私の本意ではない。ただ、告発をした被害者、そして支援者が過酷な状況に置かれることはもう少し知られてもいいと思う。告発するというのは、簡単ではないし、二次加害の有無だけではなく、何重にも折り重なった複雑な問題なのである。

小松原織香『性暴力と修復的司法』

 このたび成文堂から『性暴力と修復的司法』を出版することになりました。アマゾンで予約が開始されましたので、お知らせいたします。

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

性暴力と修復的司法 (RJ叢書10)

 元になっているのは、博士論文「性暴力被害者にとっての対話の意義――Restorative Justice(修復的司法)の実践を手がかりに――」(2016年3月)で、出版に際しては大幅に書き換えました。特に、修復的司法に触れたことのない人にも、少しでもわかりやすく伝わるように、第一章の「RJとは何か」の部分は、力を入れて書き直しました。また、第四章では性暴力分野での修復的司法の実践について議論し、米国、アイルランドデンマークなどのセラピスト主導のプログラムも紹介しています。「実際にどんなことが行われているのか」「フェミニズムとの論争はあるのか」「心理セラピーとの関係はどうなるのか」などの疑問について、少しでも答えられるよう、ページを多めに割いて論じています。そして、第五章では「対話」と「赦し」について踏み込んだ哲学的議論に挑んでいます。こちらの部分はこれからの展開していくつもりですので、叩き台としてご意見いただけましたら幸いです。
 以下にサンプルとして、一部を掲載いたしますので、参考としてご覧ください。*1

*1:校正前の最終稿のため、本当は一部表現が異なる箇所があります

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マンガ作品の表現規制について

 私はマンガ作品が人間の価値観に影響を与える可能性を拝しない。価値観は社会的に構成される部分が大きいので、社会に流通するマンガ作品もその一部として機能しているだろう。私たちの性/性役割についてについても、マンガ作品が差別を深めたり、差別に抵抗する力になったりすることはあるだろう。その上で三点を述べておく。

(1)マンガだけが影響を与えるわけではない
(2)「性役割の固定化」と「性暴力」をイコールではない
(3)「表現物を理由にした性暴力」の言説の危険性

(1)マンガだけが影響を与えるわけではない

 私はかねてから、性差別の抑止のために表現規制をするのであれば、性差別的な記述のあるマルクスヘーゲルの文献についても検討すべきだと思っている。私は哲学・思想の学会に出席するが、そこではマルクスヘーゲルの研究者が差別発言を繰り返している。男女二元論による本質化を行い、学会で「女性の本質は出産することにある」と言い出したヘーゲル学者もいる。哲学の研究者は文献を精読し、朝から晩までそのことを考えている。よって、娯楽としてマンガ作品を楽しむ読者よりも、哲学研究者の方が表現物からの影響を受ける可能性は高い。かれらが性差別的な観念を頭に植え付けられてしまった可能性は大いにある。本気で性差別を撤廃するために表現規制をするならば、これらの哲学文献の研究の規制もすべきではないか。
 加えて言うと、私は表現規制には反対であり、性差別を助長するとしても、マルクスヘーゲルの研究を規制するべきではないと考えている。私自身、大学院のゼミでアリストテレスの「二コマコス倫理学」について議論する際に、そこに出てくる性差別的な表現を、出来る限り無視はしたが、苦痛であった。おそらくこの苦痛は男性研究者にはないものだろう。こうした苦痛の有無は男女の研究者の間の非対称性だと言えるだろう。それでも、「二コマコス倫理学」を読み、議論することは私にとって有用であった。なので、表現規制は必要ないと思う。転じて、マンガの中の性差別表現についても規制を求めない。
 さらに私が哲学の文献の話を持ち出したのは、たとえすべてのマンガ作品の性差別表現を規制しても、マンガ以外のこうした専門書の中でも性差別表現は跋扈している点を見逃して欲しくないからだ。そのため、女性の立場から、マンガ作品のみの表現規制は効果がないと考える。
 その上で、こうした文献やマンガ作品が性差別を助長することが、性暴力の助長することとは位相が異なる。私はマルクスヘーゲルの文献を読んで、性暴力を肯定する価値観が支配的だと思ったことはない。「性差別の助長」と「性暴力の助長」は異なる。そのことを(2)では述べたい。

(2)「性役割の固定化」と「性暴力」はイコールではない。

 少年マンガの性表現の有害性の話になると、必ず「少女マンガだって有害だ」という話を持ち出してくる人がいる。「ジャンプ」のカラーイラストに対して「性暴力を助長する」という批判が寄せられた件について書かれた、以下の記事を見てみよう。

