エコ・フェミ再考

 各問題に諸説はあるが、地球環境が、何はともあれマズイ方向にむかっていることは、確かだろう。みんな「これはマズイ」と思い、うっすらとした不安は持っている。ところが、「では効果的な施策を」と実行してみると、「なんだかなあ」というムードが漂う。
 id:kmizusawaさんの次の指摘が面白かった。羊のげっぷが温暖化に影響しているので、やめさせようというニュージーランドの政策への疑問を提示した後の、次のように述べる。

本来の生理現象に介入してまで守るもんなのか?地球環境って。いっそ人類全員の目を暗闇でも見えるように改造したら夜間の電気(電灯)の節約になって地球環境に貢献しないか?
[http://d.hatena.ne.jp/kmizusawa/20080515/p1:title=
kmizusawa「地球温暖化の前では羊の生理現象もNG」『kmizusawaの日記』]

「地球環境を守るため」というお題目の前に、今、生きている生き物の生理現象を「厄介なもの」とみなす。環境が破壊された結果、不便になること防ぐには、最大の努力を払う。しかし、不便なものを便利にするために、生き物の生き方を壊す。つまり、環境を守るのは、生き物が生きるためではなく、便利であり続けるためなのだ。
 そこまでいかなくても、なにか、「うさんくさい」とエコに対して思ってしまう。「いったい、誰のための、なんのための、どういう効果のある施策」なのか。
 たとえば、他国と、二酸化炭素排出量を売り買いするエコ政策って、私もどうも違和感がある。もちろん、排出量が下がればそれでいいのだが、しかし「これでいいのだろうか?」というすっきりしない感じ。環境を破壊されて、一番に経済的ダメージをこうむるのは間違いなく第一次産業に従事する人の率が多い国だろう。それなのに、そういう国が、カネの代わりに、二酸化炭素排出量を受け取る。いや、なんか変じゃないか?
 もしくは、エコというだけで、「エライ」というイメージが漂う。「もったいない精神」を「ケチ」と呼びかえると、失礼な感じになるのはなぜか。水筒やスーパーの袋を持っていくと、他人に見せたくなるのはなぜか。エコバックを買おうとすると、店員さんがラッピングしようとするのはなぜか。なにか欺瞞を感じる。
 
 と、ボロクソに言った後でなんだが、実は、私はここ数年、エコ・フェミ的な生活に魅力を感じている。しかも、私が住んでいる地域は、エコ・フェミの価値観にぴったりそぐう。「オーガニック」「フェアトレード」はもとより、「ヴィーガン」みたいな単語が飛び交うお店が、徒歩圏内に数店あるのだ。私はノリやすいので、シャンプーは石鹸だし、生理用ナプキンは布にしてしまった。
 エコ・フェミとは、1980年代に出てきたフェミニズムの一潮流である。これまで男性に担われてきた環境問題を、女性が担っていこうという試みだ。男性は「文明化」の象徴である大量生産を推し進めてきた。エコフェミは、「文明化」こそが「男性原理」であるとし、痛烈に批判する。これまで虐げられてきた「自然=女性原理」を取り戻そうとする。
 水質汚染を防ぐために、手作り石鹸を使ったり、無農薬野菜を購入したり、在野の主婦が生活を変えていくことで、フェミニズムにコミットできる側面を持っている。草の根で、地域コミュニティのようなフェミニズムが出てくる。
 インターネットで検索すると、こんな論文が出てきた。森岡正博は、日本で、エコ・フェミの中心にいた青木やよいの主張を、次のようにまとめる。

青木やよひは右記の論文で次のように述べる。女性がみずからの女性性を無視して単に男性との平等だけを追求するようなフェミニズムは、近代社会の欺瞞を男性とともに上塗りするだけである。いま必要なのは「女性性」を探求することであり、それはフェミニズムに逆行することではなく、むしろよりラディカルな地平へと至ることである。
 しかし、青木が言う「女性性」とは、男性が女性に一方的に付与してきた「女らしさ」のことではない。それは、人間の心身の奥底に刻み込まれた「天なる父と母なる大地」という宇宙観と見合った形で存在する、雌雄性の分類の一方の極のことである。その女性性のひとつの極限は、「みずからのうちに生命を宿しそれを産み出すという、宇宙の母なるエロスとの一体感に支えられた」妊娠と出産である(同書:二五五、二六七頁)。この女性原理は、かならずしも女だけに見られるわけではなく、「女性的なるもの」として男の中にもあり得るものである。そしてこのような女性性の復権は、女性性が刻印されている身体性の復権でもある。このフェミニズムエコロジズムの思想的出会いの方向にしか、人類の生きのびる道はないのではないかと青木は結論する。

