臨床家というポジション
以前の記事で、「ビッグイシュー日本版」での、上山和樹と斉藤環の往復書簡の形をとる「ひきこもり社会論」を取り上げた。それに対して、上山さんからレスポンスの記事もいただいている。上山さんの論に対して、私が何を言うのか、ということへの結論は出ていない。ただ、議論の行方は追っている。
そして、最新号の100号で、斉藤さんの「観客席に『臨床』はない」が掲載された。これで、上山さんと斉藤さんの断絶は決定的になったかもしれない。それでも、上山さんは全力を尽くして応えるとの記事をあげておられるので、私はまさに観客席から見守りたいと思っている。
さて、斉藤さんの記事について、少し触れておく。斉藤さんは、上山さんに「観客席にいる」と批判されたことに対して、反論している。
いちばん引っかかるのは、繰り返し私を「観客席にいる」と決めつけていることです。あえてベタな話をしますよ。私には臨床の現場がある。週4日の外来診療と1日の当直、それに入院病棟での治療。ここでの治療実践と、そこから導かれた知恵すらも、上山さんは「観客席」と言われるのか。
私は必ずしも経験主義者ではありませんが、臨床実践抜きで私の「スタイル」はありえません。
上山さん、「基礎」と「臨床」の違いってわかりますか?私の立場を説明抜きで「実験観察」とか「観客席」と決めつけるのは、臨床家としての私と、私の治療を受けている患者を全否定するに等しい行為だとわかっていますか?遠回しの皮肉は通じてなかったみたいですが、はっきり言って不愉快です。その「偏見」には、断固、説明を求めます。(質問1)
(「和樹と環の引きこもり社会論」『ビッグイシュー 日本版』100号、18ページ)
斉藤さんは、自分は「臨床」というリングサイドにあがっており、観客席にいるのではない、と主張する。斉藤さんの記事のタイトルは「観客席に『臨床』はない」である。「観客席はない」ではなく、観客席に座っている人々(私も含めた「臨床家」というような肩書きを持って引きこもりの人たちに関わったことのない人々)はいることはいるが、自分は違うのだという。つまり「私は普通の人ではなく、当事者である」というのだ。
この記事を読んで、即座に思い出したのは、ジャック・デリダ『精神分析の抵抗』に収録された「ラカンの愛に叶わんとして」という講演録である。
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ルネ・ジラールが私に報せてくれたところでは、ボルティモアでの私の講演の後で、彼が講演についての自身の評価(それは寛大なものだった)をラカンと分け合おうとした時、ラカンはこう言ったそうだ――
「そう、そう、良いのだけれど、彼と私の違いは、彼が苦しんでいる人々に関わっていないということだね」(これは言外に、分析を受けている人々に、ということである)。彼が何を知っていたというのだろう?実に軽率な発言だ。彼が平然とそんなことを言ってのけ、またそれを知ることができたのは、ただ、苦しみをも(なんたることか、多くの人々と同様に、私は苦しんでいる人々に――たとえばあなた方すべてに――関わっているというのに)転移をも、つまり愛をも――それらはそれぞれの状況を生み出すのに分析的状況を必要としたためしなどない――勘案しないことによってのみである。ラカンはしたがって、ある種の様式の上に制度化された臨床医学と分析的状況の諸規則とから、絶対的資格の基準を作っていたわけだ――そうしたことすべてを語るための。
(127ページ)
デリダは、臨床家が「普通の人々」とは違い、「私は彼らの苦しみを知っている」と主張し、彼らの持つ知を特権化することを批判している。臨床家は、<臨床家として>「彼らの苦しみを知っている」点では、特殊である。しかし、<人として>「彼らの苦しみを知っている」点では、そのほかの人々と変わらないという。
そして、上山さんは、臨床家が、<臨床家として>語ることについての批判を繰り返している。斉藤さんは、<臨床実践抜きで>語ることはできないという。しかし、それは、臨床実践の経験がある<人として>語ることができないこととは違うだろう。つまり、私やほかのひきこもり経験のない人々と同様に、<人として>語ることである。「臨床実践で多くの知を得た」ことと、「実際にひきこもったことはないので、ひきこもりの苦しみはわからない」ことは、両立するはずである。
