フィギュアスケートと採点

 ついに、バンクーバー五輪フィギュアスケート女子シングルの結果が決まった。一位はキム・ヨナ、二位は浅田真央、三位はジョアニー・ロシェットだ。キム・ヨナさんと浅田さんとの対決は、この五輪でも大きく注目を集めていた。そして、両選手には尋常ではないプレッシャーがかかった。その中で、キム・ヨナさんはパーフェクトに近い演技をし、浅田さんはトリプルアクセルを二度決めた。考えられないほどの高得点が飛び交い、レベルの高い試合となった。
 2日前のキム・ヨナさんと浅田さんとのショートプログラムでは、キム・ヨナさんが4点以上の差をつけてトップに出た。「高すぎるのではないか?」「浅田さんと、そんなに差があったのか?」などの、採点への疑念が海外のスケーターを中心におきた。*1
 実は、この採点への不満は、女子シングルよりも、男子シングルで問題化されている。一番大きなできごとは、エフゲニー・プルシェンコの復帰だ。プルシェンコさんは、ソルトレーク五輪で銀メダルを、トリノ五輪で金メダルを獲得し、アマチュアを引退し、プロスケートに転向した。3年もの間、アマチュアを離れた後、今シーズンになり突然のアマチュア復帰を宣言。瞬く間にトップ選手に返り咲いた。プルシェンコさんが強調したのは、4回転ジャンプを飛ぶことの重要性だ。
 プルシェンコさんが活躍し始めたナガノ五輪以降のシーズンで、男子シングルで勝ちたいのならば、何が何でも4回転ジャンプを決めなければならなかった。その背景には、プルシェンコさんと、ライバルであるアレクセイ・ヤグディンとの長い戦いがある。両者は、同時代にして傑出した天才スケーターと呼ばれた。お互いが技術を競い合う中で、男子シングルのジャンプのレベルは、周囲も含めて加速度的にあがっていった。ソルトレーク五輪、トリノ五輪では4回転ジャンプ抜きに戦うというのは、メダルを諦めることを意味した。だが、ソルトレーク五輪後、ヤグディンさんは怪我でアマチュア引退、プルシェンコさんもトリノ五輪後アマチュアを引退した。そして、ここ4年の間に、みるみる男子シングルの選手は4回転ジャンプを忌避するようになっていった。
 その理由には、採点方式がある。現行の採点では、難度の高いジャンプに挑戦して失敗するよりも、難度の低いジャンプを成功させるほうが大幅に良い点がつく。そこで、無理をしてまで4回転ジャンプに挑むよりも、3回転にとどめておいたほうが、無難に手堅く高得点が取れる可能性が高くなったのだ。
 その傾向に対して、プルシェンコさんは、公然と批判し、アマチュアに復帰した。「4回転ジャンプを跳ばない金メダリストはありえない」と会見で述べた。それに対して、エバン・ライサチェックは「そんなことはない」と反論。だが、高橋大輔は「僕はプルシェンコに賛同する。だから、4回転ジャンプを跳ぶ」と宣言する。プルシェンコさんは、そのとき高橋さんに礼を言い、握手している。
 こうしたやり取りの中、この五輪の男子シングルは競われた。プルシェンコさんは4回転ジャンプを3回転ジャンプとのコンビネーションで決めた。しかし、ミスも目立ち僅差で銀メダルとなる。ライサチェックさんは4回転ジャンプを跳ばず、確実な演技で金メダルをとった。高橋さんは、4回転ジャンプに挑戦したが失敗。そして銅メダルだった。この経緯をより詳しく解説しているのは、ライターの青嶋ひろのだ。

青嶋ひろの「高橋らメダリストたちが「守った」もの=フィギュア男子」
http://vancouver.yahoo.co.jp/news/cdetail/201002190011-spnavi

青嶋さんは、3選手の選択がいかになされたかについて、述べている。そして最後に記事をこう締めくくる。

 スピードスポーツやボールゲームでは、侵しがたい勝敗がつく。しかしフィギュアスケートというスポーツにあっては、本当の勝者は誰か? 審判による順位は厳然とつけられはするが、3人やそのほかのスケーターたちの順位、優劣は、見た人それぞれが決めればいいのだと思う。
 フィギュアスケートの豪快さや、4回転ジャンプを愛する人にとっては、プルシェンコが金メダリストだろう。
 スポーツではなく、パフォーマンスやアートとしてフィギュアスケートを楽しむ人には、当然高橋が金メダリストだろう。
 もちろんあれだけソリッドな演技を見せ、スポーツにもアートにも偏りなく、トータルでプログラムを完成させたライサチェクこそ、やはりチャンピオンだという意見も多い。

