被害が継続中の場合、PTSDという診断名は使わない

 連続になるが、id:tikani_nemuru_MさんがPTSDに関する変な主張をしているので、批判しておく。

「科学はかならず被害者の力になる」
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20110908/1315440533

 簡単な説明になるがPTSDは二種類に大別できる。一つは単純性PTSD。これは一つの心身を脅かすような大きなインパクトのある出来事(災害、事故、暴力行為など)に巻き込まれることで発症する。もう一つは複雑性PTSD。これは継続した心身を脅かすような出来事(虐待、いじめなど)を経験することで発症する。両者の大きな特徴は、すでに心身を脅かすような出来事が終わっているにも関わらず、その出来事の影響で精神的に辛い状態になることだる。大きな災厄の「その後」に残される課題である。
 なので、出来事が進行中の場合には、ふつうはPTSDという診断名はつけないだろう。
 たとえば、DVで家で殴られている被害者が精神的不調をきたすことはよくある。当然それは暴力の影響である。この場合はDVと被害者の精神的不調との因果関係は類推できる。しかし、これはPTSDだろうか?
 PTSDとは精神医療の場での診断名である。医師にもよるが、今、精神医療で中心にあるのはDSMという尺度を使って、患者の精神状態をアセスメントすることである。今使われているDSM-4の尺度はGoogleで検索すると出る*1。なぜこうした尺度による診断が必要かと言うと、現在の医療現場はエビデンスベースと呼ばれる科学的な調査に基づく治療が主流に(なるように後押し)されており、各診断名には有効とされる治療法の選択肢がそれぞれあるからである。PTSDにはこれまでどんな治療法が有効であったのかを踏まえて、患者に治療が行われる。
 PTSDの場合はEMDRや持続的暴露療法などの治療法が有効とされている。また、薬物であってもいくつかの薬剤があがっており、たとえば抗うつ剤ならコレで、不眠に対してはコレというふうに有効性が示されている。もちろん、かならずしも有効とされた治療法がうまくいくわけではなく、精神科医の裁量に任される部分も大きいが、診断名に即して「この治療法がよく効く傾向がある」ということは押さえて治療が行われるということである。
 では、DVで家で殴られている被害者を、PTSDと診断してたとえば治療としてEMDRを行ったらどうだろうか。これは、視神経の作用を利用した治療法で、つらい出来事を思い出しながら、治療者の揺らす指や棒を目でおって眼球を動かすことにより、脳に刺激を与えることで、PTSDがよくなるとされている。しかし、これはあくまでもトラウマの治療法である。家に帰って殴られているときには、目を動かすより、暴力の対処法を考えるほうが優先である。ほかの、持続的暴露療法にしてもそうだろう。薬剤は効果はあるかもしれない。しかし殴られている中、薬で耐えることは被害者の選択肢にあってもよいと思うが、第一選択ではないように思う*2
 つまり継続中のDV下にある被害者に、PTSDの診断名をつけて、治療をすることにあまり意味はないということだ。
 では、DVは精神的につらくないのか。つらいに決まっている。PTSDというのは上にも述べたように、精神医療の場での治療の指針を得るための診断名である。精神医療の場を離れれば、それがPTSDであろうがなろうが、当人がしんどければしんどいし、つらければつらいのである。精神的負担とはそういうものである。だが、
 もう一つPTSDの診断名が有効な場所がある。それは司法である。たとえば、レイプ被害にあったあと、PTSDの診断書があれば、「強姦致傷」で起訴できる可能性がある。しかし、これはまた難しい問題があって、司法の場で、PTSD概念を用いることは難しく、十分に司法関係者に理解されていないという批判もあった。トラウマ研究で著名な宮地尚子が報告を書いている。

宮地尚子「PTSD概念をどう法は受け止めるべきか? 」
http://www.soc.hit-u.ac.jp/ISGI/staff/myjp/PTSD.pdf

宮地さんは、「『真にPTSDでありながら、適切にそのことが法的に認められない』事例がたくさんあると考えている」と述べ、次のように理由をあげている。

1)臨床現場では実際にはPTSDであっても、そう診断されることの方が少ないと考えられること
2)法的手続きが関わる場合は、PTSDの診断を避けたいと望む臨床医の方が多いと考えられること
3)被害内容の重い、また症状の重いPTSDの場合ほど、裁判までのプロセスに耐えられない可能性が高く、判例となるケースはPTSDとしてはそれほど重症でも典型的でもないものになる可能性が高いということ

上の記事は2002年のもので、犯罪被害者の権利を求める運動もあり、状況は変わってきているだろう。しかし、2)の問題は特に大きなものだろう。宮地さんは次のように指摘している。

精神科治療においては患者の「心的事実」が重要であり、それが事実かどうか、証拠があるかどうかを証明する必要はないし、証明しようとすることは多くの場合、治療の妨げになる。一方、法的手続きは、因果関係をはっきりさせようとし、動機をはっきりさせようとし、証拠をはっきり示そうとする。これは、精神科臨床とはあいいれない流れである。人の心はそれほど単純に、直線的に動くものではないし、目に見えるもの、後に誰から見ても証拠として残るものなど限られているからである。

