エビちゃんと聖子ちゃん

 テレビをつけると、松田聖子藤井隆が真っ赤な衣装で2人で並んでCMに出ていた。バレーボール番組の司会をするらしい。
「聖子ちゃんが、バレェボールゥ?」
と呟くと、恋人も隣で
「聖子ちゃんも藤井君も、決してバレーボールは好きじゃないやろなあ」
と言ってました。
 ここのところ、テレビをつけるたびに、聖子ちゃんを目にするのですが、また出てきているらしい。聖子ちゃんといえば、小倉千賀子の「松田聖子論」。しぶといよなあ。聖子ちゃんがギリギリのラインで、今時のカワイサを押さえていることに感動すら覚えます。しっかり、エビちゃん風になってるんだもの。

 内田樹が、ゼミでエビちゃんの話が出たことを書いている。ゼミ生は、エビちゃんが専属モデルを勤める『CanCam』について、こう報告したらしい。

そのCanCamのコンセプトは「めちゃモテ」。
ただの「モテ」ではない。
「めちゃモテ」である。
「めちゃ」という副詞部分にオリジナリティはある。
JJのファッション戦略が「本命男性一人にとことん愛されること」であるのに対して、CanCamのめざすところは「万人にちょっとずつ愛されること」なのである。

内田樹「めちゃモテ日本」『内田樹の研究室』(http://blog.tatsuru.com/2007/06/27_1049.php

それに対する内田さんの分析が続く。

私はCanCam型の「みんなに愛されるラブリーな女の子」志向は、そのふやけた外見とはうらはらに、実は私たちの社会がより生きることがむずかしい社会になりつつあるという痛ましい現実をシビアに映し出していると思う。
「オレはオレの好きに生きるぜ」とか「美しい国へ」とか「国家の品格」とかというようなお気楽なことが言えるのは、社会が豊かで、どう転んでも飢える心配がないときだけである。
逆に、「みんなに愛されたい」というようなプリティなことが繰り返し表明されるのは、そうでもしないと生き残れないというくらいに私たちの社会がリスキーなものになりつつあることの現れである。

(同上)

これはあたっていると思うが、その「めちゃモテ」戦略の限界も既にみえている。
 以前も書いたけれど、エビちゃん並にカワイイ私の友人はまさに「みんなに愛される」が、「ココゾという時には愛されない」という恐怖に怯えている。「みんな私をかわいい、優しいというけれど、私を一番に選ぶ事はない」というのが、彼女の悩みである。
 kanjinaiさんが昨日のエントリで男の子たちも、女性から欲望の視線を意識して自我を形成していく側面強くなっていくだろうことを書いている。ここに引用されている信田さよ子の記事は、オバサンたちが欲情する王子(ハンカチ王子)について書かれている。
 ここで、また目の前でついてるテレビに目を移すと、オバサン代表みたいな細木和子が、王子代表みたいな滝沢英明と一緒に番組*1をやっている。細木さんは、タッキーを愛玩物として司会に置いている事を明言している。
 それで、大人しいタッキーなのかと思うと、結構突っ込んだり、三枚目に徹していた。やはり、タッキーくらい王子が板についていると強いなあ、と思う。なんてったって、タッキーは王子歴が長い。多少道化たって、王子には変わりないのだ。聖子ちゃんが、エビちゃん風にしたって、やっぱりお姫様な聖子ちゃんであるのと同じだ。

 私は他の女の子たちがエビちゃんで行こうが、聖子ちゃんで行こうが知ったこっちゃない*2が、エビちゃんが圧倒的に有利だとは全然思わない。しかし、どこかで上手くかじを切らないと、船が沈み始めた時に、逃げ出せなくなる。
 大事なのは、今の戦略は、今の戦略。戦略を通す事にこだわらず、生き延びることにこだわることだ。

*1:苦手な番組なんだけど、梅宮アンナのDV話が出ると思うと、見ずにいられなかった…見なきゃいいのに、私も…なあ。でも私がもし被害者で、細木さんと信田さんのどっちかを援助職として選ぶなら、細木さんかも。どっちも選びたくないが。洗脳(信田さんは被害者を洗脳するんだって明言するんだよ、怖いよねえ)されるよりは、笑いにもってってもらたほうがいいよねー。

*2:私がやっぱり愛好するのは小泉今日子のポジション。そして、それを引き継いだように見える松浦亜矢。最近、あややが勢いないので寂しいです。