 あなたにとって、ベストなフィギュアスケートとは何か?
 メダルの色とは別に、自分なりに考え、評価し、支持し、自分にとってのベストスケーターを見つけることができれば、きっとこのスポーツをもっと楽しめるはずだ。
(青嶋、同記事)

なお、この後、プルシェンコさんは、採点方法への不備を指摘するために、政治行動に出るとの話もある。プルシェンコさんは、ロシアで議員も勤めており、次回のソチ五輪の誘致にも尽力してきた。そうした行動力をもって、採点方法、ひいてはジャッジへの選手からの異議申し立てが行われるかもしれない。
 かつて、6点満点の採点方式で、競技が行われていた頃、不正が明るみに出た。それまでのジャッジの主観による判定が問題視され、システマティックな採点チェック項目が作られた。いまは、できるだけ機械的に点数を振り分けるようになっている。だが、皮肉なことに、機械化されるほどに、不合理に見える採点結果が指摘される。それまで、この不合理は、ジャッジの人間性に帰されてきた。だが、今は、システムの不備として指摘される。新しい技術への挑戦について、機械的に評価ができるのか?そもそも、フィギュアスケートに採点など可能なのか?という問いが、改めて可視化される。だが、それらはこのシステムが作り出した問題ではなく、このフィギュアスケート競技そのものが持つ問題である。そして「人間がルールを作って競う」ことの持つ問題でもあるかもしれない。ともかく、「不備のある採点方式で試合が行われていること」が暗黙の了解となったこの五輪だが、波乱と激戦が繰り広げられたことだけは確かである。
 この男子シングルの採点方式をめぐる論争の裏で、日本のスケートファンを騒がせた選手がいる。ジョニー・ウィアーである。ウィアーさんは、優雅なスケーティングスタイルと、ドラマチックな表現で日本でも人気を集めている選手だ。従来なら女性スケーターのプログラムと思われていたような「白鳥」のプログラムを滑ったりしている。

また、ショーアップした演技と、サービス精神旺盛なパフォーマンスは、ほとんどアイスショーに近い。有名なのは、レディ・ガガの「Poker Face」のプログラムだ。

 ウィアーさんは、この五輪でも、フリースケーティングでほとんどパーフェクトのすばらしい滑りを見せた。会場は大興奮して得点を待ったが、思ったより高い点は出なかった。そこで、ブーイングが起きかけたのだが、ウィアーさんは人差し指を口にあて、「静かに、落ち着いて」と観客に向かってしぐさをした。次の滑走者・プルシェンコさんに迷惑がかからないようにの配慮である。多くの人は、ウィアーさんの上品な態度に敬意を表したが、それ以上に「あの手馴れたしぐさから、何度も思うように点が出ないことを経験してきたのだろう、と思わされた」という人もいた。ウィアーさんは、6位に終わる。
 競技後の会見で、記者が「自分の順位が不本意ではないのか?」と聞かれ、ウィアーさんは「あなたは(高橋)大輔の滑りを観ていなかったのですか?」と答えた(以下追記)とのうわさも飛び交っている(追記終わり)。ウィアーさんは、メダルをとれなかったので、この後に行われるエキシビジョンに出場できない。そこで、ファンが署名を集める動きもあった。しかし、本人はただ、「明日からもまた練習だ」と言い、3月の世界選手権や次のシーズンの話をする。そして、同じコーチについているクセニア・マカロワの応援をしていた。
 糸井重里がウィアーさんについてコメントしたようだ。バックナンバーが残らないほぼ日*2の「今日のダーリン」でのつぶやきだったので、ログをとっているかたの記事から孫引きする。

私が書きたかったことを、
糸井重里が、ほぼ日新聞で簡潔にまとめていた。さすがだ。

ぼくの、いま現在のいちばんの興味は、
男子フィギュアのジョニー・ウィアー選手です。
芸術の定義そのものがそこにいた、という感じです。
メダルだ、得点だ、観客だ、国だ‥‥どれも、
この人には関係ないよ、という印象に見えました。
やむにやまれぬ表現欲みたいなものを、
他の誰でもないじぶん自身に捧げている。
つくづく、そういうふうに見えました。