宮地さんが書いていることは、たとえば虐待のトラウマを持つ人の治療にあたるときに重要となるのは、「その虐待が本当にあったかどうか」ではなく、その人が心に抱える「虐待」の事実をどうしていくのかを問題にするということである。また、その人のつらさが、客観的にみて虐待が原因かどうかを証明することも必要ない。しかし、司法の場では、「その虐待が本当にあったかどうか」こそが問題であり、虐待がそのひとの不調を引き起こしたことを証明しなければならない。これは、精神医療の場で行われる治療とは、相いれないということである。
 もちろん、司法の場でPTSDの概念を用いて闘うというのは、一つの選択肢ではある。しかし、もともと精神医療の場では、PTSDの診断名はそうした目的で使われるわけでない。医療の場のアセスメントでPTSDと判断することと、司法の場で現在の不調の原因である出来事の精神的被害を証明するためにPTSD概念を使うこととは別であるということだ。
 私がずっと関わっている性暴力の問題では「PTSD」の概念をめぐる議論はよくある。結論としては、「PTSD概念は、使いよう」ということである。正直な話、個々のケースであれば、精神科医の無知によって、(明らかなDVでさえ)被害を否認されることもある現状で、PTSDの診断名を得ることにそれほど意味はない。もちろん、トラウマ治療を専門とする医師や、知識の豊富な医師を探せば、実りはあるかもしれない*3。しかし持続的暴露療法やEMDRは保険が適用されない。1回1〜2万円程度の治療が10回続けば、あっというまに10万20万というお金がかかる。しかし、たいていきつい出来事にあった人は、仕事や生活環境を一度失っていることも多く、そうした費用をねん出することは簡単でない*4。福祉の支援をとるにも、PTSDよりはうつのほうが通りやすいだろう。
 というわけで、PTSDという診断名にこだわる必要はあまりないだろう。もう少し正確に言うと、精神的なつらさをPTSDという概念に集約する必要はないということだ。精神医療というと、精神科医が魔法のようにトラウマで傷ついた人を治してくれるようなイメージがあるかもしれないが、実際はだいぶん違う。地味に、生活を再建し、寝たり起きたり、ご飯を食べたり、お風呂に入ったりすることを、治療法・薬や精神科医の指導の力を借りながら、やっていく力を取り戻すだけのことである。
「あんなことがあったのに、世界はまた日が昇って、当たり前に日常が過ぎていく」
ということを、その人が受け容れていくのが、トラウマからの回復である。
 さて、tikani_nemuru_Mさんは、あるJCO事故で被ばくした女性のケースをとりあげる。彼女は被爆したあと精神的にきつい状態になりうつと最初は診断されるが、専門家によりPTSDと診断され治療を受け回復した。女性の夫は、彼女がPTSDにり患した原因である事故を起こしたJCOに対して損害賠償請求を行った。しかし、裁判では、別の医師が、原発事故では直接「悲惨な」状況を見ていないためPTSDにはならないと意見陳述をし、それが採用され敗訴した。

福島第一原発事故の精神的被害の補償について」
http://d.hatena.ne.jp/oizumi-m/20110521

上による司法の場でのPTSD概念の用い方の問題であろう。筆者は次のように記事を結んでいる。

(前略)心の被害は目に見えづらく、証明することも困難である。したがって国は、複数の医師の診断書があれば認めるといった、比較的簡素な証明で補償を認めるべきではないか。心身の被害の上に、さらに裁判などの苦痛を被害住民に課してその傷口をえぐり出すようなことは、絶対にあってはならない。

この主張は耳を傾けるべきだろう。司法の場での判断は、精神医療の上で有害であることもあるし、大きな負担になる。だからといって、心の被害について支援を行わないわけにはならない。司法の場での判断はなく、医療の場での判断をベースに、支援を行うことは一案である。この点ではtikani_nemuru_Mさんとは意見は一致するだろう。
 しかし、問題はその前の部分である。tikani_nemuru_Mさんは次の記事を取り上げている。

PTSD心的外傷後ストレス障害)は過去の心的外傷が原因で発症しますから、現在進行形の事態に対してPTSDを持ち出すことはそもそもおかしな話です。
また、あたかも「放射能を心配しすぎて」PTSDになるかのような説明は間違っています。「心配しすぎて」PTSDになったりすることはありません。
PTSDはレイプ、虐待、戦争体験、交通事故などなど、生命が危険にさらされる現実の出来事の後に生じる疾患です。
今、原発被害に関してPTSDを論じるのであれば、PTSDの予防ですから、「安全な場所に避難すること」と「事実を伝えること」が必要です。
http://d.hatena.ne.jp/eisberg/20110515

