DV加害者を、警察の判断で逮捕させるべきなのか?

 2月10日に、宮城県石巻市で、男女三人が刺傷され、女性一人が連れ去られる事件が起きた。加害者は18歳の男性。男性は、元交際相手Aさんの姉と友人を殺し、Aさんを車で連れ去った。報道では次々と情報が入ってくる。Aさんは、加害者からのDV被害にあっており、昨年2月にはシェルターに入っていたこともあるという。また、Aさんの姉は、男性の暴力からAさんをかばっており、恨まれていたとの話も出ている。まだ、詳細はわからず、報道で出てくる情報もどこまで確かなのかわからない。なお、Aさんは警察にトラブルの相談を12回もしており、10日に被害届を出す予定だったらしい。
 そんな中、DV被害者支援で有名な、カウンセラーの信田さよ子さんが、ブログでこの事件に対してコメントしている。

「現行のDV防止法は、被害者の妻が被害届を出して夫を起訴しない限り、夫の行動を制限することはできないのです。その場合の被害届は、街角で傷害を受けた被害届と同じ扱いとなります。」
「多くの被害者は夫を起訴することをためらいます。つまり夫を逮捕にもちこむのは自分にかかっているという点がためらわせるのです。もちろんそこにはわが子の父を犯罪者にしてしまうことへのためらいもあるでしょう。しかしもっと大きいのが、さらに恨みをかい、もっと激しい暴力として復讐されるかもしれないという恐怖なのです。」
「このような大きな関門があることがすでに諸外国ではわかっており、だからこそ警察の判断で加害者逮捕に踏み切るように法整備がされているのです。韓国も台湾もです」
「今回の事件、新年早々の大阪の猟銃殺人事件、昨年の千葉の連れ去り事件などなど、全部これらはDVが背景にあり、逃げて関係を断とうとする被害者への報復的殺人事件なのです。このような悲劇を繰り返さないためには、被害者が被害届をためらうほどに恐怖が強いことを警察が理解し、警察の判断で加害者を逮捕に踏み切ることを可能にするような法改正が早急に望まれます


信田さよ子朝日新聞社会面」
http://www.hcc-web.co.jp/blog/archives/000944.html
*強調は引用者によるもの

そして、信田さんは「日本のDV防止法が東アジアではもっとも立ち遅れた内容になっているということを多くの人に知ってもらいたい」(信田、同記事)と言い、次のように記事を結ぶ。

しかし、なぜ、家族(親密な関係)における殺人に対しては、日本の政治は放置したままでいるのだろう。
そこに何らかの意図、作為を感じてしまうのは私の考え過ぎだろうか。
(信田、同記事)

みなさんは、この記事をどのように考えられるだろうか。「もっと警察が、被害者任せにせずに、自分たちで加害者を逮捕していればよかった」と、信田さんの主張に共感するだろうか。私はこの問題について、いつもクリアーに答えが出せない。


 米国で、DVの問題に関わってきたmacskaさんが、2006年に記事を書いている。

macska「『加害者は決して完全悪ではない』こそ反DV運動の教訓」
http://macska.org/article/161

この記事は、日本のある団体のMLでおこわなれた議論を元に書かれている。そこでは、現在の米国でDV被害者保護が強く支持されるのは「米国においてまがりなりにも『DVは犯罪』『加害者は処罰を』という社会的合意が徹底されているからだ」(macska、同記事)と主張する人がいた。それに対してmacskaさんは米国でなされてきた支援の実態を参照しながら、議論を展開する。
 macskaさんは、DV加害者を完全悪としてモンスターのように扱かったり、犯罪化することは、DV被害者の救済には直結しないと主張する。そして、警察の介入に関しては次のようにいう。

そもそも、「DVは犯罪」という認識は事実として間違いだ。なぜなら、精神的・経済的な支配を含んだDVのすべてが犯罪であるわけではないし、DVの深刻度は犯罪としての重さと比例しない。場合によっては、刑法的な犯罪をおかしたのはDVの被害者の側であるというケースすらあり得る。それは、刑法は個別の行為にあてはまるものであり、特定の人間関係においてある行為が持つ総合的な意味にまで踏み込めないからだ。そのような部分まで判断する能力も権限も警察にはない。

さらに言うと、DVを厳しく取り締まるような法制度を作れば、こんどはその法制度そのものが加害者によって被害者を虐待する道具として利用されるというのがこれまでの教訓。例えばDVのケースで必ず加害者を拘束しなくてはいけないという制度を導入したところ、警察が家の前に気付いた加害者が自分の手で胸に引っ掻き傷を作り、自分こそが被害者だから相手を逮捕しろと言うなどといった例がある。あるいは被害者の「正当防衛」を警察が認めるなら、精神的に圧迫して被害者の側が先に手を出す(押し退けるなど)するようにしむけて「自分は正当防衛だ、先に手を出したのはあいつだ、聞いてみたらいい」と言い逃れる。怒りの感情を押さえるプログラムに参加させられた加害者は、自分の感情を押さえつつ被害者をわざと怒らせるという虐待をする。

