ビョン・ヨンジュ「ナヌムの家」

 これも私にとっての課題だったので、ビデオでみた。*1この映画は、証言を扱ったものだが、「ショアー」とは全く趣が違う。「ショアー」が映画を通して、「真実の探求」を行ったのするなら、「ナヌムの家」は「真実を探求する行為」を追ったものだ。
 もちろん、政治的メッセージははっきりしている。元慰安婦たちが、日本に対して賠償請求することを、後押ししている。元慰安婦たちの生々しい証言も語られ、彼女たちの辛さが描かれる。また、過去の経験が彼女たちを傷つけただけではなく、その後の人生にも影響を及ぼし、貧困の中を生きていることが伝わってくる。
 それは、大前提なのだが、映画としてのよさは他にもある。彼女たちの生活は、元慰安婦としてだけのものではない。ご飯を食べ、雑談し、一人で花札をめくり続ける。「死にたい」と言うおばあさんに対して、別のおばあさんが「じゃあ、今、くたばっちまえ」と軽口を叩く。生半可な人生ではなかっただけ、這い上がる強さも滲み出る。
 「もう何もいらない。食べ物も、服もいらない。ただ、死にたい。」と訴えるおばあさんに、胸がつまり涙が出そうだった。しかし、おばあさんは続けて「一度だけ、良い服が着たい」と訴える。切実なだけに、胸はつまりっぱなしだが、「あれ?さっきいらない、って言ったよなあ…」と、私は思ってしまう。でも、そのあたりが生々しい。どっちも、彼女にとっては切実な望みなのだ。一貫性などない。彼女たちは、被害者だから可哀想だということはありえても、可哀想だから被害者だということはない。「可哀想さ=同情しやすさ」は、被害かどうかの根拠にはならない。
 終盤のナヌムの家で開かれた宴会のシーンは圧巻である。酔っ払ったおばあさんが、運動を先導する女教授に絡みまくる。出て行こうとする教授たちは、おばあさんたちを丁重に扱おうとするが、すればするほど、彼女たちの毛皮のコートが目立つ。元慰安婦として闘う人と、知識人として闘う人。共闘していても、そこには圧倒的な格差がある。
 監督は、その矛盾を隠さず撮った。プロパガンダだという側面は、なくならない。それでも、プロパガンダという側面を強化するのではなく、プロパガンダ…?とクエスチョンマークを入れていく撮り方が試みられている。
 このあと撮影された「ナヌムの家2」は、さらに面白いと噂で聞いている。とっても観るのはしんどいが、それでも観たいと思った。証言としてももちろん、重要な映画だが、それ以上にドキュメンタリーとして面白い作品である。

*1:ものすごくしんどかったので、しんどいメーターが振り切れて、「えいや」と観た。文献で、主な内容は知っていたが、やはりこの問題の証言をフィルムで観るのは、覚悟がいる。