そして、三段目の「私の治療を受けている患者を全否定するに等しい行為」だという、斉藤さんの記述には、私は怒りを禁じえない。斉藤さんが、いかなる批判を受けようとも、患者を否定することにはならない。なぜならば、この往復書簡の場には、患者としての「ひきこもり」当事者はいないからだ。斉藤さんは、一方的に患者を引き合いに出し、この議論に巻き込んでいる。ここで取り上げられる斉藤さんの患者が、斉藤さんに対して異議申し立てし、自らの代弁された声を取り戻す場は、この連載には設けられていない。当事者を口ごたえできない状態で、「私の患者」という、当事者を所有化した言い方をするのは、権力の濫用だ。なぜ、斉藤さんは「私の患者」がこの往復書簡を読み、上山さんの主張に賛同することを疑わないのだろう。患者は無知でも無力でもなく、あなたに口ごたえする力を持っている。ひきこもり当事者は、斉藤さんとの臨床の場では、患者だろう。しかし、臨床の場を離れて、道端やレストラン、そしてビッグイシューを読むその場では、患者ではなく人である。その「私の患者」の<人として>の姿を、斉藤さんは臨床家であるかぎり――なぜならば、臨床家であるためには、そこは臨床の場でなければならない――知りえない。臨床の場で明かされる苦しみは、どんなに大きくてもその人の<人として>の苦しみの一部でしかない。それは、観客席からは、リングにあがるプレッシャーと、闘うことで受ける痛みや苦しみについて、知りえないのと同じことである。臨床家は、せいぜいリングサイド席にいるから、一般観客席よりはリングで起きていることが、見えやすい位置にいるにすぎない。
臨床家とはいったいなんなのだろうか。臨床家を「支援者」と呼びかえ、患者を「被害者」と呼びかえれば、マツウラマムコ「『二次被害』は終わらない――『支援者』による被害者への暴力」の批判を想起することができるだろう。被害者は、社会的スティグマやステイタスも引き受ける/引き受けさせられる。そのスティグマやステイタスを引き受けることなく、支援者がまるで被害者と同じ立場であるように振舞うのは、アイデンティティの掠め取りである。24時間365日被害者をやっている人間と、仕事の間だけ被害について考え(さらに職業支援者の場合はお金までもらう)ればよい支援者の立場は、まったく違う。
ただし、最近、私はマツウラ論文に対して、もう少し論考を進めたいとも思いたいと考え始めた。マツウラさんの、「支援者」は「第三者」であるという主張は、「被害者」から「支援者」に向けられて浴びせられるカウンターパンチとして、必要であった。しかし、「第三者」と呼ばれるほかの「普通の人」と「支援者」は違う、と感じる支援者の感覚も重要であろう。しかしそれは、「被害者」を語る文脈ではなく、「支援者」を語る文脈で語られるべきだと考えている。すなわち、「被害者」と「支援者」の問題で起きる困難は、「被害者」の問題ではなく、「支援者」の問題であり、「被害者」のしんどさを語るのではなく、「支援者」のしんどさを語る中で、もっと深められていくということだ。「被害者」に何ができるのか、ではなく、「支援者」の私が何を求めているのかを語るのだ。問題を抱えている「被害者」を助けるのではなく、「被害者」に関わる自分とはなにかを考えればよい。
私はこう考える。「支援者」は「被害者」の闘うリングにはあがれない。ならば、「支援者」は「支援者」の闘いのリングを作ればよい。そのことに反対する被害者は、多くはないように思う。「被害者」のリングにずかずか踏み込んだり、勝手にレフェリーを始める「支援者」を批判する被害者よりは、多くはないだろう。「支援者」が、「支援者」としての困難を語り始めたとき、当事者は「ひきこもり当事者」ではなく「支援者」である。デリダのいう「彼はなにを知っているのだろうか」というラカンへの問いは、「臨床家として、苦しんでいる(とみなされやすい)人々へ関わることの、苦しみ」という答えがふさわしいように思う。
こういうと、「支援者」は、「自分語りを強要するのか?」と聞いてくるかもしれない。しかし、「支援の場」(臨床の場)で、「被害者」が自分語りを拒否することは難しいし、拒否すれば「被害に向き合えていない」とされ、拒否をやめて語り始めれば「回復した」とみなされる。では、「支援者」にも同じことが言えるのではないか。すなわち、「支援者」が自分語りを始められるように、サポートしなければならないのではないか。この「支援者」を支援するのは誰か。まさか「被害者」ではないだろう。それは、まさに観客席で「支援者」の隣に座っている、「普通の人」である私たちである。*1また、自分語りを否定するのならば、「被害者」に自分語りを強要するのもやめればいい。「自分の困難を言葉で話すこと」は必要ない、と宣言すればよい。それは、精神医療・サポートの起源にある、精神分析の否定でもあるのだが。
関係を「臨床家」と「ひきこもり当事者」に戻そう。似た構図は、ひきこもりの支援・臨床の場でも起きているのではないか。それは、斉藤さんの次の言葉で感じるものがある。
さあ、上山さん、今度こそ、質問12に答えて、私を説得するという「目の前の困難」から逃げないでくださいね。期待していますよ。
