貴戸理恵「「生きづらさ」を聴く」

 

 社会学者の貴戸理恵さんから、新著をご恵投いただいた。タイトルになっている「生きづらさ」という言葉は、ネットでも何度も議論を呼んでいる。ひとを嘲笑する表現として「あのひとは生きづらそうだ」というネットミームもあるようだ。また、社会構造から生まれる問題を、個人の主観的な「つらさ」という感情に還元する言葉であると批判されることもある。長く「生きづらさ」の問題に向き合ってきた貴戸さんは、その批判を受け止めながらも、実際に苦しむ人々に「あなたの問題はあなたのせいではなく、社会の問題なのだ」と(上から目線で)突き詰めればいいのか、と問い返す*1。貴戸さんは次のように述べる。

 個々の人びとがが抱く「独自の人生を切り抜け、歩んできた」という実感は、「他でもない自分の人生」という圧倒的なリアリティのもとで、「社会のせいにしたくない」という誇りや、「数字などの平板な記述によって解釈されうるものではない」という足元の複雑性の手放しがたさを帰結する。こうした社会構造的要因の指摘においそれとは説得されない人びとの素朴な感覚は、「自分の人生を定義するのは自分だ」という主体的な意識を下地としている。その下地に働きかけることなしに、本人の認識を変えようとする営みは、「上から目線」の「啓発」「教育」にならざるをえないだろう。

 社会構造的要因に目を配りながら、当事者による状況定義から出発することが必要だ。そのとき、人びとの足元に転がっている「生きづらさ」という言葉は一つの足がかりになると考えられる。(39頁)

 このように貴戸さんは、「あなたが苦しんでいるのは社会が悪いのです」と教えるのではなく、その人たち自身の言葉に耳を傾け、「生きづらさ」をキーワードにして、現代社会で何が起き、どのように生き延びる術と困難があったのかを明らかにしようとする。ここでいう「生きづらさ」は、10の構成要素「無業および失業」「不安定就労」「社会的排除」「貧困」「格差・不平等」「差別」「トラウマ的な被害体験」「心身のままなさらなさ」「対人関係上の困難」「実存的な苦しみ」に分節化される。ある人が「生きづらさ」を語ろうとするときの、その人のなかにあるいくつかの要素が同時に、まじりあって現出してくることがある。これらの要素は、現代社会の支援制度では、医療・福祉・労働などの各部門により個別に対応されている。「生きづらさ」をキーワードに語ることは、個人の体験を外側から分析するのではなく、本人が内側から吟味し、整理し、理解していくことになり得る。

 このような「生きづらさ」について語る場とし設定されたのが、「生きづらさからの当事者研究会(づら研)」である。この本では、づら研のメンバーの語りをもとに、かれらの体験がまとめられている。メンバーは子ども時代の貧困や虐待経験がある人もいれば、経済的には恵まれながらも教育虐待や不登校の経験を持つ人もいる。かれらの「生きづらさ」は全く異なり、「づら件」で集まるときに、必ずしも共感できるわけではないし、壁もある。しかし、対話のなかで、それぞれのメンバーが経験や考えの違いを理解し、ほかの視点を得ていくような過程がづら件では生まれている。たしかに「生きづらさ」は社会問題を、個人の苦しみへと転化し、自分のことで頭がいっぱいで身動きさせなくするところがある。他方、それをほかの人びとと語るなかで、希望が見えてくることもある。貴戸さんはこのように書く。

「生きづらさ」は、それを抱えている人自身が問題に取り組み、個人的な事情の向こうに構造の問題を見通していく契機にもなりうるのだ。「生きづらさ」という言葉を通じて自己の特徴や傾向を理解することで「自分の人生を生きる」うえでのある種の「落ち着き」のようなものを得ていくことがある。「落ち着き」とは、諦めや絶望ではなく、「過去は消すことはできず、この人生の延長を生きるしかない」と腹をくくることであり、あがきや落ち込みも含めて、一筋縄ではいかない自己を受け入れていく態度である。そのように自己の「生きづらさ」を理解することで、他者の「生きづらさ」に想像をめぐらせることができるようになり、その向こうに共通の構造を見通すことにも開かれていく。(288頁)

 ここには逆説的な状況がある。一度、社会構造から離れ、個人の「生きづらさ」に焦点を当てて語り、他者と対話するなかで、社会構造が見えてくるのである。つまり、社会と個人が「生きづらさ」をキーワードにした他者との対話によって、接続されるのである。

 貴戸さんは、このような異なる人びとによる対話のなかで浮かび上がる共同性は、これからの社会運動の駆動力になることを示唆している。かつてのマイノリティ運動は、差別と闘うために同じ属性を持つものが集まり、共同性を構築した。しかしながら運動体は内部の多様性を肯定するため、同じ属性を持っていてもお互いの階級・ジェンダー・民族等による異なりを認めようとし、ときにはそれが分裂を招いていもいく。「づら研」はそうではない、共通の属性を持たないものたちが共同性を構築するための模索の場でもあった。貴戸さんが、そのなかで鍵を握ると考えたのは「違和を表明できる場や関係性を生み出し続けるプロセスのなかに、新たな連帯を見出す(298頁)」実践であったと考える。すなわち、「同じであるからつながれる」のではなく「つながれなさを通じたつながり」である。

