クリント・イーストウッド「チェンジリング」

*ネタバレしてます

チェンジリング [DVD]

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 公開からずいぶんと時間がたったが、「チェンジリング」を観た。私は封切り直後の映画館でも、友人と観たことがあり、二度目の鑑賞だった。密度の高い複雑な作品であるため、二度目の鑑賞でようやく落ち着いて映画として楽しむことができた。いくつかの批評があるようだが、宮台真司の寸評は勘所をうまく言語化している。

宮台真司「映画評:クリント・イーストウッド監督『チェンジリング
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=734

この評の上で、「<システム>に対する遅れ」を受動性に読み替えて、映画を観てみよう。
 主人公のクリスティンは、誘拐された息子のウォルターを捜している。彼女は、常に他人に押し切られて、息子を救うチャンスを逃してしまう。

・職場からの電話で押し切られて、息子を一人残して出勤することになる
・職場の上司に呼び止められ、昇進の話をすることに押し切られて応じ、電車に乗り損ねて帰宅が遅れる
・行方が見当たらない息子の捜索を電話で警察に求めるが、「明日の朝になったら帰ってきます」と押し切られ、初動捜査が遅れる
・「これがあなたの息子です」と対面した男児は、「別人である」と彼女は確信している。しかし「とりあえずつれて帰って」という警部の言葉に押し切られる
・「本当の息子を探してほしい」と警部に訴えるが「あなたが精神不安定になっているだけだ」と押し切られる
・市警の不正を暴こうと、宗教者のブリーグレブと共にマスメディアに訴えようとするが、警部にはめられて精神病院に監禁される

クリスティンは、常にウォルターの安全を守ろうと努力している。彼女はシングルマザーであり、職場でも認められている。はっきりと自分の考えを主張することもでき、できるだけ「取り乱すまい」と勤めている。一見、母の愛の強さを持って、果敢に能動的に他人に働きかけようとしている。しかし、実際には、常にクリスティンは他人に押し切られ、主張を通しきれず、最後には「精神異常者」とみなされて口を封じられてしまう。クリスティンの能動性は、必ず途中でへし折られ、受動性へと転換されてしまう。精神病院で、クリスティンは売春婦デクスターと出会う。彼女たちは固い絆で結ばれ、精神病院のスタッフに抵抗する。しかし、クリスティンはここでもやはり屈服させられ、電気ショックを当てられそうになる。
 こうした窮地を救うのは、ブリーグレブである。彼は自らが代表を務める団体を動かし、ロス市警を糾弾すると同時に、精神病院のクリスティンを救出する。また、ブリーグレブの紹介で弁護士が雇われ、彼がクリスティンを代弁する形でロス市警の聴聞会が行われる。同時に、ヤバラ刑事により、ウォルターを含めた少年たちを誘拐し殺害したゴードンが逮捕され、裁判にかけられる。クリスティンが映画の後景に退くと、物語は一気に展開をみせるのである。受動的なクリスティンを理解し、寄り添おうとする男性たちの助力で、事件の真相は明らかになり、解決へ向かうと思われた。
 ところが、ゴードンの発した一言でクリスティンの能動性がもう一度触発される。ゴードンは「ウォルターを殺していない」とクリスティンに直接言うのである。ブリーグレブや弁護士は、ウォルターの死を受け入れるように説得していたのだが、それを跳ね除けて、また捜索を始める。そして、一向に手がかりはなく時が過ぎた。二年後、今度はゴードンから「ウォルターを殺した。会いたい」と告白する電報が届く。クリスティンは実際に面会に行き、真実を確かめようとする。ところが、ゴードンは一転して「言いたくない」と繰り返す。またもやゴードンに押し切られるかたちで、クリスティンはウォルターの生死が確認できない。クリスティンはここでも能動性をへし折られ、知ることができない受動性へと転換させられる。
 数年後、クリスティンは日常生活を取り戻しつつあり、上司との親密な関係も築き始める。ここに、同じくゴードンの被害者家族である女性から連絡が来る。彼女の息子は奇跡的に発見され、家族の元へと帰る。ここでまたクリスティンは能動性を触発される。そして作品の最後でクリスティンは「確かなものをつかみました」と宣言し、それは「希望です」と笑顔で言う。そしてクリスティンは生涯、ウォルターを探しつづけたことが、テロップで観客に伝えられる。
 ここで、この作品の奇妙さがみえてくる。典型的な娯楽映画では、主人公の目線と観客の目線は、一致するように作られている。そして、主人公が能動的に行動すればするほど、事件の真相は明らかになり、解決に向かうのである。ところが、「チェンジリング」では、主人公のクリスティンが能動性を発揮すればするほど、窮地に陥り物語は展開しなくなる。その能動性がへし折られて受動性に転換すると、クリスティンを取り巻く状況は改善される。この映画で、主人公はまったく活躍しない。だが、無力なわけでも、作品外の存在であるわけでもない。彼女は「へし折られる」という役目を負わされているのだ。
 (警察)権力と闘い、たとえ一人になっても息子を探し続けるクリスティンは強いといえるかもしれない。そしてそれは「母の強さ」と呼ぶことができるかもしれない。だが、その強さとは「へし折られ続けることに耐える強さ」なのである。一つ前の記事でid:son-of-lauren さんが次のようなコメントをくださった。