吉本隆明 ほんとうの考え』の
「010芸術」で語られていたような「芸術」を、
この目で見たぞ、という気持ちになりましたもん。
いやぁ、いいもの見ちゃったなぁ。

(hitsujiyama「Be Good Johnny Weir
http://d.hatena.ne.jp/hitsujiyama/20100220/p1

上のような糸井さんの文章に賛同する人も多いのではないだろうか。もちろん、自己満足的に表現を追及していては、五輪の最終グループでは滑れない。フィギュアスケートの戦いは、網の目のように張り巡らされた採点ルールとの戦いでもある。いかに、このシステムを自分の味方につけるのか、を計算せずに試合で上位にのぼることはできない。だが、そうした最上目標からスッとずらしたように見えるプログラムを作り、さらにはそれでも上位陣に居座ること。いったいどうやっているのか、まったくわからない。すぐに泣き崩れ、笑顔で手を振る様子からはとてもうかがえない、強靭な選手なのだろう。
 だが、ウィアーさんが、政治的なものを無視しているわけではない。この五輪では、一部のジャーナリストがウィアーさんの演技について、「攻撃的な」コメントをした。同性愛嫌悪を含む発言である。ウィアーさんはその件に対して、「男性性とか女性性とか、とても古くさいものだと思うんです。人種、性別、性の対象によって定義されない新しい世代がいるのですから」*3と言ったのである。また、子どもたちに、自分の世代と同じ問題を抱えさせたくないと訴えている。

日本語では以下の記事にまとめられている。

バンクーバー経済新聞 「米フィギュア・ジョニーウィアー選手が会見−「自分らしさ」をアピール」
http://vancouver.yahoo.co.jp/news/cdetail/201002260002-vancouver-keizai

日本語の記事では「自分らしさ」という言葉に集約されているが、実際にはもう少しフィギュアスケートという競技に問題を提起するものだっただろう。男子シングルと女子シングルでは、これまで別の技術と表現力が求められてきた。すなわち「男子らしさ」と「女子らしさ」である。男子は、年齢が進むごとに、力強くダイナミックであることを求められる。女子は、柔軟性やセックスアピールにも近い魅力を求められる。特に、20代に入った女子選手は、ほめ言葉として「女性らしい」という形容をされるようになっていく。
 90年代後半に活躍した、スルヤ・ボナリーという選手がいる。黒人で、女性だった。ハードジャンパーで、力強くダイナミックなプログラムを滑った。だが、彼女の評価は観客が「えっ?」と思うくらい低かった。まだ6点満点の採点方式であり、その理由もわからないままに、4回転ジャンプにチャレンジする彼女*4は、トップに立てなかった。柔軟性に富み、ビールマンスピンもこなすボナリーさんは、柔らかな表現を積極的に取り入れていった。だが、思うように点が伸びない。そしてナガノ五輪のフリースケーティングで、禁止されているバック宙を飛び、減点され、入賞もできなかった。ファンは、何度彼女の表彰台での悔し涙を見ただろうか。メダルを拒否し、問題になったこともある。
 こうした、ジェンダーをめぐるフィギュアスケートの問題は、華やかなメダル争いの裏側で行われる。プログラムでは、当たり前のように異性愛の物語が上演され、女性と男性は無理やり切断される。ウィアーさんは、男子選手の中で、初めてそうした「男子の枠組み」に<意識的に>トライした選手だろう。これからの「新しい子どもたち」にこんな思いをさせたくない、と言うウィアーさん。幼い頃、ウィアーさんはオクサナ・バイウルの演技を観て、フィギュアスケートを始めたという。
 五輪は、競技を通して、ナショナリズムだけではなく、ヘテロセクシズムや性差の分断も引き起こす。それでも、ここで行われる競技が魅力的だということ。常に喚起しなければならない問題である。

追記

ブクマ欄で”競技後の会見で、記者が「自分の順位が不本意ではないのか?」と聞かれ、ウィアーさんは「あなたは(高橋)大輔の滑りを観ていなかったのですか?」と答えた”というのはソース不明のコピペではないか、とのご指摘をいただきました。それで検索してみたのですが、確かにソースが出ません。(CNNのインタビューでのことだという話ですが、英語サイトでは情報を拾えませんでした)真偽ご存知のかたがいらっしゃいましたら、教えていただけたらありがたいです。

未確認な情報を載せてしまって、申し訳ないです。

追記 その2

 上のウィアーの発言ですが、サーチナのニュースにはあがっていたようです。(情報を教えてくださった方がいらっしゃいます。ありがとうございました)