森岡正博エコロジーと女性−エコフェミニズム小原秀雄監修『環境思想の系譜・3』東海大学出版会 (1995年5月) 152−162頁

この論文でも指摘されているが、青木さんの主張は、上野千鶴子により、痛烈に批判された。上野さんは、青木さんの主張は、男女分業として、「男は会社・女は家庭」を押し付けている現実のこの社会を、正当化するものとした。
 一度、この話題について、ある運動家と議論したことがある。その人によれば、エコ・フェミこそが、家庭内に無賃金労働を可視化し、価値付けるチャンスであった。現在のケア・ワークは、低賃金を強いられている。そこには、ケアは女性が担うもの(女性原理)であり、労働と認めない、という価値観がある。しかし、エコ・フェミは、この家庭内の無賃金労働の賃金計算を行い、家庭外での賃金労働と劣らず、重要な労働であることを主張する。上野さんが青木さんの主張を批判したため、日本ではエコ・フェミの主張は傍流に置かれてしまった。その結果、日本のフェミニズムは家庭内での、すなわち、現在、「賃金化されていない労働」に対する視座を失った。
 大越愛子も、エコ・フェミの軽視により、フェミニズムが重要な論点を見落としたことを、端的に述べている。

 エコロジカル・フェミニズムの問題提起は、自然破壊批判のみならず、先進工業国による第三世界の生活破壊に対する告発という側面をもっていた。だがエコ・フェミ論争の結果、日本のフェミニズムはエコ・フェミ的な問題との取り組みに対して熱意を喪失し、資本主義体制批判をネグレクトし始めた。先進工業国による第三世界の女性たちの生活破壊という問題に対しても無関心となり、バブル期を迎えた日本資本主義の中での女性戦略を追求する一国フェミニズムへの自閉していく、退行現象を示すことになったのである。

大越愛子「フェミニズム入門」(137〜138ページ)

フェミニズム入門 (ちくま新書 (062))

フェミニズム入門 (ちくま新書 (062))

これらの指摘は非常に重要である。この後、上野も含めて、日本のフェミニストは見方を修正し、転回することを迫られた。エコ・フェミを切り捨てたのは、日本のフェミニズムにとって、大きな痛手だろう。
 しかし、それでも、私はそのある運動家には反論した。もちろん、現在の視座から、過去を批判することは重要だ。だが、当時おかれていた状況も、踏まえなくてはならない。ちょうど、このころ、男女雇用機会均等法所得税103万円規定(主婦保護法と揶揄して言われる)が、施行された。まるで、行政は、フェミニストの要求に答えたように「これからは男女平等です」と言いながら、同時に「主婦のままでいたほうが得ですよ」というメッセージを送った。
 その後、前者と後者の、どちらのメッセージを受け取るかによって、女性は二分された。一つは、自己選択により男並みに過重労働すること。もう一つは、主婦になり、パート労働という低賃金のままでいること。しかも、前者の選択においては、まだまだ就職差別が厳しかった。リスクの多い前者に賭けるか、待遇の悪い後者に甘んじるかの二択である。*1
 上野ら、日本のフェミニストの認識は、やっと推し進めてきた女性の労働運動がつぶされる、というものだろう。それまで数々の労働争議・裁判により、やっと女性の働く権利が獲得されてきた過渡期であった。そこで「家庭外で働くこと」自体を批判するエコ・フェミの主張は、それまでの労働運動を冒涜するようなものだろう。上野らが批判したことじたいは、文脈上理解できる。
 問題は、なぜ、エコ・フェミ側が上野らとの論争で敗北したか、という点だ。私は、不勉強にも、これまでその点について、何も考察してこなかった。ただ、直感的にエコ・フェミが「主婦のお遊び」つまり「金持ちの暇つぶし」に見えたことは推察できる。なぜならば、その見方は、今の私が共有するものでもあるからだ。
 これまで、私が興味を持たなかったエコ・フェミ的生活に魅力を感じるようになった経過は、私の自由にできるお金が増えた経過と重なる。環境が壊れていくことには不安である。その不安を、少しでも和らげるために、環境に配慮してみる。しかし、その配慮はお金で便利になった生活が補償された上での、配慮である。路上生活者の生活はリサイクル業だし、エコだが、誰もそれを実践しない。
 エコ・フェミが、上野らとの論争で負けたのは、この「欺瞞がある」という疑念を振り払えなかったからではないか。「私たちは、男たちみたいに環境破壊しません」と言ったとき、その自分の生活が男たちの環境破壊によって支えられているその構図を、どう批判するのか。それは、現在の先進国や、エコ志向を謳う多国籍企業にも向けられる問いである。

*1:この選択の状況は、この20年で大きく変わった。そして、必ずしも、選択しなければならない、ともいえなくなった。しかし、選択がなくなったわけではない。むしろ、私は「いつか選ばねばならない」という立場なのか、「選ばなくても生きていける」という立場なのか、という選択できない(=自由になれない)二つの立場に区分される。これがいわゆる「格差社会」である。