広河隆一「NAKBA パレスチナ1948」

 映し出されるのは、虐殺である。道端に転がる腕。笑顔で駆け寄る子ども、目を見開き口から血を垂らして死んでいる子ども。
 私が、今まで、パレスチナに関連して、一番衝撃を受けたのは、次の文章である。

 「暴力の連鎖」、「イスラエルパレスチナは互いに殺し合いをしていて、どちらも悪い」、「パレスチナ人=テロリスト」という表象のされ方を耳にするたびに、私は舌打ちしたい気分になる。「暴力の連鎖」、「互いに殺しあう」という表現は、五〇年以上にわたるパレスチナ人に対する占領、植民地化という重要な要素を曖昧にする効果をもたらしているような気がする。占領者と被占領者としてのポジションの差異を認識することなく、パレスチナ人に対していい加減な表現を繰り返すということ。これはまぎれもなく、パレスチナ人に対する暴力である。

清末愛砂「パレスチナ日記」『現代思想 臨時増刊思想としてのパレスチナ』2002年、79ページ

私がこの文章を読んで、最初にしたのは、自己弁護である。しかし、それはあまりにも空しかったし、すぐに底が知れた。私はパレスチナに関して、あまりにも無知である。今、現在進行形で、人が殺しあうその場所について、知りたくなかったし、何か抽象的な文言で片付けてしまいたかった。
 「NAKBA」では、映像で次々に悲惨な場面が映し出される。そこには憐憫や同情を喚起させる(あの、日本のテレビ番組でおなじみの)ナレーションはない。映像は、これらを事実として伝えようとする。安全な場所から、分析や政治スローガンを口にする気にはならない。
 当然、同時に、パレスチナという場所で、人々の生きる姿は映し出される。難民キャンプで生きる姉妹。占領に抵抗するイスラエル人。土地を奪われた人たち。奪った土地のキブツで、思い出話を語る人たち。原理主義者のイスラエル人。笑顔をみせ、生き生きと働き、強い視線で夢を語る。記憶をまざまざと思い出し、怒りと悲しみで震える。誰が悪いとか、何をすればいい、とか、どういえばいいのか。
 悲惨さに目を奪われながら、そこで生きる人々の具体的な生き様が挿入され、状況を認識しようとする理性と、映像に飲み込まれそうな感情の揺れが、手持ちカメラのブレともあいまって、すっかり酔ってしまった。硬直して、終わったあとも動けなかった。たかだか、2時間の映画である。何がわかったかといえば、何もわからなかった。それでも、わかるべきことなのだ、ということは、わかった。
 キブツで暮らしているユダヤ人女性は、ポーランドのトレブリンカから来たと行った。トレブリンカは、ユダヤ人虐殺が行われた収容所があった場所である。映画「ショアー」によって、有名になった。そして、「NAKBA」の終盤で、パレスチナ人の歴史研究者は次のように憤る。

「世界の人々はホロコーストには興味があり、証言を集め記録して本を出版している。しかし、パレスチナ人の証言はウソだと言われてしまう。なぜ?彼らは人間で私たちは動物だとでも?それを聞きたい。な
ぜ?」
(65ページ)

 私はここまで衝撃を受けていながら、いまだに自分がパレスチナという場所に対して、安全で居ることを知っている。なぜなら、彼らが私(のアイデンティティ)を名指しして攻撃することはないからだ。これがコリアの問題であれば、私はもっと辛かっただろう。私はパレスチナという場所を他人事としか捉えられない。想像力のなさ。感受性の鈍さ。この他人事であるという私の冷淡さが、そういった情緒的な欠陥に基づいていたとしても、それを補うほどの情緒が努力によって私に備わるとも思えない。
 ホロコーストは、アーレントによる「陳腐な悪」としての合理主義批判を受け、抽象化して自分に直結して考えることができる。それは、アーレントのような優れた思想家がいるからではない。ホロコーストはもう終わってしまったことだからだ。しかし、パレスチナは、まだ、今も、この瞬間に、殺し/殺されている。その圧倒的な具体的状況と、私がこうやってPCの前で座っている状況を、つなぐことなどできない。唯一パレスチナという場所と、私を直結する方法は、私がこの身をパレスチナに運ぶことだろう。
 しかし、私はこの場にとどまる/とどまりたい。そうしてしまえば、何を言っても、絵空事でしかなく、現実のパレスチナには迫ることはできない感覚に襲われる。では、黙るしかないのか。今回、私は、冒涜的な絵空事であっても、パレスチナという場所と、私のいる場所を無理やりつなごうと思う。

 下の記事に、ダムに水没する灰塚の住民の話を書いた。彼らもまた、土地を奪われた人々である。だが、パレスチナで起きている状況とは、まったく違う。彼らには、十分な殺し合いでない闘争の時間と話し合いの時間と補償があった。そうした上で、納得して彼らは、生まれ育った土地を手放した。そして、アートを通して、土地を手放したというストーリーを、象徴的な「船を作って、山に乗っける」という寓話にして昇華した。
 パレスチナと灰塚はまったく違う。しかし、それは灰塚の闘争が悲惨でなかったことを指さない。そして、私のように一度も土地を奪われたことのない人間にはわからない苦痛を、パレスチナの人とはまったく違う形であっても、灰塚の人たちは知っている。映画に寄せて、野中真理子は次のようにコメントしている。

バリケード封鎖もシュプレヒコールもない。
ふしぎなダム闘争のものがたり。
船をつくる人々は
血を流して倒れる道を行かず、
思考停止で沈黙する道を行かず、
よいしょヨイショと生きて行く道を行く。
船、山にのぼる」パンフレット、15ページ

たとえ、灰塚であっても、闘争の最中には、こんな帰結はだれも想像しなかった。それでも、人々はなぜか船を作り、山に乗せた。そして生活が続く。
 パレスチナと、この牧歌的な灰塚の風景を、比較したり同一視することはできない。まったく違う。しかし、違うのだけれど、この違う二つの線はずーーーーーっと先のほうで、つながるのかもしれない。
 パレスチナ問題を解決するには、パレスチナであれ、イスラエルであれ、また土地を奪われる人が生まれるだろう。そこに流血は避けられないように思われる。しかし、和平は必要なのだ。この状況を「しかたがない」などとは絶対にいえない。祈る気持ちで、夢を語るように、「時間をかけて話し合えば、きっと和平は可能である」といい続けるしかない。私のいる、この場所でそれを口にすることは、陳腐でしかないが、露悪的に振舞うこともできない。
 灰塚の映画のように、人々がパレスチナという場所を手放す*1日は、0.000000000...1パーセントくらいの確率であるかもしれない。そう信じて、行動するしかない。*2

*1:「手放す」とは比ゆ的な意味である

*2:何をすればいいのか、という点は、相変わらず何も答えが出ていないが。