これを象徴するエピソードがある。かつてある参加者が「自分はここにいていいのかな、と思ってしまうことがある」とづら研での居心地の悪さを漏らした。さまざまな参加者の経験を聴いていると「無業ではない自分には、暴力被害を経験していない自分には、ここにいる資格はないのではないか」と思えてしまう、というのである。この発言に対して、「自分もそう思う」とその場の多くの参加者が共感を表した。「自分は「私たち」に含まれていない」というつながれなさの感覚は、まさにそれについて共感し合うことを通じて、つながりへの感覚へと接続されていったのだ。(298-299頁)

 ここにも逆説がある。「自分にここにいていいのかな」という自己否定的な問いかけする者に対して、「あなたはここにいていいのだ」と相手を承認する言葉ではなく、「私もそう感じる」という自己否定的な声が応じることで、共同体の包摂性を高める。誰かが安心させようとする気遣いではなく、みんなが不安であることを共有することが、その場の安心感を培っていく。

 貴戸さんの本を読みながら、私はいろんなことを思い出していた。私のいろんなことの出発点は、性暴力被害者の自助グループがある。そこはまさに「同じ属性を持つものの共同体」で、それだけに内部は濃密で分裂もあった。その限界をいやというほど思い知った。私はその後、別のやり方を求めて、いくつかの属性を問わない読書会や研究会*2を転々とした。自分自身も、2018年に「環境と対話」研究会を立ち上げ、地元で細々と対話の場を設けようと試みてきた。だから、「づら研」で生起している共同性はとてもよく理解できる。異なる人びとの対話には希望がある。

 それと同時に、私は「その前」があったこと、つまり「同じ属性を持つものの共同体」の経験を持つ(人が複数いた)からこそ、「異なる人びとの共同体」を志向できたのだろうとも思うところがある。私たちはすでに、「同じであること」を求めて何度も失敗して痛い目に遭っていた。だから、人びとの異なりに耐え、対話をすることができた。最初から、異なる人びとと出会っていたら、果たして自分はそんなふうに振る舞えたのかわからない。

 私は、「同じ属性を持つものの共同体」と「異なる人びとの共同体」は「あれか、これか」の二択ではないのだろうと思う。前者のあとに後者を経験すべきという、発展段階論的なものでもなく。本当は個人が前者も後者も、必要とするときに参加する場があれば理想的だと思う。同時に、自分がこうした「場」を大事にしてきたからこそ、このような共同体の脆さも痛感している。「場」と「制度」の違いはそこにある。あるとき、きらきらしていたように見えた場も、ちょっとしたことで壊れたり消えたりする。それを維持しようとすると、場の力は失われる。とても抽象的な話になってしまったが、「場の運営」に関わってきた人には伝わるのではないかと思う。

 ところで、本の要点とは全く関係ないが、私が衝撃を受けたのはある「づら研」のメンバーの語りである。

小さい頃は子どもの「醸す」身体性がすごく苦手だった。幼稚園くらいに周囲の園児たちのむんむんした空気が怖かった。(115頁)

 これは、私の幼少期の感覚と全く同じだ。これまで、こんなふうに言語化されているのを見たことがなかったので、読んだときには叫びそうになった。「まさにそれ」であった。子どもなのに、子どもが近づいてくると「やめてくれ」という気持ちになった*3。子ども時代の私は(脳の問題として)感覚過敏だったのだろうと思う。色も匂いも音も、耐えるべきものだった。ちくちくしたセーターが嫌で、硬い布の服が嫌いだった。できれば、ずっと本を読んで家にいたかった(が、そんなことは家庭では許されなかったので、できるだけ人の少なそうな場所でじっと時間がすぎるのを待っていた)。空想世界に逃げて、現実をシャットダウンしようと試みた。この人の語りは、現在も感覚過敏が続いていることへ移るが、私はどんどん感覚は衰えていった。なので、自分は今はかなり鈍感になり、ぼんやり生きていると思っているが、元々がいろんな刺激を脳が拾いすぎるタイプだったのだと思う。ちなみに空想癖だけは治らなかったが、オタクだったので友人の大半も似たようもので、それは気にすることなく大人になった。

*1:これはマルクス主義者による社会運動が長年やってきたことだ。水俣でも同様のことは起きており、肝心の水俣病患者からは全く支持を得なかったことが記録されている。

*2:そのなかには、貴戸さんとやっていた「づら研」とは違う研究会もあった。急にそのときのことを思い出して懐かしくなったりした。

*3:私が子どもを産まなかった理由のひとつでもあると思う。もう大人なので子どもは可愛いと思うし、近づいてきても嫌ではない。そして、一部の子どもは「自分に関心を持たない大人」である私を無害だと判断して近づいてこようとする。私はぎこちなく交流するのだけれど、それが楽しいわけでもなく、多くの大人が子どもに対して覚える興奮感のようななものが、私にはわからない。