【震災】「避難」リスクと「被爆」リスクという変な二項対立について
id:tikani_nemuru_Mさんの「避難リスクは被曝リスクの何倍?」という記事が話題になっているが、このリスク計算はおかしい。
「避難リスクは被曝リスクの何倍?」
http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20110901/1314817487
この記事は、チェルノブイリ事故における「避難した場合の平均寿命の低下」と、「被曝して癌で死ぬ場合の平均寿命の低下」を比較して、「避難した場合のほうが平均寿命が短くなる」と結論付けている。そして、被曝するより避難する方が寿命が縮まるリスクが高いので、「フクシマ被災者は避難を避けるべき」だとしている。
どのような調査に基づいた避難住民の平均寿命低下のデータかわからない
tikani_nemuru_Mさんが、チェルノブイリ事故における避難住民の平均寿命低下のデータとして出してきたのが、ドイツ「シュピーゲル」でのインタビュー記事で、山下俊一*1ある。
チェルノブイリの経験から、心理的な影響が非常に大きいことがわかっています。チェルノブイリでは避難住民の寿命が65歳から58歳に低下しました。がんのせいではありません。鬱病やアルコール依存症、自殺などのためです。移住は容易ではありません。ストレスが非常に大きくなります。そうした問題を把握するとともに、その治療にも努める必要があります。さもないと住民の皆さんは自分が単なるモルモットだと感じてしまうでしょう。
http://ex-skf-jp.blogspot.com/2011/08/blog-post_9917.html
この山下さんが、どこからのデータで「平均寿命の低下があった」としているのかわからないので、どういった避難住民の集団に対する調査の結果であるのかわからない。おそらく、全避難住民を調査するのは無理であっただろうから、ある集団をサンプリングしたのではないかと思うが、避難先がチェルノブイリから近くなのか、モスクワなのか、遠隔地なのかすらわからない。また、縁故を頼ったのか、強制移住であったのかもわからないのである。上の記述でわかることは、当時のソ連の避難住民への十分な支援はなかったのだったのだろう、というデータがあってもなくても思いつく推測くらいである。
避難する場合と、しない場合の心理的負担の差を科学的に計測する方法
今回の原発事故では、「科学=自然科学」のイメージが強く、物理学や工学の人たちの主張に重きを置かれているが、「人文科学」や「社会科学」もれっきとした科学である。もちろん、各領域で方法論についての議論がある。たとえば、今回の避難住民の心理的な負担と、避難しない場合の心理的負担を比較するならば、どんな調査設計が可能だろうか。
たとえば、「移住するグループ」と「移住しないグループ」に、あらかじめ両グループに心理テストをする。そして前者のグループが移住した後、再度両グループに心理テストをする。二つのグループを、それぞれ心理的な負担に影響が出そうな「年齢、性別、子どもの有無、職種等」の項目によって分析する。そのあと、二つのグループの結果を比較し、違いがあれば、「避難した場合のほうが心理的負担がある/ない」を明らかにできるのである。
tikani_nemuru_Mさんの比較している平均寿命は、「避難する場合、しない場合の心理的負担の差」を出すには適切ではない。確かに、心理的負担によりうつ病やアルコール依存などを発症することは予測は可能であるし、それが平均寿命の低下を招くことは推測はできる。が、科学的な実証ではない。また、平均寿命の低下と心理的負担に因果関係があったとしても、たとえば心理的な負担を感じやすい人が避難する傾向にあり、このような事故の影響を大きく被ったという可能性もある。この場合、平均寿命の低下を招いたのは、「避難」ではなくその人の特性である。
「避難」によって寿命が縮む、というのはなんの科学的な実証にも基づかない主張である。
また、今回の福島での原発事故が起きたことで、上のような調査は可能かもしれない。しかし、ただでさえ事故によって、疲労困憊している被災者に、心理テストをして実験をするという行為に対する倫理的疑問が出てくる。少なくとも私はやりたくない*2。
移住に伴うのは、リスクではなくコストである
より、避難して移住する場合に困難が伴うのは、社会的弱者である。しかし問題は、上記のような「科学的実証に基づかない寿命の短縮のリスク」ではなく、生活の中でかかるコストである。