ちょっと逆説的ですが女は受動的でいなくてはいけないけど甘えは悪くて、男は能動的でいて甘えは良いという図式がある気がする。男が甘えられるために女は受動的になれるタフさ(周辺に留め置かれる境遇に耐える精神を持たされるという意味で)を要求されている。そしてそれは強調されてはいけない静かなタフさであり美徳であってそれが女だけのブルースとして女という文化コードを作りもする。
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20091224/1261639347#c1261722085

son-of-lauren さんは、男女間の恋愛関係において上のような指摘をしておられる。だが、私はもう少し押し広げて考えてみたい。すなわち、「母性」と「女性性」が結び付けられ、それが恋愛関係を作るうえでも影響を与えていると考えるのだ。son-of-lauren さんが示す関係性の最たるものは、「母―息子関係」ではないだろうか。息子は能動的だが、(未熟であるので)母に甘える。母は、能動的な息子の成長を受動的に見守るが、息子の甘えを受け止める。こうした「母―息子関係」は、男女間の恋愛関係で反復されることがある。*1son-of-lauren さんの指摘に当てはまるのは、そうした反復された恋愛関係を想起させる。そして、「母性」が女性に求められるのは、男女間の恋愛においてのみではない。子どものいる女性は、社会の中で行動するときに、いかに「母性」的であるかのかを問われる。クリスティンに求められ、クリスティンが応じた母性とは、まさにson-of-lauren さんの分析に当てはまるような性質のものではないか。
 クリスティンは、たびたび目を見開き唇を振るわせる。ときには、真っ黒なアイラインを溶かしながら涙を流す。彼女はそうして打ちのめされ、受動性に押しやられる役割を負わされている。彼女は何度能動性をへし折られても、受動性に甘んじない。能動性を取り戻し、またへし折られる。そしてその暴力の反復に耐える姿が、「母の愛」として賞賛される。物語の最後で、クリスティンは能動性を失わないための「希望」を得たという。それは、暴力の反復から逃れる道を選ばないということだ。息子がみつからなかった歴史的事実を述べるテロップは、彼女の能動性は依然とへし折られ続けたことの、観客に対する報せとなる。
 多くの示唆を含んだ映画であるが、私は徹底的に屈服させられるクリスティンの姿を、賞賛することはできなかった。しかし、彼女の行ったことは、何であったのか。

成熟と喪失 “母”の崩壊 (講談社文芸文庫)

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*1:ここで私が想起するのは江藤淳「成熟と喪失」である。