悲しい漫才(M-1グランプリ 2010)

 今日、M-1グランプリで、「笑い飯」が優勝した。例年、途中で負けて敗退しても、ボケをかまして笑いをとる西田だったが、今年は目が潤んでいた。それを見て、こっちまでグッときてしまった。私にとっても、2003年にみた「奈良県立博物館」のネタを見て大笑いしてから、長かったなあというかんじだ。
 去年のM-1で「笑い飯」が見せた「鳥人」のネタは、ずいぶん話題になった。首から上が鳥で、首から下が人間の「鳥人」というおじさんのネタである。そして、今年はそのネタのアレンジ版で、腰から下がトナカイで、腰から上が人間の「サンタウロス」というおじさんのネタだった。
 どちらも、異形のものが子どもの前に現れるという設定である。「笑い飯」は、その異形のものを排除したり、嫌悪したりすることて笑いをとるわけではない。驚いたり、突っ込んだりして、積極的に絡んでいく。奇妙なものと、子どもとのコミュニケーションというかたちがとられるのだ。もちろん、異文化理解という文脈で解釈してしまえば、ブラックな彼らのやり取りは面白みを失ってしまうだろう。けれど、どこか一線として、異形のものの、疎外されてきた悲しみみたいなものを拾い上げているように、私は感じる。だから、危ういネタをギリギリ面白がって見れるものにしているのだろうと思う。
 そんな「笑い飯」よりも、今年話題をかっさらったのは、「スリムクラブ」である。こちらは、ゆっくりとかすれた声で話す男が、「私はあなた(または彼)の知り合いである」と主張してくるが、ツッコミ役はそれに驚き拒もうとするというネタを作っている*1。ツッコミ役は、なんとかその男とのコミュニケーションを打ち切ろうとするのだが、いつのまにか男のペースに飲まれてしまうという構成である。これも、男の妄想ともいえない一方的なアプローチの悲しさを、ツッコミ役が突き放しきれないところが、下手をすると悲惨な光景になってしまいそうなネタを、笑いに持っていく。
 両コンビとも、政治ネタをブラックジョークとして挟み込んでいた。「笑い飯」は労働問題にさらりと触れ、「スリムクラブ」は唐突な形である時事問題に触れた。特に後者は、今大会で一番の笑いをとっていた。その一言だけ書き起こしても何も面白くないのだろう。しかし、テレビ画面では、冴えない風貌でぼそぼそ喋る男が、突然発した言葉に観客からの大喝采が起こった。単に意外性が受けただけでなく、毎日の生活の中で感じる政治への不満とクロスして、共感を呼び、「そうだそうだ!」と手を叩いてるような拍手だったように感じた。
 M-1グランプリは、年々レベルが落ち、飽きられているという風評もあった。今年で10周年をむかえ、それを機に終了となった。最後の最後で、耳目を集めたコンビが、両方とも、どこか悲しみを混ぜ込んだような漫才だったのが、私は印象に残った。両コンビを比べて、「スリムクラブ」のほうが面白かったという人も多くいるだろう。私も実はそう思っている。だけど、この9年間、M-1に毎回出ては優勝を逃し、この大会の立役者となってきた「笑い飯」が取ったことは、悪くなかったのではないかと思う。私ははっきりと「笑い飯」贔屓だったので、彼らがトロフィーを手にして、喜ぶ姿を見るのはうれしかった。おめでとう!

*1:別役実の「マッチ売りの少女」みたいだ