 例えば娘が熱心に読んでいた、まいた菜穂12歳。』は、「ちゃお」の看板作品であるが、あれを読んでいると、女子が庇護されるべき存在という感覚とか、女子文化を理解する男子を待ち焦がれてしまうメンタリティとか、そういうものを知らず知らずのうちに植え付けてしまうのではないか、という批判が成り立つ。
 そういう少女マンガの刷り込みというのは、思った以上に深い影響を与える。
 藤本由香里は、

少女マンガのモチーフの核心が、自分がブスでドジでダメだと思っている女の子が憧れの男の子に、『そんなキミが好き』だと言われて安心する、つまり男の子からの自己肯定にある、ということを最初に指摘したのは橋本治である。(藤本『私の居場所はどこにあるの?』朝日文庫p.22)

と述べた上で、自分(藤本)はこの刷り込みの虚構性をその場で悟ったものの、最終的にこの少女マンガの呪縛から脱するのには20代の終わりまでかかったことを告白している。

「ジャンプお色気♡騒動」に思う
http://d.hatena.ne.jp/kamiyakenkyujo/20170707/1499363338

 ここで挙げられている例に顕著だが、これは「性役割の固定化」の問題である。それに比べて、「ジャンプ」のカラーイラストは、女性が衣服を剥ぎ取られているにもかかわらず、喜んでいるように見える表現から「性暴力を助長する」として批判された。この比較は対照ではない。なぜなら、上で挙げられた少女マンガ作品の中では「性役割の固定化」が行われていても、性暴力は肯定されるわけではないからだ。女性が「女子が庇護されるべき存在という感覚」を持っていたり、「女子文化を理解する男子を待ち焦がれてしまうメンタリティ」を持っていたりしても、それが暴力を免罪する理由にはならない。女性がどんな価値観を持っていても、レイプしていいわけがない。そもそも、「庇護されるべきだと思わないという感覚」や「女子文化を理解する男子を待ち焦がれないメンタリティ」を持っていたとすれば、性暴力を防ぐことができるだろうか。そんなことはない。ある種の性暴力加害者は狡猾であり、被害者のあらゆる弱みを握って、自分の欲望を満たそうとする。この比較はまったく対照的でない。
 それでは、少女マンガの中に「性暴力を助長する」という、ジャンプの件と対照的な作品があるのだろうか。少女マンガにも、性暴力を肯定していると取れる作品はある。有名なのは名香智子「PARTNER」である。

 この作品は1980年から1987年まで少女マンガ雑誌プチコミック」に連載された。社交ダンスがテーマではあるが、セックス描写も十分にある。この作品の中で、主人公の茉莉花は「初恋の相手・フランツ」からレイプされかける。しかし、途中でフランツは謝り始め、茉莉花への愛を語り、二人は交際し始める。茉莉花はフランツとのロマンスに溺れるように浸るのだが、途中から彼の身勝手さに愛想を尽かし、「あなたなんか死ねばいいのよ」と雪山に突き落として別れる。このエピソードの前半は「性暴力から始まる恋愛」を肯定しているようにも読める。だが、この作品はその「恋愛の形」を理想化しているというよりは、「現実にもありえる話」として読者に説得的に描いている。世の中にはこうした「恋愛の形」は皆無ではなく、女性が暴力に傷つきながらも、関係を築いていくことはある。その善悪は外側から断罪できるものではない。
 また、私はこの作品は「性暴力を助長する」可能性もあるだろうが、かつて「性暴力を受け入れてしまった女性」を力づけるものとしても機能するように思う。最後に茉莉花が、フランツに対して「勝手に死ねばいいのよ」という心の中で叫ぶ言葉は「性暴力から始まる恋愛」に対して、抵抗ののろしをあげているようにも見えるからだ。他方、この時、茉莉花は別の男性への助けを求めていて、やはり「女子が庇護されるべき存在という感覚」を持っていると言えるかもしれない。それが、茉莉花の弱さだと断罪し、性暴力被害に遭ったのは彼女のメンタリティが理由だと結論づけることができるだろうか。もし、そうする人がいるならば、その人はまさに「隙あらば性暴力の加害を行って良い」という、暴力的なメンタリティを持っていると言えるだろう。
 なお、「性暴力」に対する「被害者の抗い」を描いた少女マンガ作品が膨大にあることはいうまでもない。いくつか思いつくものをあげておく。
ラヴァーズ・キス (小学館文庫)

ラヴァーズ・キス (小学館文庫)

吉祥天女 (1) (小学館文庫)

吉祥天女 (1) (小学館文庫)

愛の時間 (FEEL COMICS)

愛の時間 (FEEL COMICS)

(3)「表現物を理由にした性暴力」の言説の危険性

 最後に現実の性暴力の問題から、表現規制の危険性について書いておきたい。表現物の影響で性暴力が行われるという言説は、性暴力加害者に「簡単に自己の行為を説明する道具」を与えてしまうことになることを指摘したい。これまでの現実の性暴力事件で男性加害者は「性欲が抑えられなかった」と供述してきた。それが警察官の誘導によるものである可能性が高いと、研究者の牧野雅子からは指摘されている。