そうしたこともあり、警察による介入を中心に据えたDV対策では、明らかに違法な身体的暴力を減らすことはできても、精神的・経済的な支配など「犯罪」とは認定しがたい種類のDVがその分増えるだけ。つまりは単純な暴力による支配がより洗練された支配に置き換わるだけで、本質的に何も変わらない。そうした事実は加害者向けプログラムについてのさまざまな調査を見ればはっきりと分かる。

誤解をして欲しくはないのだけれど、「加害者完全悪論は解体すべきだ」というのは加害者の責任をうやむやにして良いということではないし、ましてや被害者の側にも落ち度があるということでも決してない。加害行為に対する責任は厳しく問いつつ、「完全悪」という言葉によって加害者となった人たちが「わたしたち」とは全く別の種族であるかのように想像力の圏外に放逐してはいけないと言っているのだ。また、「DVの犯罪化」路線に反対するということは、DVを犯罪として取り締まることの一切に反対という意味ではない。いつどういう形で加害者の責任を問うのか、そして加害者と別れるのかどうかといった決定を、できる限り医者や「支援者」や警察ではなく被害者当人が決められるような取り組みが望ましいと言っているのだ

その他の犯罪と比べてDVが特殊なのは、被害者が加害者と親密な関係にあり、被害を受けたからといって必ずしもそうした関係を全て捨て去りたいと思うわけではないという点だ。被害者が「別れたくない」と言うのを無理矢理別れさせるわけにはいかないし、被害者が望みもしないのに加害者を処罰することは、被害者の安全にかならずしも寄与しない。逮捕拘留もしくは処罰を受けた加害者がどういう常態で帰ってくるのか、それによって被害者の安全がどう脅かされるのかまで考えなければ処罰することが被害者の安全に繋がるかどうか分からないはずだ。
(略)
そして被害者当人の主体性を尊重するということは、単に何もせず被害者の思うままに任せるということでもない。先に述べたように、自己決定が本当の意味で自由であるためには十分な選択肢がそろわなければならない。それは例えば、精神的なサポートだけでなく法的・経済的な支援も準備することで、経済的な理由で加害者のもとに戻らなければいけないような状況(=ネオリベラリスティックな「不十分な選択肢の押し付け」)を解消するということも含まれる。それを実際に行なうのはまたとても難しいのだけれど、だからといって単純に「DVを犯罪として取り締まる」というだけの不十分な取り組みを「アメリカの教訓」などと宣伝しないで欲しい。
(macska、同記事)
*強調は引用者によるもの

この議論は、DVに対して警察の介入を考える際に、押さえられなければならない点が簡潔に示してある。今回取り上げるのは二点である。一点目は、「日本は遅れている」という言葉に惑わされないこと。二点目は、「被害者の意志」をどのように尊重するのか、ということ。では、この二点を、信田さんの主張と併せて考えてみよう。
 まず一点目。DV支援業界では、「日本は遅れている」という言説がよく飛び交う。とりわけ、米国と比較されることは多い。だが、米国のDV支援が持つ不備点を、(私が知る限りでも)macskaさんは10年近く日本語で指摘している*1。信田さんは、今回は東アジアを引き合いに出している。しかし、DV支援において、単純な比較や「○○をしているから、進んでいる」というような表現は、難しいだろう。たとえば、私はアフガニスタンの家父長制を利用したDV支援方法*2が、印象に残っている。これは、DV支援において、「(西洋思想的な)人権か、伝統文化か」というような二項の対立が、両者を混在させたままに、現場での柔軟な対応に回収されているようだと、私は感じた。もちろん、それはアフガニスタンにおけるDV支援に困難がない、というわけではない。ただ、この支援の話を聞いて、「○○の国のDV支援は遅れている」という語法は、どこから生まれるのだろうか、と考えさせられたということだ。他国との、DV支援の比較は重要である。また、日本のDV支援が不十分であるのも事実である。しかし、「遅れている」という言葉で脅したりせかすことはよくない。
 次に二点目。日本のDV支援業界でも、「被害者の意志」の尊重は重視されるようになってきた。かつては、相談に来た被害者に「DV(加害者)は治らないので、別れるしかありません」と言ったり、逃げないことはまるで悪いことかのように言ったりする支援者が多かった。また、なんでもかんでも男女差別に結びつけて、「男が悪い」を繰り返すことも多かった*3。「被害者の気持ちに寄り添うこと」が重要だとされ、無理に別れさせたり、介入したりすることなく、「本人の意志決定がスムーズに行えるように手助けすること」が支援の基本だということが少しずつ浸透してきた。
 そして、被害者の「逃げられない」という問題が心理面に限定されないように注意が払われる。「仕事がない」「お金がない」という経済面や、「離婚手続き」「住民票の手続き」「子どもの親権」「(外国人の場合の)滞在許可」など、法的面での問題により、被害者が「逃げられない」状況が作られていることが指摘されてきた。さらには、「DVとは何であるのか」について、社会の側がもっと理解する必要性もあるだろう。
 こうしたサポートにより、被害者ができるだけ自分に不利な選択をせずにすむような環境を整えることを目指す。もちろん、そんなことは一朝一夕にできることではなく、理想論である。が、そこに理想を置くことは大事だろう。
 では、これで話は解決で、「理想を高く持とう」という話なのか。そうともいかない。


