間抜けな狐はブドウを食べる

 イソップ童話に「狐と葡萄」というお話がある。のどが渇いた狐が葡萄をみつける。ところが高い所にあって、手が入らない。すると狐は「あの葡萄はすっぱくて食べられたもんじゃないよ」と言って立ち去った。これは、フロイト防衛機制の説明に引用するエピソードだ。人は、叶えられない願望を諦めるときに、その対象の価値を低く見積もることで、自分の行動を合理化する。その例としてあげられる。
 id:aurelianoさんが、次のような記事を書いている。

「きみが食べそこなったのそのブドウはけっして酸っぱくなどない」
http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20090722/1248188493

 この寓話で肝要な点は、「ブドウには手が届かない」ことである。人は、手が届かないものには、どんどん欲望を掻き立てられる。合理化という心理的な防衛術は賢くない。多くの場合、人は合理化している自分に気づいているし、ずるずると「あのとき食べられなかったブドウ」の思い出を引きずるのである。食べていないブドウの甘味は、想像の中でエスカレートしていき、この世で一番おいしい食べ物として理想化されることもある。他人が「あのブドウは酸っぱかったよ」と教えてくれても耳に入らない。もし、目の前にブドウを差し出されても、それがブドウだとは気付かないかもしれない。なぜなら、もう追い求めているのは、あのときのブドウではなく、自分の中に描いた夢の中のブドウだからだ。
 私はaurelianoさんの記事を読んだ時に、次のブックマークコメントを付けた。

「酸っぱいブドウ」の寓話の肝は「決して手が届かない」ことにある。悔しさをなめつくした上で、私たちはブドウを諦めることも、食べる想像に留めることもできるのが救いかな。

ネガティブ極まりない。そのあと、インターネットで検索していると、こんな絵本を描いている人がいた。

イソップ物語 すっぱいぶどう」」
http://44prism.com/ehon/aesop/budou/m/

この絵本に出てくる狐は、なんて間抜けなんだろう。散々ブドウが欲しいと騒いだあげく、それを目撃されたら恥ずかしいと思い悩み、とりたちのうわさを聞いて「すっぱいのか」と大笑いしたのに、夜にはこっそりオコボレを拾いに行く。そして狐は、ブドウで汚れた手と口のまま、ずっととりたちをまっているのだ。狐は、また、とりたちのオコボレをもらおうと思っているのだろうか。それとも、とりたちにお礼を言うつもりだろうか。なんにせよ、観ている方が恥ずかしくなるような愚かな狐である。
 でも、私は森下広一よりも、この狐になりたいな、と思った。