刑事司法とジェンダー

刑事司法とジェンダー

 牧野は警察が容疑者の取り調べの中で、加害者に「性欲が抑えられなかった」という言葉を恣意的に誘導して言わせていることを明らかにした。そのため、加害者は誘導に応じて「性欲が抑えられなかった」と述べる。そのため、加害者はやはり「性欲が抑えられなかった」から性暴力行為に至ったと結論づけられているのである。こうして警察官によって、「性欲を理由とする性暴力」の言説が再生産されているのである。この中で性暴力加害者の現実は隠蔽される。
 同じことは今度は「表現物を理由とする性暴力」の言説でも起きる可能性がある。先日、性描写のあるマンガを描いている作者のところに、警察官が訪れて「作品の影響で加害者が性暴力行為に至った可能性があるので、今度は注意をしてほしい」という旨の申し入れをしたという事件があった。こうしたことが連続すれば、警察官が誘導によって「表現物を理由とする性暴力」の言説が再生産されることが、容易に推測できる。この中でも性暴力加害者の現実は隠蔽されていく。性暴力加害者は自己の行為についての責任を放棄し、言われるがままに供述することで、真実を隠したまま、捜査を乗り切れてしまうのである。
 こうした、わかりやすい言説の再生産は、加害者だけではなく、かれらを取り巻く私たちに対しても、「性暴力の現実から目をそらすもの」として機能する。表現物を理由にしていれば、私たちは「問題のある作品」を排除することで性暴力を抑止できる気分になるかもしれない。だが、いうまでもなく、性暴力加害者が性暴力に至る経緯は丁寧に掘り下げて聞き取り、分析する必要がある。現在は性暴力加害者の背景はある程度の類型化をした研究が蓄積されている。性暴力の抑止には、こうした研究と、それに基づく治療プログラムの開発・実践が必要だろう。そのためには金も人材も用意しなければならない。「表現物を理由にした性暴力」の言説が一人歩きすることで、こうした地道な研究や実践が後回しになってしまう危険もあるのである。

ザ・ノンフィクション「会社と家族にサヨナラ 〜ニートの光の幸せ〜」

 日本で一番有名なニートことid:phaさんを中心に運営している「ギークハウス」が、テレビ番組「ザ・ノンフィクション」に取り上げられた。

「ザ・ノンフィクション後編は25日放映です」
http://pha.hateblo.jp/archive/2017/06/24

ギークハウスは、30代前後の人たちが共同生活を行うシェハウスだ。「働かない/働けない」人たちが集まって暮らしている。主な運営資金はカンパや就労している人たちの出資で賄っている。プログラマなどのIT関係者の溜まり場というイメージも強かった。社会の「常識」や「ルール」に馴染めなかったり、精神疾患・障害を持っていたり、失職を繰り返したりしている人たちが共同生活をしている。同時に抜きん出た「個性」と「才能」を持つ人が数多く集まる場所にもなってきた。
 このギークハウスを取り上げた番組の中で私が引き込まれたのは、phaさんの「一人だけ生き残っても仕方がない」という言葉だった。phaさんは、何冊も本を出版するライターであり、ギークハウスの運営を展開している実業家である。いまも「だるい」という言葉をつぶやき、決められた場所で働くことはできないと言う。それでも、もう元ニートであって、十分に賃労働も社会参加もしている。そこで、やっているのは「みんなの居場所」を維持しようとすることだ。
 phaさんは「家族」という血縁関係や性愛関係での繋がりとは、別の形での共同体のあり方を模索する。利害関係でもないし、社会理念でもない。ただそこで、みんなが集まれる場所、というのは、人の流動性が高くなっていつも不安定だ。同じメンバーでやっていく約束は何もない。それも、ギークハウスは「ちゃんとした場所」ではない。雑然としているし、集まる人たちも個性が強く、好き勝手に動く。そういう場だからこそ、繋がれる人たちがいる。
 さらに、phaさんは、ギークハウスが引越しすることになったことを機に、二段ベッドをいくつも据付けることにした。「居場所のない人」を引き受けるためである。「家で引きこもっている」「親との関係が上手くいかない」「他人の家に居候している」などの行き詰まっているが、「お金がない」ために行く場所のない人が、転がり込めるようにしたのだ。民間のセーフティーネットだ。
 もちろん、本来的にはこうしたセーフティーネットは、福祉が担うべきものだろう。行く場所がない人には「支援」が必要だ。だが、phaさんは「支援」という言葉を使わない。「自分の周りに面白い人がいてほしいから」「そのほうが楽しいから」という言葉で説明する。phaさんは「支援者」の位置をとらない。やっていることが「支援的」であっても、おそらく「支援」をしたいのではない。私にはphaさんの取り組みは、「支援」とは異なる形で、場を作って「共に生きる」ことを目指すという、「基本に忠実な当事者団体」のやり方と重なって見えた。
 そして、もう一人、この番組でクローズアップされるのが、ギークハウスの常連、漫画家の小林銅蟲さんだ。小林さんは現在、イブニングで料理マンガ「めしにしましょう」を連載中だ。