上のコメントは、ある大阪の精神科医フェイスブックで投稿したと言われるコメントである。これに対し、tikani_nemuru_Mさんは、上のコメントのを「現在進行形の事態に対してPTSDはありえないこと、放射線被曝を心配してPTSDになるのはありえないこと、PTSDは生命が危険に晒される現実の出来事のあとに生じること、総じて原発事故とPTSDとの関連を否定的に捉えている記事です」とまとめている。しかし、このまとめはおかしい。コメントの指摘は、PTSDは出来事の<その後>に起きることである。
 これは、先の女性の例でも同じである。女性は被爆し、その後、精神的に不調をきたしている。これはJCOの原発事故が一回性のものであったから当然である。ずっと被爆し続けたのではなく、一回被曝という出来事があり、その後PTSDを発症したと診断されている。なので詳細は分からないが、冒頭で私が2種類に大別した枠組みであれば、単純性PTSDということになるだろう。
 だが、すでにあらゆるところで言われていることだが、今回の原発事故がJCOの場合とまったく違うのは継続的な被爆が起きていることである。もしPTSDの原因が今回の事故が起きたことそのものであれば、JCOの事故と同じ単純性PTSDの可能性もある。しかし、上のコメントが指摘しているのは「『放射能を心配しすぎて』PTSDになる」という言説のおかしさであり、原発事故が原因で「放射能を心配し続けること(目に見えない恐怖にさらされること)」がストレスを受けPTSDになるならば、複雑性PTSDということになるだろう*5。だが、いつ、<その後>がくるのかもわからない。なので、やがてくる<その後>に備えて、上のコメントのように「『安全な場所に避難すること』と『事実を伝えること』」が大事だとなる。これはDVの被害者に伝えることと同じだろう。そして複雑性PTSDになるとしても、残りたいことが当事者にあり、それはそれでよいということだ。(実際のDV支援でも逃げない被害者はたくさんいるし、それでなんとかやっていく被害者もたくさんいる)
 またtikani_nemuru_Mさんは割愛しているが、上のコメントの最終部は、日本トラウマストレス学会の出した呼び掛け文を紹介しいる。

原発事故による避難者/被災者のメンタルヘルス支援について」
http://www.jstss.org/pdf/konishi0324.pdf

これは犯罪被害者のPTSDのケアの必要性を主張してきた精神科医で、性暴力被害者の支援にも携わる小西聖子が書いたものである。小西さんは次のように書いている。

不安が生じることは、「当然」です。現在の状況で不安がゼロになることはありません。しかし、それでも、多くの人の不安は、正常範囲内のものであり、医学的に治療する必要はないものです。不安を解消するためには、被爆があったとしてもなかったとしても、正確な情報が何よりも必要であり、不安な人には検査を行ってもらうことも役立ちます。正確な情報が無い場合は安請け合いせず、無用な不安は除くようにします。

そして、強い不安を抱える人に対しては、正確な情報を伝え、不安を受け止め、パニック発作が起きた時などは医療機関への受診を勧めている。非常にまっとうな支援策であるし、元のコメントを書いた人も精神的ストレスを軽視してなどいないことはわかる。
 というわけで長くなったが、結論だけ述べておく。

・被曝が続く今、被爆を心配することで精神的不調に陥るとき、PTSDという診断名は使わないだろう
・精神的不調が原因で体調を崩すことはあるが、それをPTSDと呼ぶ必要はない

ちなみに被爆を心配するストレスで精神的に不調をきたしたとき、精神医療の場で、どういう診断名がつくかはケースバイケースだと思う。外的ストレスに晒されていて、それが原因での不調なら「適応障害」かな、とは思うけれど。医師の方針や主義にもよるだろうし、何より治療上の判断なので、統一的な診断名はつかないだろうし、それが必要だというのもおかしな話である。当事者の訴える「精神的苦痛」は「精神的苦痛」であり、それに対する診断名が苦痛が何であるのかを説明するわけではないだろう。医療の場では、治療上は、そう判断されている、というだけの話である。

*1:http://www.google.co.jp/search?aq=f&sourceid=chrome&ie=UTF-8&q=dsm+ptsd

*2:補足:たとえばDV被害にあいながら、過去にあった別の暴力のPTSDの治療を行うということはあるだろう。ただそうした場合、一般的にEMDRや暴露療法などの治療対象からは除かれることが多いだろう。精神的に負担が大きい治療法なので、ある程度生活が再建され、治療に耐えられる条件が整っていることが大事なようだ

*3:偶然見つけた記事だが、小西聖子によればPTSDの暴露療法に取り組める医師は日本中で20人以下で東北にはいないとのこと。EMDRは全国でEMDR学会に登録しているメンバーが460名程度いるが、東北で実施できる医師は20人以下だということ【コメント欄でご指摘いただいて訂正。以前は、EMDRが実施できる医師が20名以下との誤った情報を載せていました。申し訳ないです】このPTSDの話は地震津波PTSD治療の文脈で発言されている。原発事故のことではない)http://flow-light-therapy.blog.so-net.ne.jp/2011-05-07

*4:上智大学は一回3000円だとのことhttp://www.info.sophia.ac.jp/helping/pe/contents05.html

*5:訂正した。以前は次の記述「放射能を心配し続けること(目に見えない恐怖にさらされること)」が原因でPTSDになるならば、複雑性PTSDということになるだろう