子どもがいたり、難病・障害があったりすることは、健常者の成人が生活することよりも不便が多い。なぜならば、健常者の成人が暮らすように社会が設計されているからである。日本の社会では、二足歩行ができ、会話による意思疎通ができ、就労が容易であり、さらには空気が読めることを必要とされている。それらが、成長の段階や障害があることによって困難であると、差別を受けたり、生活に必要なお金が十分に支払われなかったり、人間関係がうまく作れなかったりする。
そのため、かれらは通常以上に生活環境を整え、人間関係のネットワークを作ることに努力が必要であることが多い。そして、一度作り上げた環境やネットワークを作り直すために、健常者の成人よりコストを多く支払わなければならない。ただでさえ、コストを支払わされているのに、避難することでさらなるコストの支払いを負わされるのである。
これは、誰のせいか?原発事故か?――確かにそうだろう。電力会社は、社会的弱者に対して、より多くの補償をすべきかもしれない。けれど、そもそも社会設計が間違っているのである。この問題をなくすには、社会を変えるしかない。
かれらが支払わされるコストが多いから、かれらのために避難を避けるべき?そんなわけがない。かれらが望んだときに、不利にならないための資源の再分配を求めるべきだろう。
社会的弱者に対し「あなたが移住すれば、あなたは不利になります。だから私はあなたと一緒にここで暮らします」ということは、親密な関係であれば十分にありえる*3。だけれど、関係のない第三者が「あなたが移住すれば、あなたは不利になります。だからあの人たちは、あなたと一緒に暮らすべきだ」と言うべきではない。言うべきことは「あなたが移住しても、あなたが不利にならないような社会を求めます」だろう。
そして、このような言うべきことは、3.11以降に発生したのではなく、ずっとあることだ。「差別をなくせ」ということにすぎない。
QOL低下なんて簡単に言ってくれるな
「QOL(Quality of Life)」とは非常に議論のある。直訳して「生命の質・生活の質」とも呼ばれる概念であり、医療の場でいくつかの尺度によって点数化される。人文・社会学ではあまり評判のよくない言葉で、「人間が生きることに、他人が点数をつけることができるのか?」というもっともな疑問が提示される。実際には、「生活上で歩行や排せつなどができるか」「コミュニケーションがとれるか」などが尺度になるのだが、「QOLが極端に低いなら死んだ方が良い」というような主張が尊厳死の文脈で出てくることもある。当たり前だが、その人の存在は、「その人が何ができるか/できないか」で測られるようなものではないし、他人によって価値があるか/ないかを判断されるようなものではない。QOLがゼロであっても、その人の存在は認められなければならない。しかし、QOLを上げることを客観的指標として持つ医療者の側は、いくらケアしてもQOLがあがらない重度の難病の患者を前にバーンアウトしてしまう。
こうした厄介な議論も踏まえながら、「医療者が自分のケアを遂行できている」と確認できる指標としてQOLを再構築しようとしている人もいる。たとえば、厚労省の「特定疾患患者の生活の質(Quality of Life, QOL)の向上に関する研究班」の主任研究者であった中島孝はSEIQoLについて次のようにいう。
人間にはいろいろなことが起きます。SEIQoLでは構成の仕方をその個人に任せようとします。QOLはパーソナル・コンストラクトであり、「自分の人生において、大事に思っている領域や分野がうまくいったり、満足していることがQOL」と定義し、「そのようにQOLを構成してください」と患者に言います。その計画がscheduleです。そして、人間はそれを一度に考えようとしてもうまくいかないから、それを最低五つくらいの領域に分割して意識化し構成してもらいます。ある人は仕事がうまくいっていて、家庭生活がうまくいっていて……と考えていくかもしれません。そしてさらには自分は釣りもしたいし、いろいろな人とあってリフレッシュもしたい、とか考えていきます。重み付けをし、それぞれVAS(visual analog scale)という主観的物差しで評価することによってQOLを評価します。
(中島孝/川口有美子(聞き手)「QOLと緩和ケアの奪還」153〜154ページ)『現代思想 vol.36-2』(特集:医療崩壊――生命をめぐるエコノミー)