小林銅蟲めしにしましょう
http://www.moae.jp/comic/meshinishimashou/1

 小林さんは、この連載を開始するまで大変な紆余曲折があった。一時期は、病気や引きこもりで外に全く出れず、親との関係も悪化して辛い時期が続いた。恋人の助けを借りて家を出て二人暮らしを始めたが、マンガを描くことで十分な定期収入を得るまで、長い道のりがあった。やっと、連載を始めることができると、小林さんはギークハウスの無職の人を、アルバイトに雇う。マンガを描くことをさぼらないように、隣で見ていてもらう仕事だ。もちろん、実際にマンガを描くために必要だから雇ったのだが、仕事のない人に「職を作る」ためでもある。小林さんはそのことをさらっと「還元したい」と語った。
 テレビで切り取られたこの生活が、どれくらい現実と一致しているのかは私にはわからない。内部に問題がないはずはないし、維持運営の経費や雑務の大変さを考えるとめまいがする。それでも、番組が描いた「夢」が伝わる人もいると思う*1。「私は与えられた」から「私も与えたい」という夢は、ロスジェネと呼ばれる私も含めたある世代が抱くわずかなキラキラしたものなのかもしれない。この世代は、「努力は報われない」ことが多く、「どこにもいけない」から辛い場所にとどまり続けた。そのことを恨むのではなく、次の人へのパスに繋げたい。そう思う時にこの世代の「光」の面が際立つ。もちろん、この世代の「影」の面が強くなれば「私は与えられなかった」から「私も与えない」に反転するのだろうが。

*1:個人的には、過去のいろんな人のことを思い出して泣いてしまったし、自分はこうした繋がりから離脱することを決めてしまった、という気持ちもある。

警察官が被害者に「処女ですか?」と聞く必要はない

 インターネット上で、警察官が性暴力被害者に「処女ですか?」と聞くのは、「処女の被害であれば強姦致傷になるからだ」という流言が飛び交っている。警察のセクシュアルハラスメント行為を正当化する言説であるので、訂正を求めたい。
 以下で(1)「強姦」と「強姦致傷」(2)処女膜損傷が「強姦致傷」と認められた判例(3)「強姦致傷」には診断書が必要(4)レイプシールド法の必要性について順番に書いていく。タイトル部の答えだけを読みたい場合は(3)から読んでほしい。
 なお、私は法律の専門家ではない。本来は専門家による解説が適切であるが、取り急ぎ書いておく。

(1)「強姦」と「強姦致傷」

 刑法では、「強姦」と「強姦致傷」は以下のように定められている。

177条(強姦)
暴行又は脅迫を用いて十三歳以上の女子を姦淫した者は、強姦の罪とし、三年以上の有期懲役に処する。十三歳未満の女子を姦淫した者も、同様とする。
181条(強制わいせつ等致死傷)
②第百七十七条若しくは第百七十八条第二項の罪又はこれらの未遂罪を犯し、よって女子を死傷させた者は、無期又は五年以上の懲役に処する。

 上でわかるように、「強姦」とは「女性対するレイプ」のことであり、「強姦致傷」とは「女性に対するレイプの際に、怪我をさせたり、死なせたりすること」である。なぜ女性に限っているかというと、日本の刑法では強姦は性器主義をとり、「男性の陰茎を女性の膣に挿入する」ことだからだ。男性に対するレイプは、強姦と認められていない。6月2日から始まった刑法改正の審議*1では、この強姦の定義を変更し、男性に対するレイプを認めることが含められている。
 「強姦」と「強姦致傷」の違いは、親告罪であるかないかである。強姦の場合は親告罪であるため、被害者が望まない限りは、検察官は起訴しない。それに対して、強姦致傷の場合は、検察官だけの判断で起訴が行われる。そのため、強姦の場合は被害者が起訴する/しないを判断しなければならないという重圧があり、「自己責任」状態になってしまっているので、こちらも現在の刑法改正の審議で「非親告罪化」が検討されている。ただし、性暴力の場合、裁判をするとなれば被害者の負担は大きくなる。そのため、検察官が一方的に起訴をすることが被害者にとって有益であるのかは定かではない*2
 さらに、「強姦」の刑期は「最低三年の有期懲役」である。他方、「強姦致傷」の刑期は「無期又は五年以上の懲役」である。懲役とは刑務所に入ることである。「強姦致傷」のほうが、刑期は長くなるが、それよりも重要なのは「裁判員裁判の対象になること」である。裁判人裁判の対象は、「無期又は死刑に相当する重犯罪」であるため、「強姦致傷」も含まれる。そのため、(ある程度の遮蔽はあるものの)一般の市民の前で、性暴力被害者は証言せざるをえなくなる。そのため、「強姦」ではなく、「強姦致傷」で起訴することは、被害者の精神的負担を大きくする可能性がある。このことについては、以下の記事が詳しい。

