決断主義と非政治的人間の間にとどまる
id:mojimojiさんが、誰に宛てたでもないであろう記事に応答する。たぶん、賛同している部分もあれば、批判している部分もあるが、逐一あげることはしなかった。
私は、弱い人や傷ついた人に寄り添おうとするときにこそ、もっともためらい、慎重になる。そして、寄り添い方が適切でない人がいれば、その問題に関心すら持たない人々のことはさておいてでも、その人のことを批判するだろう。寄り添うことは近づくことであり、近づくことはもっとも傷つけやすくなることである。二次被害が起こりやすいのは、まさにその寄り添おうとする人たちと当事者との関係性においてである。二次被害は、その時系列において二番目なのであり、ダメージの大きさは二番目ではない。場合によっては、一次被害よりも、当事者のダメージは大きくなる。
私が声高に、ためらいと慎重さを寄り添おうとする人に批判を向けるのは、あまりにも運動の中で切り捨てられ消費されてきた/いる当事者が多いからである。そして、寄り添った/寄り添ったつもりの運動家は、次の問題に目移りし、二次被害を受けた当事者はその場に放置される。そして「あのころは、大変だったのよ」と運動家の美化された思い出だけが語られ、口をつぐまされた当事者は生贄にされる。その繰り返しが、今まで続き、今も続いている。大手を振って歩いてる。*1
私は、この状況を肯定しない。二次被害が起きてからでは遅いのだ。そして、批判する。批判されることにより、萎縮して運動が続けられない人もいるかもしれない。けれど、運動するというのは、批判に身を晒す覚悟を必要とする。もちろん、この理屈は私自身にも向けられるのであって、いつもやめたいと思う。黙って「私のささやかな幸せ」を追い求めようと思う。しかし、幸か不幸か、問題はあっちこっちから飛び込んできて、気が付いたらまた当事者とぐちゃぐちゃにまみれている。たまに、私はこれが自分の意志なのかどうか、わからなくなる。
しかし、それでもこれは「私の意志である」としか言いようがない。「当事者を搾取しているのか」と聞かれても「いいえ」と答えてよいのか迷う。迷うが「いいえ」としか答えられない。しかし「当事者を搾取している」と言われれば、とにかく話を聞いて議論するしかない。逆に言えば、「搾取している」と指摘する側だって、自分の意志でやっているのであり、一つの運動である。反論されたら、答えるしかない。常に批判に自己を開くことだけが、唯一、運動において運動家が持ちえる倫理であろう。*2要するに、政治に適切な方法などないのだ。間違っているのならば指摘すればよい。しかし、指摘された側は、その指摘をしたという責任を負わなければならない。この繰り返しである。
私は、いつもローザ・ルクセンブルクの言葉を念頭においている。私は、スラヴォイ・ジジェクの次の一節から、この言葉を知った。
誤謬は心理の内的条件であるというこの同じ論理は、革命のプロセスの弁証法についてローザ・ルクセンブルクが述べていることにも見出される。すなわち、エドゥアルド・ベルンシュタインにたいするルクセンブルクの反論である。ベルンシュタインは、「早まって」「時期尚早に」、すなわちいわゆる「客観的条件」が熟する前に、権力を奪取することにたいして、修正主義的な不安を抱いていた。周知の通り、社会民主主義の極左派にたいするベルンシュタインの批判の核心はそこにあった――彼らはあまりに気が短く、やたら焦って、歴史的発展の論理を追い越そうとしている、と。これにたいするローザ・ルクセンブルクの答えはこうだ――最初の権力奪取は必然的に「時期尚早」である。労働者階級がその「成熟」に達するための、すなわち権力奪取にとって「適当な時期」の到来を迎えるための、ただ一つの道は、この奪取の行為に向けてみずから鍛錬・育成することである。この育成を達成するための唯一の可能な方法は、まさに「時期尚早な」な企てである……。たんに「適当な時期」を待っていたのでは、生きてそれを見ることはできない。なぜなら革命的な力(主体)が成熟するための主観的条件がみたされないかぎり、この「適当な時期」はやってこないのだ。すなわち「適当な時期」は一連の「時期尚早な」企てが失敗した後ではじめてやってくるのである。したがって、「時期尚早な」権力奪取に反対することは、権力奪取というもの全般に反対することに他ならない。ロベスピエールの有名な文句を繰り返せば、修正主義者が欲しているものは「革命なき革命」なのだ。
(93−94ページ)
- 作者: スラヴォイジジェク,Slavoj Zizek,鈴木晶
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
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いつもこの言葉に後押しされながら、それでも慎重さとためらいを求める。何をやっても、運動家である限り*3私のやることは失敗である。そこにナルシシズムを持って「決断主義」として失敗を正当化することもできない。かといって、黙って「非政治的人間」に頽落することもできない。だが、せめて道化て楽しい言い方をしたいと思う。こういう風に書いていると、どんどん暗く不安になってくる。
ところで、「なんで運動やるの?」と聞かれることがあるが、私はこれはうまく答えられない。「やりたいから」としか言いようがない。でも、それもまた、十全に答えているようには感じない。
*1:私は、このようなケースを固有名で知っている
*2:たまに、人がやっていることに文句をつけることが批判することだと思い込んでいる人をみかける。批判する側も論拠を持ち、実証しなければならない。
*3:しかし、運動家ってどのくらやれば運動家なんですかね?この運動家のイメージもよくわからん。私は、匿名でブログを書くことは運動でないと思ってきたが、そうでもないのか?このへんはまだよくわからない。最近、オフラインでの運動は、私はあんまりやっていない、という負い目があるので。参考:http://d.hatena.ne.jp/discour/20080206/p1