フィギュアスケート男子、「女子より美しい」選手が話題に」(サーチナ・ニュース)
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2010&d=0221&f=national_0221_006.shtml

しかし、上の記事でも、ウィアーの発言がどこでどういうふうに行われたのか、という詳細は書いていません。とりあえず、いまのところわかっているのは、これだけです。

 コメント、ブクマ、トラバをたくさんいただきました。ありがとうございます。フィギュアスケートへの関心が高いことを、改めて感じました。中には、相変わらず「なんじゃらほい」と思うようなコメントもいただきましたが、そのへんはスルーしていきますので、よろしくお願いします。(コメ欄も、URLを貼り付けただけのものや、罵倒表現を含むものは削除します)
 採点制度について、次のようなコメントをいただきました。

id:ippo0822 キムヨナ選手については、クワド論争や採点方式の問題とはまったく別で、「GOEが爆点なこと」を見るべきなのでは。プルシェンコを中心とする問題とは実は関係なくて陰謀論はそこから来てるのではと思う

しかし、結局は「できばえの良い」3回転を跳ぶほうが、不安定な4回転を跳ぶよりも確実に点がとれる、ということがもたらしたことが、プルシェンコが中心として提起するクワド論争呼び起こし、採点方式への注目も集めている、という状況だと思います。
 私個人の考えは、キム・ヨナさんは現制度でGOEによる加点を稼ぐことにより、高得点が出せることを発見し攻略した先駆者である、というものです。それは現行の採点制度を設計したときには、設計者が予期していなかった抜け道だったのではないか、と考えています。すなわち、「誰かが、あるタイプの選手を優遇しようとして制度を作った問題」ではなく「設計者の思いもよらぬ形で、選手が得点を稼ぐようになったという問題」だということです。ただ、これは私の直感による推測ですので、陰謀論と同じく、根拠を持ちませんので、いちファンとしては、これから先の選手の行動や採点の実行の中で、見極めていくしかないだろうと思っています。
 次に、スカート義務の問題を指摘してくださったかたもいます。

id:hanapeko 女子シングルでボナリーのようなスケーターが評価されない(ここ数年は、上位グループに存在すらいない)のは、時代にそぐわないよね…。ただ、スカート義務が廃止されたり、少しずつ前進していると思いたい

かつて、カタリーナ・ヴィット選手のタイツやカルメンの衣装が議論になったことがありました。そして、女子スケートの「品位を守る」ために、スカートの着用が義務付けられていました。ですが、2005年―2006年には撤廃されています。今シーズンの中野友加里選手の火の鳥の衣装をごらんになられた方も多いでしょう。これまで、フィギュアスケートは変わってきたし、これからも変わっていく、と私も信じたいと思います。

*1:ちなみに、日本では、キム・ヨナと韓国政府を結びつけて、不正があったかのように煽る記事がブックマークを集めています。http://nereidedesign.jugem.jp/?eid=203後述しているように、フィギュアスケートの採点では過去に不正が起きましたし、可能性は常にゼロではありません。もし検証が十分だと思うならば、ISUに申し立てをし、実証すればよいと思います。ただし、この記事がキャンデローロを引き合いに出して、自らのキム・ヨナへの低評価を権威付けするというのならば、それは言うべきことがあります。それは、キャンデローロは4年前の荒川静香の金メダルを取ったフリースケーティングも酷評しています。彼の評価が確かだと考えるのならば、おなじく荒川の金メダルの評価も検証してみる必要があります。付記しておけば、キャンデローロは、浅田真央のファンであることを公言しています。浅田は12歳のときに、彼が開催したアイスショーに呼ばれています。私は、彼の熱烈なファンですが、彼の競技を観る視点が独特で、フェアであることよりもお気に入りの選手を追うことに偏っていることを知っています。その上で、キャンデローロを信頼するのならば、止めません。(彼こそをジャッジにするべきだ、というようなブクマも付いていて、苦笑しました。いくらファンでも……いやファンだからこそ、そんなこと絶対に思わないですよ)

*2:http://www.1101.com/index.html

*3:マサキチトセさんのツイッターより抜き出しhttp://twitter.com/cmasak/status/9668423940、英語ではマサキさんはこうとも「J. Weir Comments on Homophobic Remarks: "I think masculinity and femininity, it's sth thats very old-fashioned." Nice!」http://twitter.com/cmasak/status/9668320650

*4:追記:「トリプルアクセルを跳ぶ」と書いていましたが、私の記憶違いでした、申し訳ないです。