「強姦致傷罪での起訴は裁判員裁判以降、激減した」
https://www.buzzfeed.com/jp/kazukiwatanabe/prosecutor-did-not-indict-takahata?utm_term=.qbe0LrKK2V#.rpX6KkDDP3

 以上のように、より刑期の長い「強姦致傷」での起訴が、「強姦」での起訴よりも被害者に有益だという確証はない。また、法の運用上は、検察官の操作的な線引きになっている。

(2)処女膜損傷が「強姦致傷」と認められた判例

 それでは、処女膜の損傷を理由として「強姦致傷」が認められた判例を見ていこう。これは私がインターネットで調べて見つけただけなので、実際の運用上で、どの程度、この判例が使われているのかはわからないが、参照する。

事件番号  昭和34(あ)1274
事件名  強姦致傷
裁判年月日  昭和34年10月28日
法廷名  最高裁判所第二小法廷
裁判種別  決定
結果  棄却
判例集等巻・号・頁  刑集 第13巻11号3051頁
原審裁判所名  東京高等裁判所
原審事件番号  
原審裁判年月日  昭和34年5月30日
判示事項  強姦して処女膜裂傷を生ぜしめた場合と刑法第一八一条の罪の成立。
裁判要旨  処女を強姦して処女膜裂傷(処女膜の左後方に粘膜下出血を伴う〇・五糎の裂創)を生ぜしめたときは、刑法第一八一条の強姦致傷罪が成立する。
参照法条  刑法181条
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail2?id=55811

 ここで注目してほしいのは、1959年の判例だということである。今から50年近く前に下された判断であり、当時の性意識が反映されている。
 私はこれまで、数冊の性暴力に関する法律家のガイドブックを読んできたが、今までこの判例の検討は見たことがない。現代の性暴力の裁判に取り組む上で、重要な判例と言えるかどうか不明である。少なくとも支援者の議論では「処女膜損傷」の有無に重点は置かれていない。あえて現代的な観点で、この判例についてコメントするならば、「処女性を重んじる」という性差別的な偏見の強い判例であると言える。

(3)「強姦致傷」には診断書が必要

 実際に「処女膜損傷」を理由にした「強姦致傷」で訴えるならば、医師による診断が必要になる。その際には、加害者の暴力が処女膜を損傷したという因果関係を明らかにしなければならない。つまり、被害者の証言だけで、「処女の被害者であるから、強姦ではなく強姦致傷である」と認められるわけではないのである。したがって、警察官が性暴力被害者に「処女ですか?」と尋ねる不可避の理由はない。
 そもそも、性暴力の場合に、性器が傷つくことは、処女であってもなくても有り得ることである。だから、警察官は一律に「もし、痛みや出血があれば医師の診断を受けることができますが」と申し出ればいいのである。処女膜であれ、そのほかの性器の部分であれ、損傷があれば「強姦致傷」になるのである。(ただし、外陰部の損傷の診断は、非常に難しいこともこれまでの法医学の研究からはわかっているようだ*3。)
 また、仮に、性体験の有無を聞く必要が証拠の採取や捜査上、警察官や医師に生じた場合は、慎重な姿勢が必要であることも指摘されている。

(前略)見ず知らずの医療者や警察官などが、たとえ、診察上、あるいは、捜査上、それぞれに必要であったとしても、これまでの性体験の有無や直近の同意のある性交について、なんの前置きもなく、あまりにも唐突に聞いてしまうことがあるかもしれない。これは、被害に遭ったという者にかなりの心理的負担を強いると考えられ、場合によっては、相当程度傷つけることにもなりかねない。したがって、まず、なぜそのような質問をするのか、きちんと説明をすることが重要である。例えば、「外陰部に傷が見つかったり体液が検出されたり感染症の結果が陽性だったりした場合に、いつ、誰からの物かを考えないといけないので、今からお尋ねすることについて教えてください」などと伝えると、被害者も多少の心の準備ができると考えられる。
高瀬泉「法医学者からみた性暴力対応の現状」(『性暴力と刑事司法』、p.133)