こうして斉藤さんは、上山さんに、「答えられなければ、逃げたとみなす」「語らなければ、困難は解決しない」と脅す。こうやって、自分は臨床家として自己の正当性を当事者に担保し、さらに目の前の当事者に語ることを強要する構図は、多くの場で起きているのではないか。私から見ると、上山さんが斉藤さんに問おうとしたのは、まさに今ここで起きている構図である。そして、私が(自分も含めた)「支援者」に問いたいと思っている問題でもある。そういう意味で、やはり上山さんと斉藤さんの対話が、うまくいけばいいと思っている。うまくいかなくても、意味があるものだろうと思っている。
最後に当事者を名乗ることについての、ロマンチックなフレーズを引用して、この記事を締めておく。
COMING OUT
「世界」という「イメージの方法」からの解放
SOUNDLESS SCAPE - DEAFの音像によるテキスト朗読とダンス1
あなたが何を言っているのか分からない。でもあなたが何が言いたいのかは分かる。
I don't know what you're saying but I know what you mean
私はあなたの愛に依存しない。あなたとの愛を発明するのだ。
I do not depend on your love. I invent my own love
これは、世の中のコードに合わせるためのディシプリン。私の目に映るシグナルの暴力。
Here's my dscipline to fit the codes of the world. The violence of signals so plain to my eyes(略)
5
あなたが何を言っているのか分からない。でもあなたが何が言いたいのかは分かる。
I don't know what you're saying but I know what you mean
これは、世の中のコードに合わせるためのディシプリン。私の目に映るシグナルの暴力。
Here's my dscipline to fit the codes of the world. The violence of signals so plain to my eyes
あなたの眼にかなう抽象的な存在にしないで。私たちを繋ぎ合わせるイマジネーションを、ちょうだい。
Don't turn us into abstraction you'd like to see
Where's the imagination to cut across borders?
私の体のなかを流れるノイズ・誤解されないままのものたち。
Noise flowing through my body...blood, information, meanings..indeciferables
今まであなたが発する音声によって課せられた私のノイズ。
Noise thrust on me from all your voices up to now. Building up here inside, indeciferables
今、やっと解放します。
Now at last, I let them go.beep...beep...beep(補聴器のノイズのエコー)
私は「OUT」している、ゆえに私はここにいる。
I am "out" - therefore I am
(パフォーマンスでは、デフ(耳が聞こえない人)のゲイが、自分に求愛するヘテロ女性を投げ飛ばしながら、朗読します)
追記
ブクマコメントにこんなのつきました。
あえて耳の痛いこと言っとくが、そういうデリダだのなんだの「どっかで聞いてきたような話」しかできないから、お医者さまに「現場がたらんのでは?」てからかわれるんだよ。底意地の悪さが足りないんじやないの?
あー、「してやったり」って感じ?私は、そんな意地悪をして、当事者競争に勝つよりも、みんなに「イイヒトだね」って言われたほうがうれしいですけどねえ。あなたはそうじゃないの?
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アマゾンの作品紹介
わるものはとにかくわるいことを一生懸命にします。わるものだから。でもわるもののするわるいことは、せこいことだったり、しょうもないことだったり。他にもいろいろなわるいひとたちが登場します。イラストと写真のマンガ絵本。
*1:しかし、この「支援者」を「男」、「被害者」を「女」にしたとき、私はこのことのしんどさをまざまざと思い起こす。いまさら「男」の自分語りを聞くのはイヤだ、と思い、「男」のサポートをする「男」に対するなんとなくイヤな感じを持つ「女」の私。正直に言うと、そういう気持ちはある。でも、なんとかしなければならないのだから、なんとかしようとは思う。