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さて、tikani_nemuru_Mさんは、病気になったらQOLが下がるとして、それを下げないように「健康に気を使え」と提言している。そして(科学的実証がされていない)避難住民の寿命の低下の例を示して、健康被害があるから移住するなと言う。しかし、上にあげた社会的弱者にあたる、たとえば難病患者はもうすでに病気なので(tikani_nemuru_Mさんの定義では)QOLがあらかじめ低ことになる。つまり病気でない健常者は、難病患者のようにならないように、避難するのを避けるべきだというのだ。こうした議論の枠組みは、QOLの概念を使ったときに陥りやすいものだ。
その罠を避けるためには、中島さんが提案するように、当事者がどうしたいのかを中心にQOLの概念も組み立てていけばいいという話になる。その人が避難したいのであれば、それを手伝うことがQOLを上げることになる。移住した先で支援が必要なら、そのネットワークを作ることがQOLを上げることになる。福島で暮らし続けたいなら、それを支援することがQOLをあげることになる。
移住せよとは言うべきではないし、残れとも言うべきではない
私は、震災直後に記事を書いていて基本的には今も考えは変わっていない。
「【震災】「逃げろ」「逃げるな」ではなく」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20110318/1300446072
放射能の飛散についてのデータや、これまでの研究についての知見があちこちで出されるようになり、低線量被爆についての議論も多くあるが、結論としては「よくわからない」のである。放射線に対する感受性は人によって違うし、まだまだ科学者同士でも議論の最中である。少なくとも、がんの発生率*4が少しあがることはわかった。これは「安全」ではないということだ。「そんな少し上がるくらい」と思うかもしれないが、科学の世界でゼロと0.1の間は大きい。そして、影響が大きいのは、子どもや妊娠可能な女性となっている。さらにわかっていることは、科学者の言ったことは撤回され、反駁され、あれやこれやどれが正しいのやらという混迷状態に簡単に陥るということだ。科学者はよく「私こそが正しく、みんな騙されている」という。それだけはよくわかった。
でも実はこれも今に始まったわけではない。繰り返されてきた公害訴訟・原爆症訴訟で明らかなことである。id:t_keiさんが以下の記事を上げている。
「地下猫さんとの議論について」
http://d.hatena.ne.jp/t_kei/20110829/1314629353
現段階で、迷って当たり前である。そこに、科学的な装いでリスクの比較を持ちだして、「フクシマ被災者が移住を避けるべき」などと言わせることはできない。いま、福島や、そのほかの地域で移住を考えている人たちに、残るべきなどと言えない。職を失うかもしれない、ネットワークを失うかもしれない、そんなことはみんなわかっている。わかっていて、選ぶことがある。その選択に絶対的な正しさなんかないけれど、信じる方に賭けるしかない。そういう当事者に、呪いをかけるのをやめろ。
以前の記事でも書いたが、DVから逃げる当事者に、私は重ねて見ているところがある。こんなエピソードがある。ある男性弁護士のところに、長年ずっと夫から殴られていた女性が、離婚したいと相談に来た。2005年の話である。弁護士は、その女性に「あと2年我慢したらどうですか?そうすれば、年金分割で半分もらえるから、生活費が楽になりますよ」と言った。(2007年4月より、離婚時に年金分割が可能になった)女性は泣いて怒った。弁護士は彼女が泣いた理由がわかるだろうか?殴られて、耐えて、殺されるかもしれないと思いながら、生活を保とうと必死に生きてきたけれど、もう限界で離婚すると決めて飛び出した時、「あと2年我慢しろ」を突き付けられること。弁護士の提案は、合理的である。DV被害者が逃げた後の生活再建で苦労することは、本当に多いし、経済的にも追い詰められる。けれど、そこで「我慢しろ」という言葉が彼女をどれだけ傷つけるか。
逃げていいのだ。科学的に根拠がなくて、合理的でなくても。なぜなら当事者だから。私たちには移住の権利がある。そして、いま被災者にはそれを選ぶ権利があって、それを支える義務が私たちにある。
