「ソフィーの選択」

 友人に借りたビデオだったが、ずっと部屋の隅に積んでいた。しかし15日に、エイヤッと思ってついに観た。
 アメリカを舞台に、小説家を志す主人公が、風変わりなカップルとブルックリンでの生活を送るストーリーである。カップルには様々な謎や秘密があるのだが、女性側のソフィーに主人公はひかれていく。ソフィーはポーランド人で、アウシュビッツを生き延びてきた。
 映画の最大の山場は、ソフィーが、誰にも言わなかったアウシュビッツでのエピソードを主人公に告白する場面である。ソフィーは二人の子どもをつれて、アウシュビッツに収容される途中で、兵士に話しかけられる。兵士は、娘か息子のどちらか生かすほうを選べ、と命じる。一人は手元に、一人はガス室に。ソフィーは選べないと拒絶する。では、二人とも殺す、として子どもを奪われたとき、ソフィーは「女の子を連れてって!」と叫ぶ。娘は兵士に担がれて、そのままガス室に送られ、ソフィーの苦痛に満ちた叫びがアップで映し出される。
 この映画を、アレンカ・ジュパンチッチは「リアルの倫理」で細かく分析している。どちらも選べない、という状況で、ソフィーは選ばざるを得なかった。この選択の自己決定をどう見るのか。

(以下追記です)(2007/08/31)
 重要なのは、ソフィーは、アウシュビッツを逃れ難民キャンプに保護されてから、自殺を試みるということである。死に瀕した最悪の状態では生き延びる。ところが、安全が確保されると、生きていられないような精神状態に追い詰められる。
 究極の選択を迫られることがある。そこで、とられた選択は、なんであれ、批判しようがないだろう。誰がソフィーの選択を責めることができるだろうか。ソフィーに寄せられるべきは同情である。しかし、世界中の人たちが、ソフィーに「あなたは悪くない」ととりなしても、ソフィーは絶望から救われないだろう。たとえ、どうしようもない悲惨な状況であっても、選んだ責任からソフィーは逃れられないのだ。
 ソフィーは、選択してしまった。その結果は、自分でしか背負えない。誰にも肩代わりしてやることはできない。そして、その過去はソフィーを、終生にわたって苦しめる。
 ソフィーを責めるのは、ナチの残党でもポーランド人差別でも社会全体でもない。自分自身である。この、最も厄介な自分の取り扱いに対して、ソフィーは限界を感じる。彼女に手を差し伸べることができる他者はいるのだろうか。
 主人公は、手を差し伸べようと試みたが、ソフィーはするりとその腕から抜け出て、元の恋人のもとへ戻った。その結末は、映画を見るとわかる。

 本筋とは関係ないが、主人公が「結婚しよう」と言った直後のソフィー(演じているのはメリル・ストリープ)の表情がすごい。私は思わず、息を呑んで下を向いて目をそらしてしまった。この表情こそが、ソフィーの選択の重さを体現しているように、思う。