 以上のような配慮があれば、性体験について聞かれた被害者の印象はまったく違うものになるだろう。できる限り、このような質問は避けるべきであるだろうが、もし、することになれば、質問者の心構えが必要になる。この質問の仕方が、被害者に「処女ですか?」と聞くのとはまったく違うということは一目瞭然である。(残念ながら、警察官だけではなく、医師もこうした配慮のある質問をできる人は少ないと考えられる。性暴力被害者を取り巻く厳しい環境は、司法の問題が大きいはもちろんだが、医療の問題も大きい)

(4)レイプシールド法の必要性

 ここまで見てきた通り、性暴力被害者に、性体験の有無を聞くことはできる限り避けるべきである。しかし、現状の刑事司法制度では、裁判においても被害者は事件以外の性体験について質問されることがある。そこで、米国にはレイプシールド法が制定され、被害者に過去の性体験について質問することが禁止された。以下のように解説されている。

この制度は、主尋問および反対尋問において、被害者が被告人やその他の者との関係で有した過去の性的行動に関する証拠について、その許容性を制限するものである。多くの州は、被告人との間の過去の性遍歴を証拠として利用することを制限し、その結果、それは非公開または裁判官室での審理でなければ認められないとし、また、同意の証明などの一定の目的のためにのみ許容されるとされた。各州はまた、被告人以外の第三者との間の過去の性遍歴を証拠として利用することを厳しく制限しようとした。その結果、それは非公開での審理でなければ認められないとし、また、同意の証明などの特定の場合にのみ許容されるとされた。特定の場合とは、性液の同一性、隠れた動機、過去の不実の告発の証明といった目的である場合が含まれる。いくつかの州は、同意や信用性を証明するために、性遍歴を証拠として利用することを禁止した。
斎藤豊治「アメリカにおける性刑法の改革」(『性暴力と刑事司法」、pp.171-172)

 以上のように、レイプシールド法の制定によって、性暴力被害者に過去の性体験を聞くことは厳しく制限されることになった。日本でも、導入を求める声がある。警察官だけでなく、医者、弁護士、裁判官、検察官に対しても、性暴力被害者に過去の性体験を聞くことに対する批判が、国際的にも高まっているということである。

性暴力と刑事司法

性暴力と刑事司法

女子のための「性犯罪」講義―その現実と法律知識 (Social Compass Series)

女子のための「性犯罪」講義―その現実と法律知識 (Social Compass Series)

*1:付け加えておくと、この刑法改正案はこれまで専門家会議を重ね、慎重に進めらてきており、今国会で重点的に審議されるはずであったが、共謀罪のために後回しにされた。

*2:私は非親告罪化には慎重な姿勢をとっている。性暴力被害者の支援活動に関わっていて、切実なのは被害者の「孤立」と「困窮」である。もちろん裁判を望む被害者もいるが、一部の性暴力問題に取り組む弁護士の「全ての被害者は裁判したいと思っている」というのは、経験的に嘘だと知っている。「それどころではない」「そんなことしたくない」と思っている被害者もたくさんいる。

*3:高瀬、pp.135-137.

「成人向け同人小説」を研究対象にする場合の問題について【追記あり】

 id:lisagasuさんからブクマコメ*1でコールをいただいていたので、「成人向け同人小説」を研究対象にする場合の問題について、簡単に私の意見を述べる。これは、人工知能学会に掲載された論文において、「成人向け同人小説」を作者に無断で分析対象にし、その固定URLを伏字なしに掲載した件について言及している。(この論文は立命館大学の管理するウェブサイトに公開され、誰もが簡単にアクセスにできる状態にしてあった。立命館大学側が事態に気づき、非公開に切り替えた。)
 私がこの件が問題であると考えるのは以下の4点である。

(1)研究テーマが表現の「有害性」についてものであったこと
(2)研究対象が「成人向け同人小説」であったこと
(3)研究の方法・内容に不備があったこと
(4)論文を非公開にする判断を下したのは「学会」ではなく「大学」であったこと(追記:こちらは事実誤認であることがわかっため、撤回)

(1)研究テーマが表現の「有害性」についてものであったこと

 まず大きな問題としては 研究テーマが表現の「有害性」であったことにある。どのような表現が「有害」であるのかないのかについては、議論が継続中であり、非常に扱いの難しい領域だと言える(追記3参照)。しかしながら、この論文の研究者は(おそらく法や条例の規制を念頭に置くことで)「有害であること」の基準についての自己定義を明確にしていなかった。そのため、ある作品を「有害だと評価すること」の妥当性と政治性についての検討が足りていなかった可能性がある。この件については論文が非公開になった以上、詳しく論じることはできないが、研究者が十分に配慮すべき点ではあると思う。