そこに科学の力で介入しようとするならば、その人は徹底的にその科学性を問われるだろう。tikani_nemuru_Mさんは「自分は素人だ」と繰り返している。「だから何?」である。素人だから何か免罪されると思っているのだろうか。
追記
ブクマで次のコメントがあるので、一応書いておく(私は84年から00年まで神戸で過ごしている)
id:usi4444
阪神大震災時に地域を無視して仮設住宅に押し込んで共同体崩壊、孤独死続出を教訓にする必要があるよ。
阪神淡路大震災のときには、仮設住宅は抽選によって割り当てられたので、たしかにそれまでの避難生活でやっと再建できたコミュニティが寸断され、孤独に苦しんむ状況がたくさん生まれたし、今もそれは終わっていない。3.11以降、「阪神淡路大震災を教訓に」という言葉がよくつかわれるが、でもまだ現地では震災は終わっていない。帰ってこれない人はたくさんいる。今も離散民だ。それでも、たとえばトラウマケアセンターが立ち上げられて、臨床心理士による訪問が行われ、PTSDへのケアが震災後5年にわたって行われていた。まちづくり協議会は、壊された共同体を再建するために尽力した。もちろん今も、前の街には戻らない。でも復興は続く。
本当に阪神淡路大震災のときの経験を糧にするというならば、こういった本も出ているようなので読んでみてはどうか。
「県外避難者」
http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/library/117/evacuee.html
追記2
ブクマで、この記事に対して「避難リスクの軽視」という謎のコメントもついています。そもそも、震災の影響で移住した影響を「避難リスク」と呼ぶのは、tikani_nemuru_Mさんが広めた使用法ではないでしょうか?ぐぐってみたところ、他にも単発的にツイッターやブログで使っておられる方がいるようですが、ほかに多く流通している単語ではなく、tikani_nemuru_Mさんの先のエントリーをきっかけに広まった言葉のように思います。
震災以前から「避難リスク」という言葉は、保険会社が災害時の避難経路設計の際に、人々がそれぞれ出口に押し寄せたり、パニックが起きたりして負傷者・死者が出ることを呼び、それをシュミレーションするために使われているようです。論文はこういうかんじのようです。
用途毎の出火率や複数の火災シナリオの考慮や,危険性の低い室のスクリーニングには,リスクの概念に基づく建築物の避難安全評価手法が有効と考えられる。リスクの概念に基づく評価法は今までに数多く提案されている1)が,評価上死傷者の発生を許容することが法規制になじまないことやリスクの許容レベルなどが明確にされていないため,実際の避難安全設計に適用された例はない。このような背景の下で筆者らは,リスクの概念を避難安全設計に導入することを目的として,
建築空間の火災に対する人的損失(以降,避難リスクの大小に応じて設計火源を決定する設計手法の提案を行っている
池畠由華, 野竹宏彰, 山口純一, 田中哮義
「リスクの概念に基づく避難安全設計手法の開発 」
http://www.taisei.co.jp/giken/report/2010_43/paper/A043_045.pdf
移住によるストレスの調査は英語圏ではたくさんありますが、国境を越えたものが中心なので、国内移動のものは私はパッとでてきません。探せばあるんでしょうがグーグルスコラーで出たものを貼っておきます。
http://scholar.google.co.jp/scholar?hl=ja&q=immigrant+stress&btnG=%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=&as_ylo=&as_vis=1
しかし、移住によるストレスを真剣に考えるなら、日本の企業の転勤制度についてはみなさんどうお考えなんでしょうか。もちろん、職業的な保障はあるにせよ、とりわけ子ども時代に親の転勤にともなって引っ越しを繰り返した人が、そのたびに人間関係を作ることへのストレスを感じたり、故郷喪失のおもいを持っていたりすることを語るのは珍しくありません。また「夫の転勤について行く」ことになり、非正規雇用の就労により、転々と短期の勤務を繰り返す女性もいるのですが、これも人によっては大きなストレスだろうと思います。「避難リスク」を強調する人は転勤制度にも反対するのかな?