 次に紹介するのは、macskaさんの2008年の記事だ。macskaさんは、行動経済学の研究成果をとりげている。

「DV研究×行動経済学−−ドメスティック・バイオレンス被害者が加害者の元に戻る理由」
http://macska.org/article/238

行動経済学の研究では、ノー・ドロップの制度を用いた実験している。ノー・ドロップ制度とは、DV被害者が警察に被害届を出した後、(通常なら取り下げできるところを)取り下げできないという制度である。macskaさんは、最初、次のように述べる。

わたしはかねてから、ノー・ドロップの制度は個別の被害者が置かれた状況よりも、被害者に対する「司法制度を振り回すな」という検察や裁判所の感情的な反発を優先したものであり、望ましくないと考えていた。あとで撤回ができないとなると、過剰なコミットメントを恐れて届け出ない人が出るだろうし、あるいは現実に依りを戻して元の鞘に戻った場合に、裁判が続行されることは被害者の安全を脅かすかもしれない。少なくとも安全を脅かすかどうか被害者本人が判断できないのはおかしい、と。
(macska、同記事)
*強調は引用者によるもの

macskaさんは、前記事でも述べているように、「被害者の意志」を尊重する点から、ノー・ドロップの制度は被害者の不利に働くだろうと、予想したのだ。ところが、予想に反して、ノー・ドロップの制度を導入すると、被害者からの被害届は増えている。macskaさんによれば、研究者たちは次のように解説する。

(前略)DV被害者も被害を受けた直後には「パートナーの元に戻ればまた暴力を受けるだけ、楽しかったあの頃には戻れない」と分かっているのに、次第に一人でいることの不安や寂しさから元の鞘に戻ってしまう、そしてそれを知っていてもどうすることもできない。しかしノー・ドロップ制度が導入されると、「被害届を出すこと」は「何があっても、自分の気持ちが変わっても、加害者の法的責任を追求する」ことにコミットすることと同義になる。そしてそれは、届けを出す時点において、あくまで加害者と別れたい、元の鞘に収まりたくない、と心から願っている被害者にとって、そうした意志を貫徹するための補助となる。

ノー・ドロップ制度が導入された結果被害届が増えたのは、DV被害者たちがそうしたコミットメント装置を望んでいるからではないか、というのが研究者たちの主張だ。つまり、ノー・ドロップ以前に被害者が保持していた「被害届を取り下げる自由」は、かえって「自分はどうせ後になれば被害届を取り下げるのだから、はじめから出さないでおこう」という形で届け出の件数を下げる働きをしていた。単純に被害者の自由を増やすべきだと考えていたわたしのような活動家は、DVという極限状況における被害者の心理を誤解していたのかもしれない。
(macska、同記事)

詳しい研究内容や、macskaさんの主張は元記事を読んで欲しい。macskaさんは次のように記事をしめる。

(前略)決して被害者のためを思って制定されたとは思えない制度が、行動経済学的な動機形成を経由してかえって被害者のためになっている(らしい)という逆説。そしてそれが、追いつめられた被害者によって殺害されるはずだった加害者の命を救っているという皮肉。こうした「意図と結果のズレ」を明らかにしてくれることが、わたしが社会政策の側面から経済学に注目する理由の一つだが、今回も活動家として「被害者の自由を主張すること」の意図せざる結果について考えさせられた。
(macska、前記事)


 私は、「結果はわからないものだ」とか、「理念は必要ない」とか、そういうことを言いたいわけでもないし、結論として「警察の介入だ」と考えているわけでもない。ただ、DV支援が、一筋縄ではいかない難しい問題だということを再確認したい。私は基本的には「被害者の意志」を最優先させることを、理念として持っておきたい。だが、同時に、それだけで押し切れるほど、単純な問題ではない。
 私は、2月10日の事件については詳細がわからないので、詳しい言及はできない。まず、「警察の判断で、DV加害者を逮捕できるような法改正」には積極的ではない。次に、ただその議論を、もっと社会的にしていきたいという希望は持っている。そしてこの議論の困難さこそが、DVの議論の困難さであり、そこをもっと周知させたいと思っている。今のところ、そう考えている。

追記

追加の記事を書きました。

「DVの加害者支援を視野に入れて」
http://d.hatena.ne.jp/font-da/20100213/1266038349

*1:最近のものはこちら→http://macska.org/article/235

*2:詳しくはこちら→http://d.hatena.ne.jp/font-da/20080129/1201606955

*3:この批判的な文は、「男女差別がない」ことや、「男は悪くない」ことを言っているわけではない。