(2)研究対象が「成人向け同人小説」であったこと

 次の問題は、この研究が分析対象に選んだのが「成人向け同人小説」であったことである。同人小説は、商業小説とは異なり、個人が趣味の範囲内で執筆を行なっている。その頒布規模に関わらず、あくまでも個人の独立した創作活動であることが重要である。仮に、商業小説であれば、出版社などの関係者が、作品の執筆者とともに作品制作に関わることになる。同人小説の作者は、商業小説の作者よりも「弱い立場」にあると考えることができるだろう。こうした同人小説を、商業小説ではなく選んだという点については、恣意性があったと言える。その対象の選定の妥当性には疑問がある。
 また、同人小説の多くは二次創作であり、いわゆる「女性向け(男性同士の性愛描写を含む)作品」は、原作者またはその原作のファンに損害・不利益を与えないように配慮しながら、執筆活動を行なっている。できる限り、同好の者以外の目には触れないように努めるという文化がある。今回の論文で取り上げられた、小説の投稿サイトでも、作品ごとに細かくタグ付けがされている。これは作者は同好者だけが読むことができるように念入りに配慮をすることになっているということである。その配慮の是非や妥当性はここでは問わないが、いわゆる市場で流通する表現物とは異なるルールで創作活動が行われることは、この件では重要な点である。
 この論文では、研究者は「成人向け同人小説」の作者が行なっている創作活動の実態に、どれだけ関心を持ち、情報収集を行なった上で、研究を行ったのかについては疑問がある。「人」を対象にした研究(追記2参照)は、常に「そこで暮らしている人々」の生活を破壊する恐れがある。そのため、研究者は調査倫理として、研究する相手についての入念な調査と準備をしなければならない。これは、この論文が研究倫理の上で問われる点であると思われる。

(3)研究の方法・内容に不備があったこと

 論文が非公開になっているため、詳しくは検討できない。また、私は人工知能についての研究の手法についての知識はないため、妥当性はわからない。しかしながら、web上では、「サンプルが10件であったこと」「サンプルの選定基準が明らかでないこと」などについて批判がある。この問題については、論文報告を認めた人工知能学会によって、妥当性が検討されるべきだろう。

(4)論文を非公開にする判断を下したのは「学会」ではなく「大学」であったこと(この点については事実誤認であったことがわかったので、取り下げ。関係者へ陳謝の上、撤回いたします。経緯について追記1と4と5を参照。)

====撤回====
 最後に、他の3点とは異なる問題がある。それは、論文を非公開にする判断を「学会」に先じて「大学」が行ったことである。いうまでもなく、これは大学による研究者に対する「表現の自由」の抑制にあたる。ここまで書いてきた3点の問題があるため、私はこの論文は十分に非公開の判断を下す理由があると考えるが、その判断を下すのは誰であるのかは、十分に注意をしなければならない。
 研究者当人が、自己判断によって論文の非公開を希望する場合は大きな問題はないだろう。(その研究者の意思が、政治状況や権力関係によるものであることもあるが、その点はここでは問わない)次に、学会側が学術的な不備があることを認めて、非公開の措置をとることもあり得るだろう。学会は、学会員の研究の質の保障をする役割も担っているからだ。だが、大学側が非公開にする場合は、その判断の妥当性がどこから来るのかを明確にしなければならない。たとえば、研究倫理違反であるならば、研究倫理を管轄する大学の機関が判断を下すことになる。しかしながら、現時点ではそのような機関による判断であることは発表されていない。大学が妥当な理由なく、研究者の論文の公開を差し止めることについては、「表現の自由」の観点から問題があるだろう。
 このことを問題視するのは、今回とは逆の理由によって大学による論文の非公開の措置があり得るからだ。すなわち、「成人向け同人小説」を肯定的に書く論文が、それらの表現を認めない者から差し止めの請求があった時、大学の独断で非公開になる可能性があるということだ。この件では、大学側の「迅速な対応」は「実質的」には肯定的に評価されるだろうが、「表現の自由」を守る点からは慎重に見るべきである。
==========

 以上の4点が私の今回、問題だと思う点である。

追記1

 (4)について、この論文は学会判断で非公開になったという情報が寄せられている。私がツイッターの流れを見ている限り、論文に気づいた有志が立命館大学の事務局に電話をし、立命館大学側が「問題が重大である」と認識して非公開にしたという話になっていたように思ったが、リアルタイムでのやりとりだったため、真偽は不明である。そのため、この非公開のプロセスが正式に明らかにされた場合、(4)は私の事実誤認として取り下げる。
 なお、立命館大学は2009年に学生の「性に関する展示」を当事者に無断で撤去したことがある。そのことも念頭に置いて(4)については書いた。

トランスジェンダーとからだ」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20090126/1232970994

追記2

 この件が、「人」を対象にする研究かどうかの判断基準であるが、研究者の所属する立命館大学では「人を対象とする研究倫理」を以下のように定めている。

※「人を対象とする研究」とは、臨床・臨地人文社会科学の調査および実験をいい、個人または集団を対象に、その行動、心身もしくは環境等に関する情報を収集し、またはデータ等を採取する作業を含みます。
「人を対象とする研究倫理」
http://www.ritsumei.ac.jp/research/approach/ethics/mankind/

 こ論文の場合は、研究対象は「人」ではなく「作品」だとする見方もあるが、研究倫理では「概念上の問題」ではなく「実質上の問題」が問われる。すなわち、研究を遂行していく上で、周囲の人間に与える影響が問われるのである。
 さらに、この中に以下のようなチェックシートがある。

「【様式1】立命館大学における人を対象とする研究倫理審査」に関するチェックシート」
http://www.ritsumei.ac.jp/file.jsp?id=230390&f=.doc

 チェックシートの項目には以下がある。

<危険性>
(省略)
2. 研究対象者に対し、何らかの不快感や困惑、または精神・心理的な負荷や危害を及ぼす可能性があるものですか?
(省略)
4. 研究対象となる個人や集団が差別を受けたり、その経済状況や、雇用・職業上の関係、あるいは私的な関係に損害を与えたりするおそれのある情報の収集など、研究対象者に潜在的に不利益となるようなものですか?

 上のチェックシートでは「研究対象者」となっているが、この件では実質的に研究対象の作品の作者が不安感や困惑、または損害があったと申し立てている。この場合、やはり研究遂行の上では倫理的な問題があったと言えるだろう。
 ただし、上の記事本文を見てもわかるように、その場合に「データの使用許諾を取るべき」だとは私は考えていない。研究倫理への配慮は常にケースバイケースであり、決められた形式に沿うものではないからだ。逆に言えば使用許諾を取ったとしても、倫理的な問題が生じることはある。だからこそ、研究者個人の「配慮」の具体的な方法が妥当であるかどうかは、研究機関の倫理審査が判断するのである*2

追記3

 「成人向け表記」と「有害図書」の違いについて書いておく。「成人向け表記」(18禁表記)とは、表現者側の自主規制である。表現者がその表現を「誰に向けて書いたものか」を示すものである。これは表現者側の任意の指定であり、自由に行われる。他方、「有害図書」とは地方自治体等が指定する表現規制である。これは、ある図書を、何らかの価値判断によって公的に「有害」であると認定することである。両者は「自発的なもの」と「公権力によるもの」という大きな違いがある。
 さらに、「有害性」について、「どのような図書が青少年に有害であるか」についての有効な実証研究はない。なぜなら、研究調査において、青少年に実際に有害と思われる図書を閲覧させ、その影響を計測することは、研究倫理に違反するからだ。よって、図書の「有害性」の認定はなんらかの科学的な根拠に基づくものではない。そのため、「有害図書」の指定は、公的権力がある価値観によって「有害であるかどうか」を判断することになり、政治的判断として行われることになる。よって研究者は、その「有害性」の政治的判断について、精査し妥当であるかどうかは、独自に検証することが必要だと考えられる。

追記4

 ブコメで、この論文は人工知能学会の判断で非公開の措置が取られているとの情報をいただいた。

pixivのR-18小説を「有害な文」 学会が論文取り下げ 「検討するため」
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1705/25/news137.html

 しかしながら、追記1でも述べたように、この判断は大学側が学会側に先んじていたように推測できる、リアルタイムの流れがあったため、非公開のプロセスについては公式の発表が欲しい。ここはとても大事な点だと思っているので。

追記5

 ブコメで、この論文の非公開は大学に先んじて学会判断であったことが以下の記事に掲載されていることがわかったため、(4)はこれを覆す情報が出ない限り、撤回いたします。事実誤認についてお詫び申し上げます。

人工知能学会はBuzzFeed Newsの取材に対し、「本学会ならびに本全国大会の幹部で、本件について検討するため、いったん非公開とさせていただきました」と回答。非公開の判断に至った理由なども追加で問い合わせている。

立命館大学は「現在、事実関係を確認中」。大学としてコメントなどを発表する予定はあるか? という質問には「それも含め、対応は事実関係把握後に検討する」とした。

論文PDFの削除については、学会や論文著者から大学側に事前に連絡はなかったという。

「【追記あり】「モラルを疑う」pixiv上のR-18小説を“晒し上げ” 立命館大学の論文が炎上 今後の対応は」
https://www.buzzfeed.com/jp/harunayamazaki/jsai2017-r18?utm_term=.ex5WnjggQY#.vtxnDjAAR0

*1:http://b.hatena.ne.jp/entry/s/www.buzzfeed.com/jp/harunayamazaki/jsai2017-r18

*2:私は今の大学の研究倫理の審査については不満があり、十分に機能しているとは思っていないが、本来的には必要であるし、ないよりはマシという点で現時点でも審査での厳正な判断は重要だとは思う。